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自己洞察瞑想療法の講習会なども始めました! → マインドフルネス@つくば

意志的自己と叡智的自己(意思作用の訓練と心の葛藤)

 
 久しぶりの更新になってしまいました。子供達も夏休みになり、何かと休まらない日々を送っています。

 今日は、意志的自己と叡智的自己という事について自分の経験を元に考えを書いてみたいと思っています。
 というのも、最近、SIMTの実践を続けていく中で、以前にもまして、日々の生活や仕事の中でストレスを感じる頻度が減ってきているように感じているからです。そして、なんでそんなに楽になっているかというと、それは自分の中での葛藤というのがすごく減ってきているからだと考えています。
 その葛藤がなぜ減ったのかというのを考えた時に、この意志的自己と叡智的自己というものに考えが至ったわけです。

 まず、意志的自己と叡智的自己というものについて簡単に書いてみたいと思います。
 SIMTの理論的背景となっている西田幾多郎の哲学では、いわゆる自己、自分とは何かというものについて、段階があると言っているようです。ここからは僕も大田先生の受売りで、西田哲学をしっかり勉強したわけではないので申し訳ないですが、正直、西田先生の文章だけを読んでも、意味はサッパリ分かりません。
 大田先生の書かれたマインドフルネス入門という本に叡智的自己について書いてあったりしますが、それも何回読んでもわかりませんでした。
 しかし、大田先生に会ってお話を聞いたり、SIMTの実践の中で気づきを積み重ねていくうちに、自分なりにこういうものなのかなというのが分かってきたので、それを踏まえて書いてみたいと思います。

 まず、普通、「私とは何か」という事を考えた時に、「今、感じ、考えている私が『私』だ」と思うと思います。
 これは、知的自己とか概念的自己、思惟的自己といったものです。
 このレベルでは、「私は、どう感じて、どう考えるかによって私というものが決まり、それによって行動している」といった感じだと思います。そして、この思考をしているレベルは、まさに鬱になって抜け出せないでいる時の状態で、様々なネガティブな思考が頭を巡り、「なんてだめな自分なんだ」と自分=ダメだとなっている状態です。

 そこで、意志的自己とは何かとう事ですが、様々な思考や感情、感覚を感じつつも、それを眺めて横に置いておけるような状態です。SIMTで訓練をしている意思作用、注意の作用というのは、このレベルの訓練の事になります。
 思考や感情など、様々な作用が自分の中で働いていて、そして、意思をもって、自分の注意作用を動かしたり、分配したりして、呼吸法を行なっていったり、洞察を繰り返して行ったりしていきます。
 それは、単に思考の波にのまれているより、もう一回り大きな自己であるわけです。
 思考や感情、感覚といった作用をつつんでいるというか、内に收めて、それをある程度、意思の作用で止めたり動かしたりしているという意味で、概念的自己、感情的自己、感覚的自己というものより一段階深い自己であると言えます。
 
 大田先生も、この意志的自己を訓練することで、不安障害や鬱は、改善し寛解させることができるとおっしゃっていました。
 特に、セッション前半でやるような訓練は、この注意作用をトレーニングし、自分の意思の力をうまく働かせる訓練と言えます。
 実際に、セッション前半のスキルを身に付けることで、僕自身も、様々な深いな症状や調子の波自体を抑えることはできませんが、それでも、そのような症状や波を感じながらも、それをくぐり抜けていくことが可能になってきました。
 症状や調子の波にパニックにならず、必要な対処を行なっていくことができるようになり、日常生活や仕事への復帰などができるようになっていきました。

 確かにこの段階で、症状は軽くなり、大きな問題は解決されます。しかし、自分の症状、調子の波、生活に対する不安など、消えたわけではなく、あくまで共存できるようになってきたとうレベルです。

