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はじめての方はこちらの記事をご覧ください → はじめに (2014/9/21)
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体調の波を乗りこなすために(SIMTを学んで生きやすくなることとは)

  
  今日は、SIMTを学んで生きやすくなるとはどういうことなのか、ということを説明するときに、いいたとえ話を思いついたので、書いてみようと思います。

 それは、以前も、SIMTを身につけるということは、泳ぎや語学を身につけるのと一緒で、実践して、それを実際の生活の中で行えて初めて身につけたといえるということを書いていたと思います。
 知識として知っているだけでは、本を読んで学ぶだけでは、絶対的に手に入らないものがあるということですね。
 
 今回も、この泳ぎに例えて話を進めていこうと思います。

  うつや不安障害で苦しいとき。それは、本当におぼれているようです。感情や体調の波にのまれて、自分ではどうにもなりません。
 息継ぎもうまくできず、ただもがくだけです。

 SIMTでは、まず、簡単な呼吸法を学び、実践をするところから始めます。これは、呼吸を用いて、洞察、観察するスキルを磨いていくという目的もありますが、ゆっくり呼吸法を行うことで、呼吸の力を使って心や体をある程度落ち着かせていくという意味合いもあります。
 つまり、セルフレスキューを学ぶということです。
 泳ぎを覚えるときでも、まず、体の力を抜いて浮くことを覚えますよね。水を怖がって全身がちがちの状態では、泳ぎを覚えようとがむしゃらに手足を動かしても、それはおぼれて、沈んでいくだけです。そして、浮かぼうと思ってもがけばもがくほど沈んでいきます。 しかし、たとえおぼれかけても、すぐに力を抜いて浮かぶことを覚えていれば、一度、浮かんでゆっくり呼吸を整えてから、また泳ぎの練習に取り組むことができるわけです。

 SIMTでも、この呼吸法、そして、意識がほかに向いたとき、感情に持ってかれそうなとき、呼吸に意識を向けるようにすることといった基本的なスキルは、まず、体調を安定させるため、洞察を深めることを学ぶ上で、大前提になります。実際に、僕も、この呼吸法など基本的なスキルをやりはじめて、すぐにある程度の体調の回復を実感できました。
 そして、その土台の上で、まずは、心理現象の名前付け、感情の連鎖の観察、作用と対象の観察など、泳ぎで言えば、基本的なバタ足や手の動かし方などを、セッション2~4くらいで学んでいくことになります。

 ある程度の回復というのは、あくまでも浮かぶ、基本的な手足の使い方ということだけなので、ちょっとした体調の波やイベントがおこると、やっぱりすぐにその波に飲み込まれて溺れかけてしまうんですね。
 そこで、まずは、静かな環境や家庭での基本的な生活の中で、これらのスキルを磨いていくことが大切です。
 泳ぎを学ぶときに、いきなり荒波の中に出るのではなく、最初は、プールや浅瀬、湖など、穏やかな水面で練習をするのと一緒です。
 ここで、大切なのは、波にのまれて溺れかけてるなと思ったときは、無理にそれ以上洞察を深めようとせず、基本的な呼吸法に戻って、波が過ぎ、体調が落ち着くのを待つのが大切です。
 波の中で、無理に体調を戻そうともがいても、おぼれているときに手足をバタつかせて沈んでいくのと一緒です。
 体の力を抜いて、自然と浮かび上がってくるのを待ってさえいれば、かならず、また落ち着いて洞察の練習を始められる時がきます。

 そういったように、泳ぎの練習をしていくと、穏やかな波の中では、だいぶ上手に泳げるようになってきます。
 日常生活程度であれば、大きな体調を崩さなくなってきた時と同じです。
 
 でも、そこで治ったわけではないですよね。仕事をしたり、家事をいろいろと始めたり、子供のことで誰かとかかわったり。
 活動を広げていくと、様々なことが起こってきます。
  波のない浅瀬から、外洋に泳ぎ出していくわけです。
 そうすると、今まで思いもしなかった波が生じてきます。ただ、普通に泳ぐつもりが、波のせいで水を飲みこみ、急に苦しくなったり感じることがあるかもしれません。波に押し戻されて、進んでいないように感じるときも多いはずです。
 ここでいう、波は、外的環境や起こってくるイベントだけではありません。自分自身の体調、思わぬ病気などもあります。
 たとえ、自分の身体だとしても、感情や身体は自分でなんでも思い通りになるものではありません。大自然に属するものです。
 海の波を意のままに動かそうとしてもできないどころか、おぼれます。それと同じで、身体や感情は、自分でコントロールできない大自然の営みなんだとみなすことが大切に思います。
 
 そして、ここでも、大切なことは、まずはセルフレスキューです。これ以上の大波は危険だと思ったら、穏やかな浅瀬に戻ってくることも必要です。そして、波に体を持ってかれないように、一時的に泳ぐのは中止して、ただ体を浮かべて呼吸に集中することも必要でしょう。かならず、波が過ぎれば、また、泳ぎ出せるタイミングはやってきます。嵐の中に無理に海に出ていくのは、おぼれにいくようなものですね。

 しかし、そういった波に溺れかける経験もしながら、自分の泳ぎを見つめていくと、泳ぐコツがだんだんわかってきます。どういう波の時は進みやすいのか、受け流せるのか、そして、波の中ではどのように腕や足を動かすとより効率的なのか。
 そういったことが、波の中で泳ぐ経験の中から、徐々にわかってくるんですね。
 それは、穏やかな浅瀬にいるだけでは決してわからないものです。波の中で、時には溺れそうになりながらも経験をして、初めてわかってくるものです。
 これが、セッション後半にでてくる本音の観察といったところです。
 実際の生活で、活動の幅が広がってくると、自身の疲労、気持ちなど様々な揺れ動きがあります。
 それ自体は、とてもつらく感じます。今まで、できていたことが、急にできないように感じにもなります。
 そこで、大切なのが、無理をせず、引くところは引きつつも、丁寧にその波の中で起こることを、観察、洞察していくことです。
 それが無理なほど波が大きいときには、休息をとって浮き上がるのを待つことも大切です。でも、そんな中でも、観察を続けていくと、自分の中の様々な本音や特徴が見えてきます。それ自体は、まったく悪いものではありません。
 それは、押しては返す海の波と一緒です。その波に合わせて手足を動かし泳いであげることが大切です。

