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言葉と記憶による制限(進化の代償)

 
 今日は、人間が進化の過程で手に入れてきた能力で、逆に制限されてしまっているということについて、僕なりの考えを書いてみたいと思います。

 人間が、動物と比べ、飛躍的に発展できた一つの理由として、「知性」を手に入れたということが言えると思います。
 では、知性とは何かという事なのですが、「我おもう故に我あり」とは言ったもので、考えることができるようになったという事だと思います。

 では、「考える」上で、非常に大切になるのは何かというと、やはり「言葉」というものが大きいと思います。

 「言葉」というものができるまでは、人に自分の考えを伝えるときにも、物を介さないとできなかったわけです。
 例えば、「熊」ということを伝えたくても、熊そのものがないと伝えられないわけですよね。
 おそらく、そこから、絵をかいたりする中で、それが単純化され、音と結びついて言葉、言語として発展していったのかもしれません。
 その辺の文字や言語の発達については、詳しくないので、あくまで予測の話ですが。

 ただ、言葉をつかえるようになったことで、例えば抽象的な概念、「友情」とか「愛」とか「苦しみ」なんてことも、言葉を使って、人に表現することや、自分の中で思索をめぐらせることができるようになったわけです。

 そして、もう一つ、「記憶」という重要な能力があります。
 これ自体、言語を用いなくても、映像や感覚そのものとしての記憶もあるので、「言葉」とは別の能力かなと思ったのですが、この「記憶」の能力ができたことで、僕らは、危険を予測して回避することができるようになったわけですうね。
 「過去にこういう状況で獣に襲われた」という記憶があるから、同じような状況では、早めに対処することができるわけです。

 この二つは、人類の進化にとって、かけがえのない能力であり、今の大切な能力ではありますが、この能力が高まりすぎて、身近になりすぎて、逆にその能力に縛られて苦しむようなことが起こってきてしまいます。

 というのは、「言葉」はデジタルであり、現実そのものではありませんし、「記憶」ももちろん現実そのものではなく、バーチャルなものなんですね。ただ、それをついつい我々は実体のあるものと勘違いしてしまうんですね。

 例えば、「茶色」という色があったとします。このこの言葉があるから、僕らは、目の前に「茶色」の色がなくても、相手にこの色のことを伝えることができます。
 しかし、「茶色」という色は、現実には、無現にあるはずですよね。明るさ、濃さ、黄色っぽい、赤っぽいなどの色味など、僕らが日常でであう「茶色」は、千差万別で、決してひとつとして同じ色はありません。でも、それをいったら僕が伝えたい「茶色」は永遠に、正確には人に伝えられません。100%同じ色はないのですから。でも、自分の中では、「茶色」という言葉を付け、ある種の色味のものが、「茶色」という言葉と定義づけされて、自分の中に記憶として蓄積されています。それを私自身は「茶色」と名付けているわけです。もちろん、細分化すれば「こげ茶」とか「薄茶」とか、さらなる細分化はできますが、それが「言葉」である以上、現実にある色そのものではなく、そんな茶色たちの様々な違いを切り落とし、同じ「茶色」という言葉の枠組みに入れてしまっているわけです。そして、その枠組みに入ってしまった瞬間に、意識の中では同じ「茶色」というものとして、扱われてしまいます。
 ここに、現実と「言葉」「記憶」に大きな隔たりができるわけです。
 これは、音楽を、細かく切り刻み、デジタル情報として録音している今の技術と基本的には同じです。
 そのほうが、加工したり伝えたりするのには便利ですし、必要なデータスペースも少なくて済むからです。省エネですね。

 実際、このようにデジタルである言葉を駆使したからこそ、人間は複雑なこと、抽象的なことも思考をめぐらせ、考えを深められるようになったわけです。

 ですが、「言葉」に変換されてしまった瞬間、現実そのものから、とても多くの情報が失われていることに気を付けなければなりません。

  例えば、朝、食卓にのぼったパンを見ます。「その瞬間に、あー今日もパンかー」と思ったとします。
 その人の目には、今日そのときの「パン」が映ったはずです。しかし、それが意識された瞬間、それは、「パン」という言語情報に変更されます。そして、その瞬間、以前にパンを食べたときの「記憶」が思い起こされ、今みたパンから、「記憶」の中のパンと情報がすり替わり、意識には、もう、「過去の経験から蓄積された自分の中の情報にあるパン」にすり替わってしまいます。

 この過程は瞬間的に起こっているため、ほとんど意識はされません。

 もしかしたら、今日見たパンは味が違うかもしれません。実はパンのように見える作り物かもしれません。
 我々は、毎日、現実を見ているはずなのです。でも、意識がそれを許しません。
 現実を見ているつもりで、言葉や記憶によって作られた映写機から投影された映像を見ながらそれが本物だと思って生活しているようなものです。

 パニック障害なので、不安がよみがえったり、フラッシュバックなどはその典型的な例ですね。
 些細なきっかけから、それが意識された途端、過去の記憶や感情、感覚が一気によみがえり、現実に起こっていることは些細なことなのに、意識の中では、過去に起こった不安の発作や記憶、感情・感覚そのものが、まるで「今、ここ」で起こっているかのようによみがえってしまいます。