 それが、無くなってきたというのはどういうことかと考えると、そこで、もう一つ深い自己のレベル、叡智的自己というレベルが関係してくるように思いました。
 これは、セッション後半の本音をさぐったり、日常生活の中で洞察を繰り返して行く訓練を続けていくことで達成されるように思います。
 意志の作用を用いて、自分の中に生じてくる感情的な出来事、怒り、不安などなど、様々な現象を、そのままにしつつ観察して、どうしてそのような感情が生まれたのか観察していくと、その背後に、様々な本音、評価の基準があることが見えてきます。
 それは、今までまったくあたりまえで、自然に生じていた感情であっても、よくよく、繰り返し観察していくと、かならずその背後には、その感情が生まれる理由となった評価をしていることに気がつくはずです。
 その評価が行なわれているために、感情や気分が生まれ、自分の中に様々な葛藤が生まれ、ストレスを生じさせています。
 その評価自体の洞察をさらに繰り返していくと、過去の経験や記憶といったものに気づくようになります。
 そういった評価やそれによって生まれる感情は、瞬間的に起こり、自然に起こってきてしまうものなので、自分の意思の力をもってしても、止められるわけではありません。むしろ、それを止めようとしてしまったり、無くそうとしてしまうと、それがさらなる評価や葛藤につながり、感情はむしろ暴れ出します。
 ただ、そう評価したり、その結果、葛藤や感情が生まれたことに気づいてあげるだけでいいんです。
 日常の様々な事の中で、生まれては消えて行く、そういった葛藤や感情、その元になる評価に気づいてあげるだけでいいんです。
 そうして、その評価基準が生まれるもととなった記憶や過去の経験までたどりつくと、一時的に感情が大きく揺さぶられることはあるんですが、しばらくすると、その評価自体が自分のある経験から生まれた独善的なものだと理解できてくるのか、自然と、感情の動揺や葛藤は少なくなっていきます。自分の勝手な評価に気づいて、それを横に置いておいてあげることができるからです。

 しかし、生活の様々な場面では、常に決断を迫られ、行動をしています。そうすると、意思作用を使って、自分の中の勝手な評価やそれによって生じる感情を、横においておくように繰り返していっても、この状況であるなら、自分はこのように行動しようという選択肢がかならず浮かんできます。それは自分の中からでてくるものではありますが、感情や勝手な思い込みではなく、その状況をきちんとみつめた上で、フッとわき上がってくるように、決断や行動が内から生まれてくる感覚です。
 その結果が良いにつけ、悪いにつけ、それ自体にも評価をせずに受け止めるのですが、またそこでも感情や評価は横においておきながら、次の瞬間の状況にあった行動や選択が自然と生まれてきます。
 このように、意思作用を常に働かせて洞察を続けていくと、その先に、「行動する自分」というのが、自然とでてくるのです。
 その行動には、不安や迷いというものがあまりなく、「こういう状況ならこうしよう」というのが、すっと自然と出てくる状態です。
 この「行動している自分」というのが、まさに叡智的自己です。
 このような自己を頻繁に経験するようになってくると、この「行動する自己」の状況においては、迷いや不安が限りなく少なくなっているので、葛藤もなく、結果としてすごくストレスの少ない生き方をできるようになります。

 僕自身、常にこの状態になれているわけでは決してありませんが、自分の感情や思考の働きを常に洞察していると、その感情や思考、自分自身の勝手な評価に気づき、それに惑わされずに行動できる頻度が増えてきているので、日常で感じるストレスがすごく減ってきているんじゃないかと考えています。

 この叡智的自己に至るためのスキルは、セッション後半で学んではいて、そのための基本的なスキルはセッション前半で学んだ、注意の分配や心理現象への名前付けといったものになるのですが、おそらく、セッション10までの10ヶ月で完全に身に付けることは不可能かと思います。僕自身も、セッション開始後、もう3年くらいになりますが、やっと最近、このあたりのことが自分なりの考えではありますが、掴めてきているかなといった感じです。

 でも、実践を丁寧にやり続けていれば、絶対にこういった状況になっていけます。
 感情や症状、体調、ストレス、そういったものを自分の力で押さえこむことは不可能ですが、実践を続けることで、自然とそういった問題が生じにくくなってくるのです。
 確かに、意志的自己、意思作用の訓練だけで、体調は劇的に改善はします。
 しかし、生きて行くと言うことは、本当に様々なできごとが起こります。今までに予想しなかった挫折や困難、ストレスも襲いかかって来るわけです。僕自身、まだまだそういったものすべてに立ち向かえると自信をもって言える状態ではありませんが、自分を深くみつめ、洞察し、叡智的自己のレベルまで自分を深めていくと、そういったことが来ても、自分なりに対処していけるのではないかという自信が少しずつですが育ってきます。
 そして、ストレスが減り、葛藤がなくなることで、生きていくのがすごく楽になり、日々の生活に幸せを感じることができるようになってきました。つらい時には、自分の子供ですらも負担に感じ、自分の子供をかわいいと思えない自分はなんと残酷な親なんだと自分を責めたときもありましたが、子供をかわいいと思える感情も、自然とわいてくるようになりました。