  それを繰り返していくと、どうでしょう。
 いつの間にか、ある程度の波の中でも、自分の思う方向に、泳いでいけることができるようになってきます。そして、どのような波が安全で、どのような波であれば、避難したほうがいいのか、自然とわかってくるようになります。
 このレベルになると、もう、波はそれほど怖いものではありません。もちろん、波自体は、一回一回、同じものはありませんので、そのたびに意識を向けて対応する必要はあります。でも、新たな波と出会うことで、新たな泳ぎ方を発見でき、むしろ波を楽しむことができるようになってきます。
 このレベルになると、泳げないとは言いませんよね。むしろ泳ぎのが得意といえるかもしれませんん。
 SIMTの実践を続け、セッションが終わってからも、丁寧に自分の生活の中で起こってくる様々な変化の波を潜り抜けていくと、少しづつですが、このような状態になってきます。おそらく、このレベルになったら、うつや不安障害は治癒といっていいレベルではないでしょうか。むしろ、病気を経験しなかった人より、より生き方が上手になっているかもしれません。

 さらに上達すれば、様々な波を自由に乗りこなせるようになり、そうなると、波自体を利用して、自分自身の本来の力よりさらに上のパフォーマンスを発揮できるかもしれません。
 本当に波乗りの上手な方は、まるで波を自在に操り、思いのままに波を操っているようにさえ見えるでしょう。
 でも、そんな人でさえも、波自体を起こせるわけではないんですね。ただ、ひとつひとつの波に対し、適切な対応の仕方をしっているから、体の動かし方をしっているから、その波を利用し、自分の思った報告へ移動していけるわけです。それを他人からみると、自在に波を操っているように見えるわけです。

 一流のスポーツ選手、パフォーマー、仕事人に、そういったことが言えるかもしれません。様々なプレッシャーや、思いもよらないアクシデントを、逆に力に変えて、自分の力以上のものを発揮できる。そういった人ですね。
 もちろん、そこには運の要素はあります。
 どんな波のり名人でも、風がまったくない日に波にのるは不可能です。しかし、自分の身体の動かし方、波の乗り方を真にきわめていれば、ほんのわずかな波にでも、より効率的に乗ることができるでしょう。

 今、病気で苦しんでいる方にとっては、このようなことは無理な話に聞こえるかもしれません。
 でも、SIMTを丁寧に実践していった先には、これくらいすごいことが待っていると僕は思うんです。
 ただただ、洞察と観察を、すべからくすべての範囲で実践していくことができれたら、きっとこうなっていけるのではないかと信じています。

 もし、自分がつまずいたように感じたら、自分が今、書いたような途上の中の、どのあたりで波にのまれたのか考えてみるとよいのではないでしょうか。
 無理をする必要はありません。難しいときは、力を抜いて呼吸法に戻りましょう。
 そして、気が向いたときは、大きな波にチャレンジしてみるのもいいと思います。戻るときも、進むときも、そのすべてが経験になります。

 今日は、泳ぎを覚える、そして波に乗れるようになるといったことに例えて、SIMTの実践とその上達の仕方を書いてみました。
 僕としては、結構しっくりくる例え話だったのですが、いかがだったでしょうか。
 
 もし、少しでも参考になるところがありましたら、うれしいです。

 よかったら、また読みに来てください。

 ではでは今日は、この辺で。またよろしくお願いいたします。

 

身体感覚と心(感情)は同じもの

 あけましておめでとうございます。今年も、少しずつではありますが、自分がマインドフルネスを通して気づいたことを、気のままに書いていこうと思います。
 よかったら今年も、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 さて、今日は、身体感覚と心(感情)は、同じものらしいよ、ということについて書いていこうと思います。

 このことは、以前、ほかのブログ記事でも少し触れたことがあった気がしたのですが、ちょっとどの記事だったのか、自分でも思い打だせませんでした。。。。
 気がつけば、記事もだいぶたまってきていて、自分でどの話の中で書いたのかわからなくなってしまいました。
 まあ、同じ内用もあると思うのですが、自分としては、SIMTの実践においてすごく大きなヒントとなったので、改めて記事にしてみようと思います。

 僕が、この「心(感情)と身体感覚は突き詰めると同じものである」というのを読んだのは、以下の本でした。
 
 

 マインドフルネスの領域ではかなり有名な先生の書いた本ですが、僕自身、普段から身体操法といったような、本来の身体の使い方などに興味をもっていたので、この本をふと手にとったのですが、とても興味深い話がいくつかありました。

 その中のひとつが今回のテーマなのですが、詳細は本を読んでいただきたいのですが、心理現象のもとを突き詰めていくと、最後には感覚にたどり着くということです。
 何を言いたいかというと、ついつい僕らは、頭で認識し、認識したから心が反応し、その結果として身体反応が起こると考えがちで、つまり、認識や感情が主であって、それによって生じる身体感覚は従と考えがちですが、そうではなく、身体感覚があってこその認識や感情というものだということです。もっと言うと、感情=身体感覚ということであり、つまり、身体感覚を伴わない感情はありえないし、身体に反応があるときには、そこにかならず感情や意識の変化があるということです。
 つまり、肩や首のなど出現の仕方には個人差があるかもしれませんが、筋肉の緊張がないところには、精神的な緊張は起こりえない、腹を立てずに怒ることはできない、そういったことです。