 人間関係においても、そうです。「また、この人、こんなこと言って」と、いつものように受け取ってしまいますが、その言葉は、もしかして、「今、ここ」にしかない重要な表現を含んでいるかもしれません。以前、聞いた言葉と、今聞いた言葉は、果たして同じものかはわかりません。でも、ついつい僕らは、自分の解釈、自分の中で自動で行われた変換の結果を、「今ここ」にあてはめようとしてしまいます。

 これは、人間が進化する中で獲得してきた能力ですので、それ自体が悪いものではないですし、それを止められるものではありません。 「あいうえお」という文字を、ただの図形として眺めろと言われても、日本人で文字を学んだひとではそれは不可能ですよね。

 でも、それ自体は止められなくても、こういった変換が行われ、ついつい「今、ここ」の現実を見逃してしまっていることに、「気がつく」ことはできます。

 それが、マインドフルネスです。

 「今、ここ」に意識を向けるトレーニングをする中で、自分の中で行われている様々な変換や勝手な解釈に気づいていく。
 これは、まさにSIMTでやっている実践そのものです。

 そして、こういった自分の解釈や変換の特徴に気づくことができれば、それを止められなくても、その解釈や変換した結果を、手放すことができるようになってきます。
 これが、マインドフルネスのすごいところです。

 そうすることで、自分の思い込みや自動思考から解放されていき、不安や苦しみ、そういったものから自由になっていくことができます。

 今日は、「言葉」「記憶」」というものから、どうやってそれらに人が縛られてしまい、マインドフルネスはそれをどう改善させることができるかということについて、僕なりの視点で書いてみました。

 勝手な持論を展開してみましたが、もし、少しでも面白いなと思っていただければ幸いです。

 ではでは、スローペースですが、今後も少しずつ更新していきたいと思いますので、よかったらまた訪問してください。
 

意志作用の使い方(実践の葛藤や苦しみをなくすために)


 2月も忙しく終わってしまい、更新が1か月空いて、スポンサー広告が載るようになってしまいました。

 これで、諦めずに地道に更新をしていきたいと思います。
 
 今日は、意志作用の使い方という点についてです。
 以前のブログ記事、{否定してしまう自分を否定しないこと」で、結構、皆さんにコメントを頂き、多くの方が同じように悩んでいることを知りました。
 その点について考えて、2月は文章をまとめていまして、今後、ある雑誌に載せてもらえる予定です。そこで考えたことを今日は少し書いてみますね。

  SIMTの実践を始めたときに、皆さん、「願い」というのがあると思うんです。ほかにも実現したい「価値」というのも。
 「早く治りたい」「元のように元気にくらしたい」「今のつらい状況から抜け出したい」
 いろいろあると思うんです。

 SIMTを実践し継続していくために、その願いはすごく大切です。それがモチベーションになるからこそ続けられるわけです。
 でも、その気持ちが強すぎると、それ自体がSIMTを実践し、マインドフルな状態を習慣づけるための障害となってしまいます。
 そこで、ではどのような方向性で、実践をすすめていったらいいのか、その点を書いてみたいと思います。

  まず先ほども書いたように「願い」「価値」といったものは、実践を続けていく上で、すごく大切です。
 だからこそ、セッション4でもこの「価値」「願い」を確認し、実践を続けることを決意するような課題が取り上げられているわけです。
 でも、僕自身、この課題をやるときに、少々苦しかった記憶があります。
 「がんばれ、がんばれ」と自分に喝を入れているようで。
 それまでも、今の自分を「こんなんじゃダメだ」と繰り返し否定して、「もっとがんばらないと」と生きてきた結果が、うつ病であり、どうにもならない体調の不良だったので、それを、もっとがんばれ、やる気を出せ、と言われているようで、自分で課題をするのがちょっと苦痛だったように覚えています。

 皆さんがそう感じるかはわかりませんし、実際、その「願い」を再確認し続けることは、大切だと思うのですが、自分が最初に思っていた「治りたい」とか「早く良くなりたい」といった理想そのものを、そのまま、今すぐの「価値」「願い」にしてしまうと、苦しくなってくるように思います。
 マインドフルネスを身に着けるためには、まず、この「願い」「価値」を持ちつつも、実践をするときは、一度、それを横において、日々の課題を淡々と行っていくようなことが大切です。

 なぜなら、「価値」「願い」にすぐに近づきたいというのは、「今、ここ」にない状況を自分の頭の中で作り出し、それに自分を近づけようとする作業です。それに対し、マインドフルネスとは、本来、「今、ここ」にない頭の中の勝手な思考や妄想、評価や判断から離れ、「今、ここ」の瞬間に、ありのままの注意を向けることです。
 よく解説本では、「することモード(doing mode)」と「あることモード(being mode)」などと書いてあったりします。

 最近では、一般に「マインドフルネス」という言葉が広がっており、「1日5分の実践で負けない心を作る!」とか、「人間関係が改善するマインドフルネス!」などといったキャッチ―なコピーが本屋でも並んでいます。(今の例はあくまで私の想像です)。

 しかし、「~になるための」というのは、まさしく、「することモード」なわけです。
 今の社会では、この「することモード」が良しとされています。
 目標を立て、それを実現するために、努力する。それを実現するために、無駄を見つけ、判断し、効率化していく。
 そういったことが、学校教育から仕事のレベルまで、あらゆるところでよいこととして、実践されています。