 僕は、SIMTには、本当にうつや不安障害を始め、様々な問題、状況を解決する力があると思っています。
 ぜひ、今、苦しい中にいる方も、あきらめず、希望をもって実践を続けていただけたらなと思います。
 
 時間はかかります。一歩一歩のあゆみはゆっくりですが、でも、着実に前に進めます。
 ぜひ、あきらめず頑張ってください。

 今日は、僕自身が考える意志的自己、叡智的自己について、そして、それによりどのように自分の中のストレスや葛藤が減っていくかを書いてみました。ちょっと理屈っぽい話しになったかと思いますが、わからなくてもまったく問題はありません。
 実践を続けて、体験を通して感じれば、自然と分かってくるものです。決して頭だけで理解するものではないと思います。

 ではでは、長文おつきあいありがとうございました。
 また、何か気づいたことがあったら、更新をしていきたいと思います。

 
 

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No title

こんにちは。最近、瞑想をしてもはかどらず、悩んでいました。
私は今、「うつ・不安障害を治すマインドフルネス」を読みながら、一人でやっているのですが、今はセッション4のところにいます。
本に書いてあることはよくわかるし、こちらのブログに書かれていることもとてもわかるのですが、まだ全然瞑想の効果が感じられません。
瞑想は30分やっていて、毎日できるわけではなく、月に10~15日くらいしかできていないのですが、瞑想中は一応その課題の通りにできていると思います。
でもそれが、日々の生活の中の行動時自己洞察になると、ほとんどできません。思考のチェックや、心理現象に名前をつける、というのを時々思い出してやるのですが、またすぐに思考や感情の渦の中心に入って、一体になっています。
一時間に一回くらい、思考、感情、と名づけて、そのあとは、気づくところに戻ってこれない感じです。それが一日のうちに3回あればいいほう、という感じです。一瞬だけ名付けをやっていて、気がついたら思考と感情の電車に乗って、自分の物語の中に入りこんでいます。そして、朝、今日は名付けよう、と思ったのに、忘れてもう夕方になっていた、みたいな。

私は最近、毎日やっている瞑想が、日常生活の行動時自己洞察の時の訓練になっていないのではないかと思うようになりました。
それで今回のブログの中で、意志的自己について書かれていますが、まさにこの意志的自己が全然育ってこない感じだと思いました。
瞑想中は、以前にも書いたとおり、思考が浮かび、それに気づくと、すぐに「見る」ことに集中したり「聞く」ことや「呼吸」に集中します。言葉も感情も、また何度も浮かんできますが、集中することに戻ると、消えます。でも日常生活の中では、見よう!と思っても、
一点だけを見ていていいわけではないので、集中が続けられないようです。たとえば料理をしながら、手元をずっと見ながら、集中しようとしても、さまざまに他のことをこなしながら料理をするので、すぐに一つの集中からはそれてしまうのです。
もっと高度に分配や移動をして、ひとつひとつに集中しながらさまざまな複数の行動に集中しなければいけないのかもしれませんが。。
また瞑想中は、そうして、見たり聞いたり呼吸することに集中するので、思考も、最初の3言葉くらいで止まったりします。
なので、私がやっているのは、ただただ没頭しているように集中するような瞑想になりがちで、気づきの力をはぐくむための反復運動になっていないような気がするのです。
でもこれは、以前にも質問した通り、思考を見つめようとすると思考は止まることは、それでもいい、ということでしたので、関係ないのかもしれませんが。
そして日常生活では、さまざまな出来事に反応して、思考し感情的になりながら、「ただそのまま観察する」ことができず、さまざまな評価をし、またそれが行動に反映して思考や感情もまた生まれて~みたいな中にいます。なんとかしなきゃと考えたり、やったことが全部裏目に出てるというか。。勝手な思い込みを作っただけだったんだなと思ったり。それが瞑想のおかげで気づいたのではなく、ブログや本を読んで、ただ自分の状態があてはまっていると頭で理解しているだけなのですが。