 これ自体、心理学の中でも今でも論争のあるところのようですが、僕にはこの考え方がすごくしっくり来たんですね。
 SIMTを実践して、今、自分に起きていることを洞察していくようになると、自分の意識が、自分の感情を認識するまえに、身体感覚に気づくことで自分の感情に気づいたといったことがたびたびあったからです。
 
 具体的に言うと、家族に言われた一言に「そんなことないよ」と答えたとき、その瞬間に自分のお腹の上あたりからのどのあたりにカーッと熱い感覚があり、その感覚に気が付いたときに、「あ、これは怒ったときに僕の身体にでる反応だ!」と気がついて、初めて自分の中の怒りの感情に気がつき、「僕は、この発言を聞いて怒りの感情を起こすんだ」と、ちょっと他人事みたいに、自分の特徴に気づくようなことが何度かありました。
 そして、そのどれもが、自分にとっては非常に貴重な気づきとなりました。

 一口に、身体感覚=感情といっても、なかなかわかりにくいと思いますが、生物が進化してきた道筋を考えると、すごく理解しやすいと思うんです。そこを少し解説してみます。

 まず、この世に生物が細胞と呼べるもので生まれたとき、何より大切なのは、やはり自己保存、つまり生きるということだったと思います。つまり、自己保存のために自己を保存しコピーを作っていかなくちゃならないと。
 そして、そうするために養分として、様々な物質を取り込まなくちゃいけないわけです。
 その物質を取り込むのに、自分がある場所に来たものをただ受動的に取り込んでいくといったスタイルから、徐々に、自分から「動いて」栄養を取り込みにいくものが出てくるわけです。
 前者は植物であり、後者は動物となっていきます。
 動いて栄養物を取り込むために必要なものは、動くための装置と、動いた先にあるものが栄養なのか、それとも危険なものなのかを判別する装置が必要になります。
 動くための装置としては、鞭毛や線毛といったものが発達し、後々、僕らの手足のようなものになっていくわけです。
 そして、栄養なのか危険なのかを見分けるために必要なものとして、感覚器官が発達してきます。
 最初は、そこに物質があるのかないのかを判断するだけの触覚みたいなものであったかもしれません。しかし、命を守るために、危険なものなのかを知るために、ただの触覚から、痛みの刺激や温熱を感じられる感覚、そして味としての味覚なども発達してきたでしょう。
 そして、様々な感覚器官が発達してくるにしたがって、それらの情報を統括し、処理するシステムが必要になるわけです。
 そうやって、末梢の感覚器官に対し、中枢神経、つまり脳が発達してきたと考えられます。
 そして、そういった情報を統合して、ひとつの答え、つまり戦ってでもそれを取り込むのか、それとも排出する、もしくはその場から逃げるのかといった答えを効率よく出すために、感情、つまり「心」、そして「意識」が発達していったと考えられるわけです。

 そう考えると、自分の心や意識の特徴をより良く知るためには、それ自体を生み出してきた、「身体感覚」をよく知ることが近道なんじゃないかと考えられるわけなんですね。

 実際、僕がSIMTをやる前は、自分の身体感覚や身体反応なんかに意識を向けることはあまりありませんでした。
 目で見たり、耳で聞こえたりすることには意識を働かせても、自分の身体が今、どのように感じているのか、どのように反応しているのか、といったことにはあまり注意を払っていなかったように思います。時々、強い痛みを感じたり、体調が悪くなったりしたときだけ、そういった場所に、普段以上に注意が行ってしまうというくらいでした。
 まあ、それが、うつになった後には、身体反応がもう、嵐のように出てきて、訳が分からない反応や症状に、惑わされるばかりだったわけですが。
 そして、SIMTを実践するようになり、最初は、呼吸から、そして、身体の感覚にも、呼吸法を行いながら注意の分配をやっていくようになり、それが、毎日の日課となっていきました。
 そうすると、自分の身体反応や身体感覚に対する感度が、以前より、敏感になってくるのが、わかってきました。だいたい、実践を始めて、数か月はたったくらいからでしょうか。
 そうした、身体感覚に対しての反応が敏感になってくると、自分が怒ったときにどのような身体反応が起こるのか、どういった身体感覚を感じるのか、不安な時はどうか、悲しいときはどうか、調子が悪いときはどうか、気分がいいときはどうか、そういった情報が、多く集まってくるようになりました。
 それを積み上げていっている中で、上述のような、自分の感情に気がつくより早く身体反応に気づいて、自分の身体の反応で、自分の感情や思考、さらには本音、そういったものを教えてもらう機会が増えてきました。
 通常、身体反応は無意識の領域です。
 身体からは、皮膚や筋肉だけでなく、身体の内部、内臓などの状態も含めて、数限りない情報が脳に届いているはずです。
 でも、僕らはそういった情報に気づくことなく、日常を普通に生活できているわけです。これは、無意識の領域で、ちゃんと脳が、それらの情報を適切に処理してくれているからです。
 それに対し、僕らの意識が処理できる情報量はごくわずかです。このブログを読みながら、テレビを見つつ、音楽を聴いてる人はいるかもしれませんが、そこに計算処理や運動が加わったら、正直、こなしきれませんよね。
 意識が認識しているものってごくわずかなわけです。
 でも、無意識の反応の一側面が、そういった身体反応に表れているわけですね。
 その身体反応、身体感覚に注目するだけで、「どうしてだか、こうしてしまう」とか「理由はわからないが気分が落ち込んだ」といったときの、無意識にしてしまっていることに対する、ヒントがもらえるわけです。
  
 僕自身、上述のような身体反応からの気づきを得られたとき、その気づきのほとんどは予想外のものでした。
 「こんなつまらないことで、僕は怒りを感じてるのか」とか、「ここで落ち込む反応が出ているということは、その反応を引き起こした思考が走ったんだ」とか、さらには、「こういう反応がでたということは、僕は、こういう風に普段から判断している(つまりそういう本音をもっている)のか」といったことが分かったんです。