 それ自体が悪いことではないんですが、結局、ストレスとか葛藤というのは、その目標、ゴールと「今ここの自分」の差によって生まれます。目標が高ければ高いほど、「今の自分」からの距離が遠くなり、努力によって埋めなければいけない差も大きいですから、そこに苦しみが生まれます。さらに、今の自分は、ゴールから遠いところにいるわけですから、自己評価も低くなり、常に「自分はまだまだだめだ」という意識が生まれます。
 僕自身も、そういう生き方が良いと思っていたし、それを達成できないのは、自分が弱いからだと思っていました。

 うつや不安障害になる人は、基本的にこういう思考になりやすいと思います。
 その結果として、病気になっているわけですから、同じ方向性で問題を解こうとしても、より問題が大きくなること、複雑かすることはあっても、解決することは期待できないように思います。

 あることモードとは、「今、ここ」の自分を、そのままとして、見つめてあげることです。一度、自分自身の評価や、なりたい自分というのを横において、「ありのままの自分」をみてあげることです。この時、以前のブログにも書いたように、「自分を否定したり評価してしまう自分も、否定しない」ということが大切です。「今は自分はこのレベルなんだ、それが精いっぱいなんだ」と認めて、では、その中でできることはなんだろうと考えると、「淡々と課題を実行していく」ことになるわけです。
 そうすると、何にも変わらないように感じてしまいますが、「今、ここ」の自分を丁寧に洞察していくことで、今まで気が付かなかった自分のいろんな特徴が見えていきます。
 今まで「することモード」で、目標を目指すという生き方では、無駄と思われていたり、評価されなかったこと自分の特徴に、気づくことができるようになってきます。それは、考えることでわかるものではなく、ただただ実践を続けていくうちに、ふっと向こうから語り掛けてくるように、ある時、突然気が付けるものです。

 その方向性が大切なんですね。

  SIMTでは、意志作用を機能的に働かせられるようにトレーニングすることで、うつ病や不安障害からの改善を目指します。
 この時、意志作用のトレーニングというと、ついつい「強い意志をもって、断固として実践を続ける」「何事にも負けないように、意志を鍛える」と勘違いしてしまいますが、そうではありません。
 意志の力を、「今ここにないものを目指し、そちらに自分を合わせる」という方向に使うのではなく、常に「今、ここ」にあるものをただ観察、洞察するという方向へ働かせてあげます。
 感情が動いても、「あ、今、どんな風に動いたかな」「どの程度、動いたかな」、体調が悪くても「それをどこでどんな風に感じているかな」という風に。

 ただ、もし、体調の波が来たり、発作が出たりで、「今、ここ」の観察がつらいときがありますよね。
 そんな時は、どうするか。
 この時に、「なんでこうなってしまったんだろう」とか思考をめぐらすと、かならず体調は悪化してしまいます。
 その時は、観察が難しければ、「今、ここ」の呼吸や身体感覚、目に見えるもの、傾注観察などの方向に意志作用を働かせ、波が去るのを待ってあげるのが良いです。セッション1、2くらいで学ぶ、基本的なスキルをうまく使うわけです。

 観察するときのポイントは、常にHOW(どのように)とかWHAT(何が)、WHERE(どこで)とかの視点が大切です。
 WHY(どうして、なぜ)というのは、理由を考えるために思考のどつぼにはまっていくので、おすすめできません。
 HOWとWHYは似ているのでややこしいですが、あくまで視点は「今、どのように作用しているのか」を見ていくのが大切だと思います。WHYを用いて過去の理由を深く探ってもあまりいいことはないように思います。

 意志作用を、どのように使っていくか。これが、葛藤や苦しみを低減させるために、結構大切だと思うんですよね。
 今日は、簡単にそこを解説してみました。

 あることモードとすることモードの違いや、マインドフルネスではなぜあることモードが大切なのかということについては、背景にある仏教的な哲学を掘り下げていくと、よくわかるのですが、それは少し難しい話になるので、次回にしたいと思います。

 では、今日はこの辺で。またちょくちょく更新していきたいと思うので、ぜひお時間のある時にお立ち寄りください。
 ではでは。
  
 

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体調の波を乗りこなすために(SIMTを学んで生きやすくなることとは)

  
  今日は、SIMTを学んで生きやすくなるとはどういうことなのか、ということを説明するときに、いいたとえ話を思いついたので、書いてみようと思います。

 それは、以前も、SIMTを身につけるということは、泳ぎや語学を身につけるのと一緒で、実践して、それを実際の生活の中で行えて初めて身につけたといえるということを書いていたと思います。
 知識として知っているだけでは、本を読んで学ぶだけでは、絶対的に手に入らないものがあるということですね。
 
 今回も、この泳ぎに例えて話を進めていこうと思います。

  うつや不安障害で苦しいとき。それは、本当におぼれているようです。感情や体調の波にのまれて、自分ではどうにもなりません。
 息継ぎもうまくできず、ただもがくだけです。