長くなってしまいましたが、私は今こんな感じなのです。
瞑想のやり方が悪いのか、行動時自己洞察のやり方が悪いのか、なんでもいいので、何かお気づきの点があれば教えていただけると大変にありがたいです。
わかりにくい文章だと思います。すみません。

Re: No title

まりさん、コメントありがとうございます。すごく一生懸命、実践をされていることが伝わってきますね。
きっと、今、まりさんが感じられている壁は、多くの方が同様に感じることのように思います。僕自身も、そういう時期はあったように思うし、自分のやっていることに意味はあるのかと悩む時はありました。
 
 僕で分かる範囲でコメントできるとしたらなんですが、まりさんの文章を見ている限り、すごくおかしな事をやっているようには思えないんですよね。だいたい正しいというか、まりさんなりのやり方で訓練できているような気がするのですが。。。。

 あえていうなら、日常生活の中での思考のチェックや洞察を、一瞬ではなく、少しでも持続的にやりたいとおもったら、傾注観察法を多用するといいと思います。僕も瞑想でボディスキャンをやっているからと、日常生活の中で同じ事をやろうとしたら、今、目の前のことがおろそかになりうまくいきませんでした。それでは、まったくマインドフルではなく、マインドレスネスだということに気がついたので、それからは、今、ここでやっている事に意識をむけて、それ自体を傾注観察し、それ以外のことに思考が流れたり、傾注観察をしている行動をしながら、生じてくる感情や感覚に名前をつけていくということをやっていきました。そして、その中での一次感情、二次感情といったものも観察し名前をつけていくということをやっています。
 とは言っても、一日の内で、本当に傾注して観察できている状況ってそう多くはありませんが、今は、これでいいと思って、少しずつ続けています。なるべく点の観察が線になっていくように。

また、まりさんのコメントの
>>>>>>
> そして日常生活では、さまざまな出来事に反応して、思考し感情的になりながら、「ただそのまま観察する」ことができず、さまざまな評価をし、またそれが行動に反映して思考や感情もまた生まれて~みたいな中にいます。なんとかしなきゃと考えた>り、やったことが全部裏目に出てるというか。。勝手な思い込みを作っただけだったんだなと思ったり。それが瞑想のおかげで気づいたのではなく、ブログや本を読んで、ただ自分の状態があてはまっていると頭で理解しているだけなのですが。
>>>>>>>
 というところを読むと、すごくお気持ちはわかるのですが、「そのまま観察すること」というのを理想的にやりすぎようとして
、そんな自分を評価してしまうという悪循環に陥ってしまっているように思います。『さまざまな評価をし、またそれが行動に反映して思考や感情もまた生まれて~みたいな中にいます』とかけている時点で、「そのまま観察すること」は合格点だと思います。その1つ1つに名前をつけられたり、チェックが入れられたりしていれば、もう満点ですよ。それを、『なんとかしなきゃ』と考えたり、裏目にでていると考えてしまう時点で、すでに評価しており、「そのまま観察」ではなくなっているわけです。
 そう評価してしまうこと、そんな自分にがっかりしてしまうお気持ちもすごくわかります。しかし、焦っても徐々にしか身につかないというか、そういった自分自身も受け入れられるようになってくると、自然と、自分自身を「そのまま観察」することができるようになってくるような気がします。

 ちょうど、その辺のことをブログに書いていたところでした。ご参考になることがあるかわかりませんが、良かったら新しい記事も読んでみてください。

 僕が感じている洞察というのは、「洞察してやるぞ」という感じではなくて、「あ、それたな」と思って、「今、ここ」に意識を戻すという、一瞬のものですし、そこでは、別に成功も失敗もなくて、ただ、それたから戻す(名前をつけて)、ということをただ、ただ、繰り返している感じです。
 そうしているうちに、ふと気づきがもたらされる時があるといったくらいです。
 セッション4のあたりというと、そういう洞察を繰り返して行く中で、連鎖、いわゆるパターンがないか、見つけていくという段階かと思います。この見つけて行くのも、「見つけてやるぞ」という感じで、一日の中でずーっと洞察が働いて、パターンを見つけ出すというよりは、繰り返し、一瞬の洞察を積み重ねていく内に、「あれ、そういえば、こういう洞察、こういう連鎖って良くあるような。。」となんだかパターンがうっすらと見えてくる、という感じのように思います。