 だから、呼吸法をはじめ、僕がこのブログでは「ボディスキャン」と読んだりしている、身体の感覚への注意の分配などの基本的なスキルは大変大変、重要なスキルだと思います。レッスンの最初のころにやるスキルではありますが、繰り返し磨いていくことで、さまざまな気づきをもたらしてくれます。
 なぜなら、身体感覚を伴わない感情はありえませんし、そして、感情の変化のある時には、かならずそこに思考や本音が隠れているからです。

 今日は、身体感覚と感情は、同じものをみているのだよというところから、洞察のポイントについて書いてみました。
 ご参考になることがあれば幸いです。
 
 今年もこんなペースでぼちぼち進めていきますので、良かったらまたお立ち寄りください。
 ではでは、今日はこの辺で。

前回に続いて、SIMTにおける変化の話

 前回は、観察するだけでどのように変化していくかということについて書いてみました。
 様々な衝動と戦わなくても、ただ観察していけばいいんだよという風に書いていますが、こういう風に書くと、衝動に任せてなんでもやっていいのか!という疑問をお持ちの方もいると思います。

 もう少しこのテーマについて引っ張ってみて、今日は、何でもやっていいわけじゃないけど、衝動に任せているとどうなるかを自分でわかってしまうと、もう自分は自然と選択するものが変わってくるということを書いてみようと思います。

 僕は、基本的には、衝動に負けてしまっても別にいいと思っています。ただその結果や、状況、自分の感情、感覚など、詳細に観察していきましょうというのは、前回書いた通りです。

 ただ、衝動にまけてしまっても良いと言っても、インパクトの大きすぎることに関しては、その後のリカバーが当然のことながらかなり大変になってしまうので、そういう衝動があっても、そこは止めるべきだと思います。
 具体的に言ったら、自殺を完遂しようとするとか、法を犯すとか、覚醒剤をやるとか。
 実際にやってしまった人も、そこで人生が完全に終わるわけではなく、どんな人にも新に人生をつくっていくチャンスはあると思うでの完全に否定はしませんが、やらない方がいいというのは、普通にこのブログを読んでくださる方なら同意していただけると思います。

 しかし、自分のちいさな悩み程度のことなら、別にやってしまってみてもいいんじゃないでしょうか。 
 一回、無茶食いをしてしまうとか、仕事をちょっとさぼってみるとか、お酒を飲み過ぎる、とかそんなたぐいのことは。
 そんな自分を許したら、どんどん暴走して、自堕落な人間になってしまうのではないかと思うかもしれません。

 でも、そこで大切なのが、「観察、洞察だけは続けていくこと」だと思うのです。
 なぜなら、観察や洞察だけを続けて入れば、自然と自分の選択することが変わってくると思うからです。
 そしてその変化は、外から強要されたり、自分で「こうでなければ」と葛藤を抱えるのではなく、自然と訪れると思うからです。

 例を挙げてみると、前回の食欲で言えば、「食べたい」という欲求があるときは、食べてもいいんですね。
 でも、どういう時に、どれくらい食べるとどうなるかということは、身体や心が正直に返事をしているはずなんですね。
 例えば、仕事が終わって解放されて、ついつい食べ過ぎたとします。それを後悔する必要はないのですが、ちゃんと洞察、観察を、その時だけではなく、日常の何気ない生活に取り入れて勧めていくと、例えば僕の場合なら、夜の食事をとりすぎたときは、翌朝の胃の膨満感がまったく違うことに気がつきます。朝の身体のだるさや、胃にまだ食べ物が残っている感じがあります。
 それは、食べる内容によっても違います。脂っこい物、甘い物など、食べた後、その後しばらくして、と、時間経過とともに身体に表れる兆候、精神的な部分への影響などかなり違うことが分かってきます。
 と同時に、食欲が仕事が忙しく大変な日ほど、終わった後の食欲も強いことが分かってきました。おそらく、食べるということによる充足感、満足感を脳が得ようとしているような印象があります。

 ここで、大切なのは、食べることによる身体の影響をしったのと同時に、ついつい無茶食いしていた「食欲」というのも、自分の中である種の役割をもっていたことが見えてくるのです。
 
 これを、ただ「食べ過ぎはいけない!」とか、「こういったものは食べちゃダメ」と知識のレベルで押さえ込んでいたら、おそらく解放されないストレスが、何らかの違った病気や症状として出てきていたかもしれません。

 もちろん、それは推測の域をでませんが、こういったことに気づいてくると、もう問題は「食欲そのもの」ではなく、その強い食欲を起こす、仕事の取り組み方の方になってくるんですね。じゃあ、仕事自体が悪いかというと、そういうわけではなく、そこも洞察や観察を続けていきます。どんな仕事だとどんな気分になるか、それから解放されるとどう感じるかを丁寧に見ていく、ということをただただ続けていきます。

 また、食べるものによる体調の変化、精神的な影響が見えてくると、自然と食べるものも体調により選べるようになってきます。
食べた結果で自分が不快になると分かっていたら、自然とそういった物は摂らなくなってきますよね。

 これは、たばこ、酒、異性とのつきあい、賭け事、などいろいろ嗜好はありますが、結果として、自分が本当に不快だと感じる物は自然ととらなくなります。もし、それでもとりたい気持ちが出たり、そういった事を繰り返してしまう場合は、その行為により、不快以上に大切な何かを、自分がその行為から得ていることになります。例え、紛らし行動だとしてもです。
 だから、その何かが見えてくるまでは、その行為を無理にやめることは、むしろ予想外のところで自分に害がでる可能性があります。