 SIMTでは、まず、簡単な呼吸法を学び、実践をするところから始めます。これは、呼吸を用いて、洞察、観察するスキルを磨いていくという目的もありますが、ゆっくり呼吸法を行うことで、呼吸の力を使って心や体をある程度落ち着かせていくという意味合いもあります。
 つまり、セルフレスキューを学ぶということです。
 泳ぎを覚えるときでも、まず、体の力を抜いて浮くことを覚えますよね。水を怖がって全身がちがちの状態では、泳ぎを覚えようとがむしゃらに手足を動かしても、それはおぼれて、沈んでいくだけです。そして、浮かぼうと思ってもがけばもがくほど沈んでいきます。 しかし、たとえおぼれかけても、すぐに力を抜いて浮かぶことを覚えていれば、一度、浮かんでゆっくり呼吸を整えてから、また泳ぎの練習に取り組むことができるわけです。

 SIMTでも、この呼吸法、そして、意識がほかに向いたとき、感情に持ってかれそうなとき、呼吸に意識を向けるようにすることといった基本的なスキルは、まず、体調を安定させるため、洞察を深めることを学ぶ上で、大前提になります。実際に、僕も、この呼吸法など基本的なスキルをやりはじめて、すぐにある程度の体調の回復を実感できました。
 そして、その土台の上で、まずは、心理現象の名前付け、感情の連鎖の観察、作用と対象の観察など、泳ぎで言えば、基本的なバタ足や手の動かし方などを、セッション2~4くらいで学んでいくことになります。

 ある程度の回復というのは、あくまでも浮かぶ、基本的な手足の使い方ということだけなので、ちょっとした体調の波やイベントがおこると、やっぱりすぐにその波に飲み込まれて溺れかけてしまうんですね。
 そこで、まずは、静かな環境や家庭での基本的な生活の中で、これらのスキルを磨いていくことが大切です。
 泳ぎを学ぶときに、いきなり荒波の中に出るのではなく、最初は、プールや浅瀬、湖など、穏やかな水面で練習をするのと一緒です。
 ここで、大切なのは、波にのまれて溺れかけてるなと思ったときは、無理にそれ以上洞察を深めようとせず、基本的な呼吸法に戻って、波が過ぎ、体調が落ち着くのを待つのが大切です。
 波の中で、無理に体調を戻そうともがいても、おぼれているときに手足をバタつかせて沈んでいくのと一緒です。
 体の力を抜いて、自然と浮かび上がってくるのを待ってさえいれば、かならず、また落ち着いて洞察の練習を始められる時がきます。

 そういったように、泳ぎの練習をしていくと、穏やかな波の中では、だいぶ上手に泳げるようになってきます。
 日常生活程度であれば、大きな体調を崩さなくなってきた時と同じです。
 
 でも、そこで治ったわけではないですよね。仕事をしたり、家事をいろいろと始めたり、子供のことで誰かとかかわったり。
 活動を広げていくと、様々なことが起こってきます。
  波のない浅瀬から、外洋に泳ぎ出していくわけです。
 そうすると、今まで思いもしなかった波が生じてきます。ただ、普通に泳ぐつもりが、波のせいで水を飲みこみ、急に苦しくなったり感じることがあるかもしれません。波に押し戻されて、進んでいないように感じるときも多いはずです。
 ここでいう、波は、外的環境や起こってくるイベントだけではありません。自分自身の体調、思わぬ病気などもあります。
 たとえ、自分の身体だとしても、感情や身体は自分でなんでも思い通りになるものではありません。大自然に属するものです。
 海の波を意のままに動かそうとしてもできないどころか、おぼれます。それと同じで、身体や感情は、自分でコントロールできない大自然の営みなんだとみなすことが大切に思います。
 
 そして、ここでも、大切なことは、まずはセルフレスキューです。これ以上の大波は危険だと思ったら、穏やかな浅瀬に戻ってくることも必要です。そして、波に体を持ってかれないように、一時的に泳ぐのは中止して、ただ体を浮かべて呼吸に集中することも必要でしょう。かならず、波が過ぎれば、また、泳ぎ出せるタイミングはやってきます。嵐の中に無理に海に出ていくのは、おぼれにいくようなものですね。

 しかし、そういった波に溺れかける経験もしながら、自分の泳ぎを見つめていくと、泳ぐコツがだんだんわかってきます。どういう波の時は進みやすいのか、受け流せるのか、そして、波の中ではどのように腕や足を動かすとより効率的なのか。
 そういったことが、波の中で泳ぐ経験の中から、徐々にわかってくるんですね。
 それは、穏やかな浅瀬にいるだけでは決してわからないものです。波の中で、時には溺れそうになりながらも経験をして、初めてわかってくるものです。
 これが、セッション後半にでてくる本音の観察といったところです。
 実際の生活で、活動の幅が広がってくると、自身の疲労、気持ちなど様々な揺れ動きがあります。
 それ自体は、とてもつらく感じます。今まで、できていたことが、急にできないように感じにもなります。
 そこで、大切なのが、無理をせず、引くところは引きつつも、丁寧にその波の中で起こることを、観察、洞察していくことです。
 それが無理なほど波が大きいときには、休息をとって浮き上がるのを待つことも大切です。でも、そんな中でも、観察を続けていくと、自分の中の様々な本音や特徴が見えてきます。それ自体は、まったく悪いものではありません。
 それは、押しては返す海の波と一緒です。その波に合わせて手足を動かし泳いであげることが大切です。