 僕が受けた印象になってしまいますが、まりさん自身の実践はすごく上手にできているように思うので、どうかあせらず続けていかれたらいいのではないかと思うのですが。。。
 
 なんだか、よいアドバイスのようなことが言えずに申し訳ありません。僕自身も、自分の洞察を振り返るよい機会になるので、またぜひ何かあればいつでもコメントいただけたらと思います。「ここは間違ってると思います!」というようなご批判でもかまいませんよ(^^)

 まりさんの実践がより深まることをお祈りしております。

No title

丁寧なお返事をありがとうございました。
傾注観察法、というのがなんだったのか本を見て確認しました。
作業をするときは「目の前の道具などをしっかり見て、それをとりあつかっていく」「その作業に集中する」とありますね。
瞑想中に思考の抑制や注意の移動ができても、日常生活の作業中はまったくできていません。
瞑想中との違いは、何か一点にしぼって集中できないからかな、と思ったのですが。
料理をする時はいつも何か道具を使っているので、今度はそれをしっかり見てとりあつかう、ということに集中を絞ってやってみようかと思います。
また、ボディスキャンというのはだいたいやり方はわかるのですが、「うつ・不安障害を治すマインドフルネス」の本で、どこに出てくるのかわからないのですが、本には載っていないんでしょうか。

今回書いてくださったことや、更新されたブログを読ませていただいて、やはり気づきや洞察をただしていく、という作業をもっと積み重ねないといけないんだなと思いました。私は、作用と対象や、感情や思考の原因と結果を、「これで自分のことをわかろう、見てやろう」ととても分析的に今すぐ結果が出るように、見ようとしていた気がします。
以前にも書かれていたと思いますが、気づきは点で、その点のデータが必要な分すべてそろったら、点が線になって、星座みたいに、何をあらわしているかがわかるものなのかなと思っています。
なのでそれらのデータがそろうまで、自分が人為的に推測してわかろうとすることは、よけいな判断や思い込みを作るだけかもしれませんね。でも現実生活では、今すぐ何か対処する必要があることってありますよね。そういう時はどうされていますか?
そういう時でも、わからないからといって勝手なストーリーを作ったり決めつけたりせず、「今はここまでしかわかっていないけど、とりあえず、この部分だけが困っているから、こういうふうに対処しておくけれど、それがあっているかどうかはわからない」という感じで部分部分だけを見ていればいいのでしょうか。今までは早く解決したいあまりに、いろんなことを決めつけて行動指針を決め、「これでもう終わり、もう問題はなくなった」としてしまっていました。その方がスッキリしますから(笑)
結果的に現実や自分自身に対して、とても低い解像度で見ているというか、おおざっぱなまとめ方をしてしまっているので、あとからまた問題になるというか。

何かまたお気づきの点があれば、教えていただけるとありがたいです。私も、この先何年も何年もかけて身につけていく、それまでの間は、「今はそれでいいよ」として、また淡々と筋トレをするような気持でやってみます。

Re: No title

まりさん、コメントありがとうございます。お返事が遅くなりました。

  ボディスキャンなのですが、それはSIMTの本には出ておらず、ジョン・カバットジンさんのストレス低減の本に出ていますが、そのやり方だと、横になって40分くらいかけてじっくりやるものです。僕は簡易版というか、ただ意識を頭の先から、足の先まで順番に向けて行くようにやってます。
 SIMTで扱わないのは、大田先生に聞いてみたことがあるのですが、日常生活の中ではボディスキャンをやる機会があまりなく、日常生活や社会活動の中で生きて行くためのSIMTにはそぐわない部分があるためとのことでした。
 たしかに、前回のコメントでもかいたのですが、日常生活中に「今、ここ」でやっている以外のこと、つまりボディスキャンなどを始めてしまうと、「今、ここ」の事に意識がおろそかになってしまいます。僕は運転中にやってみたら、ちょっと危なかったです(笑)。

 でも、個人的には静かに座ってやる瞑想、呼吸法の時にボディスキャンをやるといいんじゃないかと思う部分があって、というのは、ひとつは、身体感覚が鋭敏になってきて、身体のどこにどんな力が入っている、感覚が生まれているということに気づきやるすくなり、そうすると、日常生活でもちょっとした感情の変化や気持ちの変化が起こったときに、からなず身体にも反応がでているということに気づきやすくなるように思うからです。また夜、不眠傾向のある人には、寝るときや夜中に目が覚めたときに、このボディスキャンをやるとかならずではないのですが、眠りに落ちやすくなるように思います。カバットジンさんの本にも不眠の方に効果があったと書いてあったように思います。