 たとえ話をしますね。
 ある部屋にいるとします。そこでどんどん床から水があがってきます。それはどうしようもないため、必死に手持ちのバケツで、部屋の水を窓から捨てていくわけです。それでも、どんどん水がたまってくるので、バケツでくみ出す事をやめるわけにはいきません。
 でも、よく見ると、水を捨てている窓は、別の部屋につながっており、そこから自分の部屋に水が流れ込んできていることがわかりました。
 そうしたら、まだその窓から水をすてようとしますか?
 自然と水を捨てる場所を変えますよね。そして、水を捨てるのと同時にどこから水が流れ込んでくるのか、その場所を探し始めると思います。そして、穴を見つけたら、その穴をふさぐことを考えますよね。
 もし、穴をふさぐことができなかったら?
 水を掻き出すのはやめますか?
 きっと、必死に水を掻き出すよりは、例えば流れ込んでくる水を排出するパイプをつくるとか、何らかの対策をとるはずです。
 自分の今いる状況や、その周辺などが見えていくれば、自然と、自分自身がより楽になるような手法を考えていくはずです。

  この水を捨てている行動が、自分が衝動的にとろうとしている行動かもしれません。おぼれるといけないから、とりあえず必死に水を掻き出している。
 それ自体は、生き延びるためにその時は必要な行為なんですね。でも、状況がもっとよく見えてくると、自然ともっと自分が本当に楽になる方法を選択するようになってくると思うんです。

 そうすると、自然と、いわゆる昔から健康的といわれている物を食べ、人をだましたりなどせず、盗みや法を犯すこともしなくなってくると思うんです。大切なのは、「してはいけない」のではなく、「実感として、それをすることは自分の為になっていないとわかっているから、自然とそうしなくなってくる」ということだと思うんですね。

 これはちょっと飛躍した話になるかもしれないのですが、どんな宗教や文化にもだいたい戒律というものがあるように思います。
 「盗みを働くなかれ」とか、そういうやつですね。
 以前、子供がたまたまキリスト教系の幼稚園に行っていたこともあり、牧師さんが書いた本で十戒について解説していたことがありました。疎覚えなので正確ではないかもしれませんが、十戒自体も、原文は、「~していけない」という命令というか禁止の分体で書かれていたのではなく、「~しません」というただの否定の文章だったというようなことが書かれていたように思います。
(間違ってたらすみません)
 おそらく、マインドフルネスな状態が身近になり、仏教で言うところの悟った人や、どの宗教でも精神的に高みに言った人というのは、「~してはいけません」というよりは、自然と「いや、僕はそういうことはしないかな」という感覚になっていくのではないかと思う野です。「いやー、ウソをついてもいいけど、あんまり自分の特にはならないから、僕ならウソはつかないかなー」みたいな。

 そう書いたのは勝手な推測なんですが、SIMTの実践を続けていると、自然と、自分の生活自体もそんなに無茶をしなくなってくるように思います。なぜなら、自分の行為が起こす結果による自分への影響、他者への影響、そしてそれがまた自分に返ってくる結果などが、自然と見えてくるからのように思います。
 そして、自分のパフォーマンスはより発揮できる環境を自分で整えていけるように思います。
 もちろん、それは遅々としたあゆみで、まだまだ悩みも煩悩も多くありますが、そういった形で、自然と生きると言うことがしやすくなってくるように思うのです。

 数回にわたって、マインドフルネスによって起こる変化といものが、どういうものなのか。そして、それは、変化を起こすというよりも、洞察・観察の結果として自然と起こってくるものだということを書いてみました。

 このテーマは、とても奥が深く、僕自身も日々まだ取り組んで行っている課題ですので、また新たな視点や考えが出てきたら、文章にしていこうと思っています。

 本日も長文おつきあいいただきありがとうございました。
 わかりにくい表現や的外れもあると思いますが、読んでいただいた方、それぞれにとって、少しでも参考になるところがあれば幸いです。
 ではでは、年内は最後の更新になるかと思います。皆さん、良いお年を。

SIMTにおける「変化」の起こり方


  前回の記事では、SIMTの実践では、ある状態を作り出す、強く目指すというより、ただ、今の状態を確認し名づけていくだけで実践内容としてはOKという記事を書きました。
 否定してしまう自分すら否定せず、ただ今の状況がどうであるか、どのようなことが自分の中に起こっているかを確認して名前を付ける、ただそれだけで良いというお話でした。

 では、もっと上達しよう、こんな自分を変えよう、変化させよう、そういったことをしないで、なんで改善していくのでしょう。
 現状を変えようとせずに、どうやって変わっていくというのか。
 そういった点について、今回書いてみようと思います。

 ここが、SIMT、そしてマインドフルネスの大変興味深いところで、ここが実家として理解できたら、おそらくマインドフルネスは一段上達した領域になっているんじゃないかと、勝手に思っているところです。

 ただ「気づく」だけで、もう前と同じではいられないんです。

 いくつか例を挙げて書いていこうと思います。
 
 例えば、自分が「ダイエットしたいと思っているけど、どうしても食べてしまう」「食べないで痩せるなんて無理!」という人がいて、いつも、「そんなに食べるべきではないのに、食べてしまう」という葛藤に陥っているとします。

 僕自身、これをいくら「食べたい、でも食べてはいけない」という我慢と葛藤のレベルで戦っていても、その戦いは決して終わることのない、勝つことのない戦いになってしまうのではないんだろうかと考えています。

 というのは、「食欲」自体は決して「悪」ではなく、人間が身体をもって生まれている以上、かならず存在するものなのですね。
 それを「無くそう」とか「コントロールしよう」としても、それは、大自然を相手に喧嘩を売っているようなものです。
 たとえば、天気が雨だからそれを意志の力で「止めよう」としても、止められないですよね。
 それと同じだと思うんです。
 