  それを繰り返していくと、どうでしょう。
 いつの間にか、ある程度の波の中でも、自分の思う方向に、泳いでいけることができるようになってきます。そして、どのような波が安全で、どのような波であれば、避難したほうがいいのか、自然とわかってくるようになります。
 このレベルになると、もう、波はそれほど怖いものではありません。もちろん、波自体は、一回一回、同じものはありませんので、そのたびに意識を向けて対応する必要はあります。でも、新たな波と出会うことで、新たな泳ぎ方を発見でき、むしろ波を楽しむことができるようになってきます。
 このレベルになると、泳げないとは言いませんよね。むしろ泳ぎのが得意といえるかもしれませんん。
 SIMTの実践を続け、セッションが終わってからも、丁寧に自分の生活の中で起こってくる様々な変化の波を潜り抜けていくと、少しづつですが、このような状態になってきます。おそらく、このレベルになったら、うつや不安障害は治癒といっていいレベルではないでしょうか。むしろ、病気を経験しなかった人より、より生き方が上手になっているかもしれません。

 さらに上達すれば、様々な波を自由に乗りこなせるようになり、そうなると、波自体を利用して、自分自身の本来の力よりさらに上のパフォーマンスを発揮できるかもしれません。
 本当に波乗りの上手な方は、まるで波を自在に操り、思いのままに波を操っているようにさえ見えるでしょう。
 でも、そんな人でさえも、波自体を起こせるわけではないんですね。ただ、ひとつひとつの波に対し、適切な対応の仕方をしっているから、体の動かし方をしっているから、その波を利用し、自分の思った報告へ移動していけるわけです。それを他人からみると、自在に波を操っているように見えるわけです。

 一流のスポーツ選手、パフォーマー、仕事人に、そういったことが言えるかもしれません。様々なプレッシャーや、思いもよらないアクシデントを、逆に力に変えて、自分の力以上のものを発揮できる。そういった人ですね。
 もちろん、そこには運の要素はあります。
 どんな波のり名人でも、風がまったくない日に波にのるは不可能です。しかし、自分の身体の動かし方、波の乗り方を真にきわめていれば、ほんのわずかな波にでも、より効率的に乗ることができるでしょう。

 今、病気で苦しんでいる方にとっては、このようなことは無理な話に聞こえるかもしれません。
 でも、SIMTを丁寧に実践していった先には、これくらいすごいことが待っていると僕は思うんです。
 ただただ、洞察と観察を、すべからくすべての範囲で実践していくことができれたら、きっとこうなっていけるのではないかと信じています。

 もし、自分がつまずいたように感じたら、自分が今、書いたような途上の中の、どのあたりで波にのまれたのか考えてみるとよいのではないでしょうか。
 無理をする必要はありません。難しいときは、力を抜いて呼吸法に戻りましょう。
 そして、気が向いたときは、大きな波にチャレンジしてみるのもいいと思います。戻るときも、進むときも、そのすべてが経験になります。

 今日は、泳ぎを覚える、そして波に乗れるようになるといったことに例えて、SIMTの実践とその上達の仕方を書いてみました。
 僕としては、結構しっくりくる例え話だったのですが、いかがだったでしょうか。
 
 もし、少しでも参考になるところがありましたら、うれしいです。

 よかったら、また読みに来てください。

 ではでは今日は、この辺で。またよろしくお願いいたします。

 

身体感覚と心(感情)は同じもの

 あけましておめでとうございます。今年も、少しずつではありますが、自分がマインドフルネスを通して気づいたことを、気のままに書いていこうと思います。
 よかったら今年も、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 さて、今日は、身体感覚と心(感情)は、同じものらしいよ、ということについて書いていこうと思います。

 このことは、以前、ほかのブログ記事でも少し触れたことがあった気がしたのですが、ちょっとどの記事だったのか、自分でも思い打だせませんでした。。。。
 気がつけば、記事もだいぶたまってきていて、自分でどの話の中で書いたのかわからなくなってしまいました。
 まあ、同じ内用もあると思うのですが、自分としては、SIMTの実践においてすごく大きなヒントとなったので、改めて記事にしてみようと思います。

 僕が、この「心(感情)と身体感覚は突き詰めると同じものである」というのを読んだのは、以下の本でした。
 
 

 マインドフルネスの領域ではかなり有名な先生の書いた本ですが、僕自身、普段から身体操法といったような、本来の身体の使い方などに興味をもっていたので、この本をふと手にとったのですが、とても興味深い話がいくつかありました。

 その中のひとつが今回のテーマなのですが、詳細は本を読んでいただきたいのですが、心理現象のもとを突き詰めていくと、最後には感覚にたどり着くということです。
 何を言いたいかというと、ついつい僕らは、頭で認識し、認識したから心が反応し、その結果として身体反応が起こると考えがちで、つまり、認識や感情が主であって、それによって生じる身体感覚は従と考えがちですが、そうではなく、身体感覚があってこその認識や感情というものだということです。もっと言うと、感情=身体感覚ということであり、つまり、身体感覚を伴わない感情はありえないし、身体に反応があるときには、そこにかならず感情や意識の変化があるということです。
 つまり、肩や首のなど出現の仕方には個人差があるかもしれませんが、筋肉の緊張がないところには、精神的な緊張は起こりえない、腹を立てずに怒ることはできない、そういったことです。