 ようは使い方ですね、何事も、きっと。
 僕なりのやり方は、ブログ記事「不眠対策」などにまとめてありますので、よかったら読んでみてください。

 さて、お返事をかけるようになるまでにバタバタして時間が空いてしまったのですが、その間にまりさんのコメント、質問に対して、いくつか気づきがありましたので、お伝えしてみます。もし、的外れの内容だったらスルーしてください。
 
 確か、座ってやる瞑想はある程度うまくいくが、日常生活で気づきがうまれてこないというお話があったかと思います。その座ってやる瞑想法、呼吸法のところで、ぼくなりに考えたことがありました。
 すわってやる瞑想の時、確かに意識を呼吸や目の前のものなどにもってきて、それを集中とは表現されていますが、僕自身、思考がうかばないように、それを抑制するために意識を集中しているという感覚はあまりありません。
 というよりも、意識が常に逸れたり、思考にながれたりするものなので、それは無理に止めようとせず、ただ、意識が動いて「今、ここ」のものから離れた瞬間に、それに気づく事ができるようなセンサーを磨いて行く感覚です。
 だから、意識が思考にいったり、身体の感覚に向いたりしたときも、それは「それてしまった、残念」というわけではなく、それに気がつくことができることが大切です。そういう意味では、意識がそれたり、思考にながれたり、聞こえた音が気になったりしてくれないと、そのセンサーの訓練ができないので、むしろ、思考が動くことが歓迎なわけです。その動きに気づきやすくするために、基準点をつくるものとして、呼吸や「今、ここ」の感覚、たとえば目の前に見えるものなどに意識を集めておくようにしています。

 すごく微妙なニュアンスで、この辺をお伝えするのは難しいのですが、この違いは結構大切なように感じます。
 思考などに意識がずれないように、「今、ここ」から意識が離れないように、意思力、集中力を鍛えあげようとしているのではなく、意識は動き回るものだから、それは変えようとせず、ただ、意識が動いた時の、その動いた事に対するセンサーの感度を上げるためにやっているような感じです。
 そのセンサーを磨いていくと、意識のちょっとした動きもわかるようになってくるため、結果的に、意識は「今、ここ」から動きにくくなりますが、目的は、その動きをとらえられるようにすることで、意識を動かさないようにすることではにように思います。 
 確かに瞑想の中には、サマタ瞑想などといって、1点に意識を集中することで行なう瞑想もあるようですが、SIMTで行なうマインドフル瞑想では、そうではなく、意識が動いた事に敏感になるような意識の使い方のように僕はとらえています。

 まりさんが、静かにやる瞑想の効果が日常生活の気づきにつながらないといっていたので、そういった点がもしかして違うのかもしれないと思って書いてみました。日常生活での洞察というのも、傾注観察法にしても、「今、ここ」に意識を固定することが目的といううより、「今、ここ」に意識をむけたことで、そこから別のものに意識が働いた瞬間に、その事実に気づきやすくなるというようなものだと思います。そういった観点で、静かにやる瞑想をやっていると、そのセンサーが磨かれて、日常生活の中でも、「今、ここ」以外のことや自分の中で様々な感情や感覚が生まれたり消えたりすることが、鋭敏にわかるようになってくるように思います。これも、あくまで、淡々と数を重ねていった結果、「そういえば、気づけるようになってきているな」という感じのものですが。

 そこで、今回のご質問にもあった、日常生活の中では決断、判断しなければならず、それと洞察するべき、気づくべき思考とどういう風に見分けるかというお話ですが、僕自身は、「今、ここ」でやっていること、目的としていることに関係する思考や判断は止める必要もないし、状況的に必要なものだと思います。
 ただ、「今、ここ」から離れて言ったときには、そこには気づいていたほうがいいです。
 あと、感情が動いたり、身体感覚が生まれたことには、気づけるといいと思います。
 この気づきというのも、生まれたり、動いたりすることに気づくだけで(センサーですから)、それを解釈しようとしたりすることではありません。