 じゃあ、どうしたらいいんだ、という時に大切なのが、「気づくこと」「気づき続けること」そして「知ること」です。

 ダメだと思うのに、無茶食いしてしまう時、後で後悔しますよね。「やってしまった」と落ち込むと思います。頑張ってやろうと思えば思うほど、落ち込みの波も大きいものになります。

 前回の記事で書いたように、ここでやるのは、とにかくこの状況で起こっていることを、徹底的に観察し、名前をつけチェックしてくことです。
 「今回は、ポテチを買って一袋、一気に食べてしまった」
 「その結果、今、後悔や罪悪感という感情が生じている」「その感情を身体は体の重さとだるさという感覚で感じている」
 「食べた結果、胃がもたれて、軽い吐き気という感覚もある」
 「どうしていつもやめられないんだろうという思考が渦巻いている」
 と、その状況を観察していきます。評価してしまっている自分も、ただ観察し、名前をつけていきます。

 この時点では、状況はなんにもかわりません。すでに起こってしまっていることで、起こってしまった状況は、すぐに変えることはできません。こぼれた水を戻せないのと同じです。

 でも、引き続き観察を続けていきます。

 「ポテチを一袋食べると、胃の膨満感は、翌朝まで残るけど、朝を抜くと、昼くらいにはだいぶ改善する」
 「仕事中の昼ご飯は、そこまで食べなくても、仕事があるからそこまで気にならない」
 「仕事終わりのコンビニで強い空腹感を感じる」
 「テレビを見ながら食べてたら、満腹感は感じないうちに、食べきっていた」
 「ポテチだと、胃がもたれる感じがでるけど、パンだとそこまでの感覚はでない。でも、まったくないわけじゃない」
 
 こういったように、日々の食べることも含めた観察をとにかく続けていくことが大切です。
 
 ここの観察で重要なのは、「自分がこれは観察したほうがいいだろう」とか「これは食欲と関係あるのではないか」ということだけでなく、できるだけ、日常生活で何気なくやっていることも、できるだけ徹底的に観察を続けていくということです。もちろん、できる範囲で構いません。

 時には、「ポテチではもたれるから、おでんを買ってみた」ということをしたときに、「結局、食べてしまったら、やっぱり苦しくて、落ち込んだ」ということもあるかもしれません。そして、それが何回かあるかもしれません。でも、「ポテチでも、大きさが小の袋のものは、一袋食べてももたれは軽かった」
 「今日は、帰りのコンビニでも、そこまで空腹感がなかった」
 「そういえば、帰ってくる前に会社で、ゼリーを一つ食べてきた」といった事実がわかるかもしれません。

 そういったように、自分が食べること、食欲に関連することが、だんだん観察を続けているうちに自然と浮かびあがってくるんですね。
 
 「同じ夜食でも、油が控えめのものがそこまででなそうだ」とか「翌日が休みの場合は、多少食べてもそこまで影響はない。でも、ポテチでいったらこの量まで、おでんなら、この程度までの話」とか、「どうやら、仕事で締め切りが近くなった時の方が、食欲は強いかもしれない」「そういう日は、我慢しようとしても、どうしても負けてしまう」

 といった、情報が集まってきます。
 
 この段階になると、食欲自体の存在は、以前と大きく変わりはありません。強い空腹感に負けて食べてしまう日もあるかもしれません。 でも、その食欲と付き合う方法が見えてきます。自分が関与できるポイントと、そうでないポイントが少しずつ分かってくるんですね。
 そうすると、食欲がたとえあっても、それ自体怖いものではなくなってきて、戦う相手ではなくなってくるんです。
 同じ「食べたい」といっても、それが常に同じではなく、強いとき、弱いとき、我慢できる程度の時、そういったことが分かってくるんですね。
 以前は、「食欲」という得体のしてない塊と戦っていたものが、「食欲」といっても、日々の自分の状態、環境、など様々な影響で変化しているものの一部ということが分かってくるんです。

 そうすると、前ほど食欲に振り回されることがなくなります。
 この段階になると、自分の食欲をある程度、破滅的な結果をもたらさず満たす方法も分かってくるので、前ほど、そのことで落ち込むような結果を招くことが少なくなってきます。
 
 これは、部屋で、いくら「どうやったら食べないですむか」「食欲に勝つ方法はあるか」といったことを考え続けても決してでてくる方法ではありません。誰かが書いた本をいくら探しても、載っていないものです。

 でも、むしろ自分の生活にとって、一番やりやすい方法が、ただ観察をするだけで見えてくるのです。

 結果として、本当に不思議なのですが、そのころには、食欲自体も落ち着いてくることが多いです。たぶん、「食欲」を無理に止める必要もなく、戦わなくても付き合っていけばいいとわかって、自分の中でその存在の重要度が下がってくるからかもしれません。

 なんとなく、観察を続けるだけで、変化してくるのが分かっていただけたでしょうか。

 大切なのは、「変えてやるために観察してやろう」、「ポイントを見つけだしてやろう」という強い姿勢でやるというより、ただただ、起こってきたことにそっと名前を付けて、あとは忘れちゃうくらいのつもりでやることが大切です。

 なぜなら、自分の中で重要なことは、かならず繰り返されており、どんなに忘れようと思っても、同じような局面が10回、20回、続いていくと、自然と「あれ、そういえば、この状況前にあったなー」と、気づくときがやってきます。
 そのうえで、また同じような状況があれば、「もしかしてこの状況は、、、、」と思って、予想した結果がおこり、「やっぱり」ということが必ず起こってきます。
 
 そうすると、その結果が、自分にとって好ましくないものであれば、自然と「じゃあ、こう対処したらどうなるだろう」と、ほかの方法をとろうとしてくるものなのですね。だって、好ましくないというのは、もう気づいたときにわかっちゃうわけだから。
 その対処が、うまくいっても、うまくいかなくても、それを何十回とやっていると、その中で、多少効果があるものが、また自然と残ってくるんです。だって、明らかにうまくいかないものをそう何度も繰り返す人はいないじゃないですか。ただ、この時も、何回か同じ失敗(と思われる結果)を体験するのは自分に許してあげましょうね。それも、ひとつの貴重な経験です。