 これ自体、心理学の中でも今でも論争のあるところのようですが、僕にはこの考え方がすごくしっくり来たんですね。
 SIMTを実践して、今、自分に起きていることを洞察していくようになると、自分の意識が、自分の感情を認識するまえに、身体感覚に気づくことで自分の感情に気づいたといったことがたびたびあったからです。
 
 具体的に言うと、家族に言われた一言に「そんなことないよ」と答えたとき、その瞬間に自分のお腹の上あたりからのどのあたりにカーッと熱い感覚があり、その感覚に気が付いたときに、「あ、これは怒ったときに僕の身体にでる反応だ!」と気がついて、初めて自分の中の怒りの感情に気がつき、「僕は、この発言を聞いて怒りの感情を起こすんだ」と、ちょっと他人事みたいに、自分の特徴に気づくようなことが何度かありました。
 そして、そのどれもが、自分にとっては非常に貴重な気づきとなりました。

 一口に、身体感覚=感情といっても、なかなかわかりにくいと思いますが、生物が進化してきた道筋を考えると、すごく理解しやすいと思うんです。そこを少し解説してみます。

 まず、この世に生物が細胞と呼べるもので生まれたとき、何より大切なのは、やはり自己保存、つまり生きるということだったと思います。つまり、自己保存のために自己を保存しコピーを作っていかなくちゃならないと。
 そして、そうするために養分として、様々な物質を取り込まなくちゃいけないわけです。
 その物質を取り込むのに、自分がある場所に来たものをただ受動的に取り込んでいくといったスタイルから、徐々に、自分から「動いて」栄養を取り込みにいくものが出てくるわけです。
 前者は植物であり、後者は動物となっていきます。
 動いて栄養物を取り込むために必要なものは、動くための装置と、動いた先にあるものが栄養なのか、それとも危険なものなのかを判別する装置が必要になります。
 動くための装置としては、鞭毛や線毛といったものが発達し、後々、僕らの手足のようなものになっていくわけです。
 そして、栄養なのか危険なのかを見分けるために必要なものとして、感覚器官が発達してきます。
 最初は、そこに物質があるのかないのかを判断するだけの触覚みたいなものであったかもしれません。しかし、命を守るために、危険なものなのかを知るために、ただの触覚から、痛みの刺激や温熱を感じられる感覚、そして味としての味覚なども発達してきたでしょう。
 そして、様々な感覚器官が発達してくるにしたがって、それらの情報を統括し、処理するシステムが必要になるわけです。
 そうやって、末梢の感覚器官に対し、中枢神経、つまり脳が発達してきたと考えられます。
 そして、そういった情報を統合して、ひとつの答え、つまり戦ってでもそれを取り込むのか、それとも排出する、もしくはその場から逃げるのかといった答えを効率よく出すために、感情、つまり「心」、そして「意識」が発達していったと考えられるわけです。

 そう考えると、自分の心や意識の特徴をより良く知るためには、それ自体を生み出してきた、「身体感覚」をよく知ることが近道なんじゃないかと考えられるわけなんですね。

 実際、僕がSIMTをやる前は、自分の身体感覚や身体反応なんかに意識を向けることはあまりありませんでした。
 目で見たり、耳で聞こえたりすることには意識を働かせても、自分の身体が今、どのように感じているのか、どのように反応しているのか、といったことにはあまり注意を払っていなかったように思います。時々、強い痛みを感じたり、体調が悪くなったりしたときだけ、そういった場所に、普段以上に注意が行ってしまうというくらいでした。
 まあ、それが、うつになった後には、身体反応がもう、嵐のように出てきて、訳が分からない反応や症状に、惑わされるばかりだったわけですが。
 そして、SIMTを実践するようになり、最初は、呼吸から、そして、身体の感覚にも、呼吸法を行いながら注意の分配をやっていくようになり、それが、毎日の日課となっていきました。
 そうすると、自分の身体反応や身体感覚に対する感度が、以前より、敏感になってくるのが、わかってきました。だいたい、実践を始めて、数か月はたったくらいからでしょうか。
 そうした、身体感覚に対しての反応が敏感になってくると、自分が怒ったときにどのような身体反応が起こるのか、どういった身体感覚を感じるのか、不安な時はどうか、悲しいときはどうか、調子が悪いときはどうか、気分がいいときはどうか、そういった情報が、多く集まってくるようになりました。
 それを積み上げていっている中で、上述のような、自分の感情に気がつくより早く身体反応に気づいて、自分の身体の反応で、自分の感情や思考、さらには本音、そういったものを教えてもらう機会が増えてきました。
 通常、身体反応は無意識の領域です。
 身体からは、皮膚や筋肉だけでなく、身体の内部、内臓などの状態も含めて、数限りない情報が脳に届いているはずです。
 でも、僕らはそういった情報に気づくことなく、日常を普通に生活できているわけです。これは、無意識の領域で、ちゃんと脳が、それらの情報を適切に処理してくれているからです。
 それに対し、僕らの意識が処理できる情報量はごくわずかです。このブログを読みながら、テレビを見つつ、音楽を聴いてる人はいるかもしれませんが、そこに計算処理や運動が加わったら、正直、こなしきれませんよね。
 意識が認識しているものってごくわずかなわけです。
 でも、無意識の反応の一側面が、そういった身体反応に表れているわけですね。
 その身体反応、身体感覚に注目するだけで、「どうしてだか、こうしてしまう」とか「理由はわからないが気分が落ち込んだ」といったときの、無意識にしてしまっていることに対する、ヒントがもらえるわけです。
  