 そして、概して、この気づきで得られる情報は、それまでまったく思いもしなかった関連や事実であることがほとんどです。
 無意識にっていうのはそういうことです。もし、今の時点で思いつくような事柄、アイデアは、すでに意識の中にあるものです。
 無意識は、意識できないからこそ、無意識なのです。

 そして、その無意識の中から、必要な情報を浮かび上がらせてしまうというのが、このマインドフルネスの、SIMTのすごいところだと思います。

 いくつか例を書こうかと思っていたのですが、すっかり長くなってしまったので、今日はここで終わりにしたいと思います。

 また、何か他のわかりやすい例を見つけたときは、改めて書いてみたいと思います。

 ではでは、今日はこの辺で。巷ではノロウイルスやインフルエンザが流行ってきているようですね。
 お互いに気を付けましょう。

 今日もお付き合いありがとうございました。次回もよかったら読んでください。

 
 

否定してしまう自分を否定しないこと

 
  このところ、書くことがいつも同じようなことになってしまっているかなーと思いますが、ひとつのことを色々な角度から書くことは、それなりに意味があることかなと思うので、今日も書いてしまいます。

 マインドフルネスは、そしてSIMTは、皆さん何かを得たくてやっているんだと思います。何かを変えたくて、うつを治したくてやっているんだと思います。
 
 この「変化したい!」「治したい」という気持ちはすごーく大切です。
 この気持ちがあるからこそ、日々の実践を続けていこう!と思うのです。
 
 でも、やればやるほど苦しくなる。

 そんなときが、特に実践をし始めてから少し慣れてくるとあるかもしれません。
 ここには、誰しもぶつかってしまうSIMTやマインドフルネスのポイントがあるんじゃないかと思います。
 そこについて、今日も書いてみますね。

  SIMTを実践し始めるのは、この手法の特徴として、うつや不安障害に悩むかたが多いと思います。
 一刻も早く、今の自分を変えたい!この状況から抜け出したい!そういう気持ちが強いのではないかと思います。

 そうやってSIMTをはじめて見たけれど、呼吸法を続けて、心理現象に名前を付けてとやっていくけど、ネガティブな思考はどんどんわいてくるし、自分で評価もしてしまって、ちっともよくなっている感じがしない!受容なんて無理無理!
  そんな状況を経験されている方は多いんじゃありませんか?

  この状況、ちっともうまくいっていないように見えますが、マインドフルネスの観点からいうと、すごく上達している、もしくは、きちんとマインドフルネスができている、と言えると思うのです。
 こういった相談を受けたりしたとき、僕は、「あー、この方、すごく一生懸命されていて、すごく洞察ができているなー」と思ってしまったりします。

 というのも、SIMTにおいて(マインドフルネスにおいて)、大切なことは、「自分を変化させる」ということではないと思うんです。
 大切なのは、「今、ここにある自分や状況を、ありのままに観察すること」なのです。
 
 だから、極端にいうと、「思考を膨らませてしまうこと」や「自分を評価してしまうこと」だって、やってしまってもいいんです。
 もちろん、それが続くと、自分自身がつらいから、思考を膨らませないことや自分を評価してしまうことを止められたリ、やめられたリできたらそれが一番です。

 ただ、実践を続けていらっしゃる方ならだんだんわかってくると思うのですが、「思考を膨らませてしまうこと」や「自分を評価してしまうこと」、そして、そんな自分に対して「落ち込んでしまうこと」、といったものは、どれも自分の力でコントロールなんてできないものなのです。

 でも、SIMTの本には、「思考を止める」、「評価をしない」、「受容する」って書いてあるじゃない!と思うかもしれません。
 実際、僕も、以前のブログで同様のことを書いてきています。

 しかし、こと実践し始めのころ、特に、自分で「受容」とか「評価しない」なんてできないなーと感じている段階のころは、基本的に、上記のことは、「自分の力では変えられない」と思っていたほうがいいように思います。

 じゃあ、何のためにやっているのかということなのですが、現実的には、実践を続けていくと、「思考を止められるようになってくる(というか連鎖しにくくなってくる)」、「評価をしなくなってくる」、「受容できるようになってくる」ということは事実なのですが、いずれも、自分の力で思考の連鎖が続いてしまっているものを、起こさなくできるとか、評価をしている自分をやめてしまえる、とか、なんでもかんでも受け止められる!なんてことではないんです。

 SIMTの実践を続けていると、自然と、結果として、「自分が思考していることが、自覚できるようになってくる」→「結果として、無意識な連鎖が減る」、「評価をしていた前提自体が消えてしまうため、いつの間にか評価をする必要がなくなった」とか、「受容できているのかどうかわからないが、前ほどそのことについていろいろ考えなくなっているので、受容できているのかな」とか、そんなもんです。結果として、起こりにくくなっているというだけで、自らの力で自分自身を変化させているというよりは、自分の中のどうにもならない部分を悟って、それに対しては無駄な抵抗をしなくなるという感じかもしれません。

 ここを勘違いして、「SIMTが上手にできる人、こういったことがスマートにできているはずだ!」「自分の努力が足りないから、需要ができないんだ」とか「自分がへたくそだから、思考が止められないんだ」、「意志の力が足りないんだ!」などと思ってしまうと、それ自体が、評価、思考、感情をどんどん沸き上がらせ、どんどんつらくなってきます。そんなものを続けられるはずがありません。やればやるほど、つらくなってしまいます。

 そういった状態の時は、じゃあ何をすればいいかというと、そんな自分自身に起こっていることを、ただ、チェックだけすればいいんです。「あ、また思考に走っちゃったな。」「評価しちゃったな」「つらくなったな」、「また落ち込んだな」とか、これができていれば、SIMTの実践は、まず合格点なんです。 
  思考に走っても、評価しちゃってもいいんです。それに「気づいてさえ」いれば。
 そして、「受容」というのは、「うまくいかない自分、うまくいかない状況を、すべて穏やかな心で、受け入れられること」ではないんですね。マインドフルネス、そしてSIMTにおける「受容」というのは、「否定しない」ということに近いように思います。
 どんなことに対しても、できるだけ「否定しない」ということなんです。
 でも、注意してくださいね。「うまくいかなかった」と自分を否定したら、そんな自分も「否定しない」ことなんです。
 矛盾しているようですが、「否定してしまう自分をも、否定しない」ということです。
 だから、「気づけてさえ」いれば、OKなんです。自分が否定した、思考した、評価した、落ち込んだ、そういった事実に「気が付いて」さえいれば、それが、受容したということなんだと思うんです。

 だから、そういう風に僕は思っているので、相談なんかを受けると、「今、自分が思考や評価をしてしまっている」ということがわかっているだけで、「あー、この人は、しっかり実践をしているじゃないですか」と思ってしまうのです。

 問題があるというか、もし変えたほうがいいものがあるとすれば、「思考をしてしまう自分」とか「評価してしまう自分」の方ではなくて、「もっと理想的な状態があるはずだ」、「こういう良い状態に早くなりたい、なれるはずだ」という妄想の方だと思います。

 なので、自分がSIMTの実践で、「うまくいかないなー」と思ってしまったときは、すぐに「うまくいくって、何?」、「今の自分は、こんなもんだ、このしょうもない自分と感じるけど、これが今の僕の姿だ」と確認して、それができればOKとしています。
 そして、「今は、この程度でも、合格点」と自分に一度いいきかせ、また観察にもどるようにしています。

 評価をすれば、落ち込みます。思考を連鎖すれば、落ち込みます。でも、そうなっちゃったら、もうそれは自分の力では消せません。あとは、「今の自分は、こんなもんだ」と思って、今、その瞬間に自分に起こっていること、その状況を観察して、ただ「名前をつけて、意識を今(呼吸など)に戻す」ということをしていきます。どこまでも、どこまでも、この「きづくこと」「観察すること」を続けていきます。
  たとえ、「こんな状況で、またおちこんじゃったよ」とか、「またダメかも」と思っても、100%同じ状況というのは、決してありません。その落ち込み具合はどの程度なのか、身体のどこでそれを感じているのか、その時、目の前の状況はどんなか、そういったとを、その落ち込んでいる自分とともに、ただ観察してください。少しでもその状況に「気づけて」、名前を付けられていればそれで合格です。

 でも、そうやって繰り返していくと、だんだん、自分の特徴が見えてくるんです。どういった思考が繰り返されているのか、状況と思っていたものの中でも、特にどんな要素が影響しているのか、自分の中のどんな評価が繰り返し働くのか、そして、その評価は本当に機能しているのか。そういったものが、自然と見えてきます。

 ここで強調しておきたいのは、こういったことは、ただただ、観察、洞察を積み重ねていった結果、自然と見えてくるものです。
 決っして、「自分にはどんな特徴があるだろう」「自分の中のどんな評価が悪さしているだろうか」と、座って考えていて見つかるものではありません。それは、さらに自分の中に、自分の思い込みを作る作業であり、自分をどんどん追い詰めてしまいます。
 理想像をつくって、自分を苦しめてしまうのと同じですね。

 だから、実践を始めると、いろいろなことが見えてきて、そして、自分の思い通りにならなくて、苦しい時期がかならず来ます。
 でも、それは普通のことなんです。みんなが、体験していることです。

 だからこそ、思い切って、「自分なんて思い通りにならないもの」と割り切っちゃいましょう。
 そして、自分にできること=呼吸法、名前付け、洞察
 そういったことを、ただただ、息をするがごとく、ただただ繰り返していきましょう。かならずその先に、見えるものができていますし、
そういう風に、割りきっちゃうと、続けることも少し楽になりますよ。

 実際、僕がこうやっていえるようになるにも、SIMTの開始から2年すぎくらいからでしょうか。今、3年間ほどになりましたが、そんなもんです。もちろん、そこまでいくまでにも小さな気づきはいっぱいあったし、体調も少しづつ回復はしましたけどね。

 前々回のブログでも書いたように、たとえ洞察や呼吸法をやり始めて、やり方を覚えても、脳が変わるのには時間が必要です。
 その時間を待てずに、すぐの「変化」を期待するのは、今日、腕立て伏せを10回やって、「いつになったら、100㎏のバーベルを持ち上げられるかな」って毎日考えていくようなものです。
 それを目指すことは、すごくいいこと、続ける力かもしれませんが、その結果を期待しすぎてしまうと、トレーニングがつらくなっちゃいますよね。でも、ただただ、そういった実践を続ける先に、100㎏のバーベルを持ち上げられる日がくるかもしれません。

 さて、今日は、実践をやり始めて誰しもがぶつかりやすい問題について書いてみました。問題といいつつも、このことに気づくということ自体、成長なんですけどね。
 初心者の方向けという感じですが、これと同じようなことは、状況を変えて繰り返し自分に起こってきます。僕も、いまだに今回書いたような方法で、自分の中の「評価」や「どうにもならない感情や思考」と対応しています。

 ぜひ、何かと困難を感じている方も、あきらめずに実践をお続けください。おそらくあなたが思っている以上に、実践自体はうまくいっているのだと思いますよ。あとは、肩のちからを抜いて、今やっている実践を、無理なく続けていくことが大切です。

 ではでは、今日はこの辺で。今回も、お付き合いいただきありがとうございました!


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プロフィール

Ko7

Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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