 僕自身、上述のような身体反応からの気づきを得られたとき、その気づきのほとんどは予想外のものでした。
 「こんなつまらないことで、僕は怒りを感じてるのか」とか、「ここで落ち込む反応が出ているということは、その反応を引き起こした思考が走ったんだ」とか、さらには、「こういう反応がでたということは、僕は、こういう風に普段から判断している(つまりそういう本音をもっている)のか」といったことが分かったんです。

 だから、呼吸法をはじめ、僕がこのブログでは「ボディスキャン」と読んだりしている、身体の感覚への注意の分配などの基本的なスキルは大変大変、重要なスキルだと思います。レッスンの最初のころにやるスキルではありますが、繰り返し磨いていくことで、さまざまな気づきをもたらしてくれます。
 なぜなら、身体感覚を伴わない感情はありえませんし、そして、感情の変化のある時には、かならずそこに思考や本音が隠れているからです。

 今日は、身体感覚と感情は、同じものをみているのだよというところから、洞察のポイントについて書いてみました。
 ご参考になることがあれば幸いです。
 
 今年もこんなペースでぼちぼち進めていきますので、良かったらまたお立ち寄りください。
 ではでは、今日はこの辺で。

前回に続いて、SIMTにおける変化の話

 前回は、観察するだけでどのように変化していくかということについて書いてみました。
 様々な衝動と戦わなくても、ただ観察していけばいいんだよという風に書いていますが、こういう風に書くと、衝動に任せてなんでもやっていいのか!という疑問をお持ちの方もいると思います。

 もう少しこのテーマについて引っ張ってみて、今日は、何でもやっていいわけじゃないけど、衝動に任せているとどうなるかを自分でわかってしまうと、もう自分は自然と選択するものが変わってくるということを書いてみようと思います。

 僕は、基本的には、衝動に負けてしまっても別にいいと思っています。ただその結果や、状況、自分の感情、感覚など、詳細に観察していきましょうというのは、前回書いた通りです。

 ただ、衝動にまけてしまっても良いと言っても、インパクトの大きすぎることに関しては、その後のリカバーが当然のことながらかなり大変になってしまうので、そういう衝動があっても、そこは止めるべきだと思います。
 具体的に言ったら、自殺を完遂しようとするとか、法を犯すとか、覚醒剤をやるとか。
 実際にやってしまった人も、そこで人生が完全に終わるわけではなく、どんな人にも新に人生をつくっていくチャンスはあると思うでの完全に否定はしませんが、やらない方がいいというのは、普通にこのブログを読んでくださる方なら同意していただけると思います。

 しかし、自分のちいさな悩み程度のことなら、別にやってしまってみてもいいんじゃないでしょうか。 
 一回、無茶食いをしてしまうとか、仕事をちょっとさぼってみるとか、お酒を飲み過ぎる、とかそんなたぐいのことは。
 そんな自分を許したら、どんどん暴走して、自堕落な人間になってしまうのではないかと思うかもしれません。

 でも、そこで大切なのが、「観察、洞察だけは続けていくこと」だと思うのです。
 なぜなら、観察や洞察だけを続けて入れば、自然と自分の選択することが変わってくると思うからです。
 そしてその変化は、外から強要されたり、自分で「こうでなければ」と葛藤を抱えるのではなく、自然と訪れると思うからです。

 例を挙げてみると、前回の食欲で言えば、「食べたい」という欲求があるときは、食べてもいいんですね。
 でも、どういう時に、どれくらい食べるとどうなるかということは、身体や心が正直に返事をしているはずなんですね。
 例えば、仕事が終わって解放されて、ついつい食べ過ぎたとします。それを後悔する必要はないのですが、ちゃんと洞察、観察を、その時だけではなく、日常の何気ない生活に取り入れて勧めていくと、例えば僕の場合なら、夜の食事をとりすぎたときは、翌朝の胃の膨満感がまったく違うことに気がつきます。朝の身体のだるさや、胃にまだ食べ物が残っている感じがあります。
 それは、食べる内容によっても違います。脂っこい物、甘い物など、食べた後、その後しばらくして、と、時間経過とともに身体に表れる兆候、精神的な部分への影響などかなり違うことが分かってきます。
 と同時に、食欲が仕事が忙しく大変な日ほど、終わった後の食欲も強いことが分かってきました。おそらく、食べるということによる充足感、満足感を脳が得ようとしているような印象があります。

 ここで、大切なのは、食べることによる身体の影響をしったのと同時に、ついつい無茶食いしていた「食欲」というのも、自分の中である種の役割をもっていたことが見えてくるのです。
 
 これを、ただ「食べ過ぎはいけない!」とか、「こういったものは食べちゃダメ」と知識のレベルで押さえ込んでいたら、おそらく解放されないストレスが、何らかの違った病気や症状として出てきていたかもしれません。

 もちろん、それは推測の域をでませんが、こういったことに気づいてくると、もう問題は「食欲そのもの」ではなく、その強い食欲を起こす、仕事の取り組み方の方になってくるんですね。じゃあ、仕事自体が悪いかというと、そういうわけではなく、そこも洞察や観察を続けていきます。どんな仕事だとどんな気分になるか、それから解放されるとどう感じるかを丁寧に見ていく、ということをただただ続けていきます。

 また、食べるものによる体調の変化、精神的な影響が見えてくると、自然と食べるものも体調により選べるようになってきます。
食べた結果で自分が不快になると分かっていたら、自然とそういった物は摂らなくなってきますよね。

 これは、たばこ、酒、異性とのつきあい、賭け事、などいろいろ嗜好はありますが、結果として、自分が本当に不快だと感じる物は自然ととらなくなります。もし、それでもとりたい気持ちが出たり、そういった事を繰り返してしまう場合は、その行為により、不快以上に大切な何かを、自分がその行為から得ていることになります。例え、紛らし行動だとしてもです。
 だから、その何かが見えてくるまでは、その行為を無理にやめることは、むしろ予想外のところで自分に害がでる可能性があります。

 たとえ話をしますね。
 ある部屋にいるとします。そこでどんどん床から水があがってきます。それはどうしようもないため、必死に手持ちのバケツで、部屋の水を窓から捨てていくわけです。それでも、どんどん水がたまってくるので、バケツでくみ出す事をやめるわけにはいきません。
 でも、よく見ると、水を捨てている窓は、別の部屋につながっており、そこから自分の部屋に水が流れ込んできていることがわかりました。
 そうしたら、まだその窓から水をすてようとしますか?
 自然と水を捨てる場所を変えますよね。そして、水を捨てるのと同時にどこから水が流れ込んでくるのか、その場所を探し始めると思います。そして、穴を見つけたら、その穴をふさぐことを考えますよね。
 もし、穴をふさぐことができなかったら?
 水を掻き出すのはやめますか?
 きっと、必死に水を掻き出すよりは、例えば流れ込んでくる水を排出するパイプをつくるとか、何らかの対策をとるはずです。
 自分の今いる状況や、その周辺などが見えていくれば、自然と、自分自身がより楽になるような手法を考えていくはずです。

  この水を捨てている行動が、自分が衝動的にとろうとしている行動かもしれません。おぼれるといけないから、とりあえず必死に水を掻き出している。
 それ自体は、生き延びるためにその時は必要な行為なんですね。でも、状況がもっとよく見えてくると、自然ともっと自分が本当に楽になる方法を選択するようになってくると思うんです。

 そうすると、自然と、いわゆる昔から健康的といわれている物を食べ、人をだましたりなどせず、盗みや法を犯すこともしなくなってくると思うんです。大切なのは、「してはいけない」のではなく、「実感として、それをすることは自分の為になっていないとわかっているから、自然とそうしなくなってくる」ということだと思うんですね。

 これはちょっと飛躍した話になるかもしれないのですが、どんな宗教や文化にもだいたい戒律というものがあるように思います。
 「盗みを働くなかれ」とか、そういうやつですね。
 以前、子供がたまたまキリスト教系の幼稚園に行っていたこともあり、牧師さんが書いた本で十戒について解説していたことがありました。疎覚えなので正確ではないかもしれませんが、十戒自体も、原文は、「~していけない」という命令というか禁止の分体で書かれていたのではなく、「~しません」というただの否定の文章だったというようなことが書かれていたように思います。
(間違ってたらすみません)
 おそらく、マインドフルネスな状態が身近になり、仏教で言うところの悟った人や、どの宗教でも精神的に高みに言った人というのは、「~してはいけません」というよりは、自然と「いや、僕はそういうことはしないかな」という感覚になっていくのではないかと思う野です。「いやー、ウソをついてもいいけど、あんまり自分の特にはならないから、僕ならウソはつかないかなー」みたいな。

 そう書いたのは勝手な推測なんですが、SIMTの実践を続けていると、自然と、自分の生活自体もそんなに無茶をしなくなってくるように思います。なぜなら、自分の行為が起こす結果による自分への影響、他者への影響、そしてそれがまた自分に返ってくる結果などが、自然と見えてくるからのように思います。
 そして、自分のパフォーマンスはより発揮できる環境を自分で整えていけるように思います。
 もちろん、それは遅々としたあゆみで、まだまだ悩みも煩悩も多くありますが、そういった形で、自然と生きると言うことがしやすくなってくるように思うのです。

 数回にわたって、マインドフルネスによって起こる変化といものが、どういうものなのか。そして、それは、変化を起こすというよりも、洞察・観察の結果として自然と起こってくるものだということを書いてみました。

 このテーマは、とても奥が深く、僕自身も日々まだ取り組んで行っている課題ですので、また新たな視点や考えが出てきたら、文章にしていこうと思っています。

 本日も長文おつきあいいただきありがとうございました。
 わかりにくい表現や的外れもあると思いますが、読んでいただいた方、それぞれにとって、少しでも参考になるところがあれば幸いです。
 ではでは、年内は最後の更新になるかと思います。皆さん、良いお年を。

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Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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