 「今、ここ」と関連のある思考とちがう思考の例をあげると、
 旅行の計画を立てようと思い立ち、ノートを広げた。そこで、どこに行くのが楽しいかなと考え始めた(これは旅行の計画をたてようとしているのだからOK)。そこで、以前、行った旅行を思い出していた(これも、今回の旅行の計画のために、意識的に思いだそうとしているのならOK)。そうしたら、「そういえば、あそこで食べたピザがおいしかったなー、あのお店はまだやってるかな。あそこのご主人は確か偏屈なひとで・・・」と無意識に連想がすすんでいった(これは、「今、ここ」の計画のために考えていることではなく、すでにそこから離れてきているので、この離れたときに、『気づく』ことができるとよいです)。
 
 こんな例をあげて見ましたが、明確な区別があるわけではありません。ただ「考えよう」と思っているときに、思考するのは必要なわけです。ただ、そうでもないのに、意識が関係ないことにもさまよいだしたらそれは、必要な思考ではありません。
 で、ここでやはり重要になるのが、先ほど書いた「センサー」としての観察なわけです。
 この必要でない思考をしないようにするのが目的ではなく、「今、ここ」への注意から、離れてしまったことに気づくセンサーが大切なわけです。結果的に、「今、ここ」に注意が戻ってきて、思考に入りにくくなりますが、あくまで、無意識に働きだす思考や評価に入っていこうとしたことに「気づく」のが大切なわけです。そうした点としての気づきを繰り返して行くと、点のつながりとしての自分の癖がわかってきて、そうすると、その癖の背後にかくされた自分の本音や評価基準といったものが、徐々に明らかになってきます。これが洞察なわけです。

 自分でもこうは言っていても、その境は難しいところですが、静かなところでの瞑想を丁寧にやっていると、「あ、今、それているな」という感覚が、不思議とわかってきます。これは感覚的なものなので、理屈ではないのですが、わかるようになってくると思います。それがわかるためには、やっぱり名前付けや、気づいて戻すという作業を丁寧にやっていく必要があるのだろうなあと考えたりしています。

 僕自身も、もともと、仕事などでも、あいまいなもやもやとしている状態は好きではなくて、白黒はっきりさせて早く片付けてしまいたいタイプでした。それができないことがストレスでしたし、自分で勝手にストーリーを作り上げて、それを頭の中で無意識に繰り返し、つらい思いをしていたりしましたが、SIMTをやるようになり、やっと最近ですが、そういった勝手なストーリーを作ろうとした瞬間に気づけるようになってきて、「今、ここ」のことを、そのままとして扱えるようになると、ストレスもグッと減ってきました。自分が作り出していたストレスって大きかったんだな-と感じています。
 繰り返しで、もういいよという感じかもしれませんが、こうかくと、このストーリーを止めることができるようになり、それがSIMTの目的のように感じてしまいますが、あくまで、「今、ここ」にとどまろうと努力しているというわけではなく、「今、ここ」から意識が離れたなと気づけるようになった(センサー)ということで、結果として、今にとどまりやすくなったというだけです。

 すっかり長くなってブログのひとつの記事にしてもいいくらいになってしまいました(笑)。いつも長文でごめんなさい。せっかくなので、今度、この内容を記事にさせてもらおうと思います(笑)

 まりさんも、僕と同じように意識や思考で生きてきた人っぽいので(ちがったらごめんなさい)、きっとSIMTを身に付けて行くことの恩恵って大きいと思いますよ。今、少し壁にぶつかっているようですが、ちょっとした意識の使い方のコツを見つけるだけで、ブレイクスルーを得られることが結構あります。僕自身も、SIMTの上達の仕方って、そんな感じでした。「よしコツをつかんだ!」と思ってやっっていると、またもやもやとよくわからなくなってきて、そして、しばらくすると、「あー、こういうことだったんだ」というのが、ちょっとしたヒントやきっかえで分かったりして。
 何より、実践をつづけていくことで、そういった瞬間にもであえます。また、同様に頑張っている方々の話もすごく参考になります。ぜひ、これからもめげずに続けて言ってください。応援しています。

 繰り返しになりますが、僕の勝手な推測から、書いたアドバイスですので、的外れだったらごめんなさいね。
 これに懲りずに、ぜひ、またブログに遊びにきてください。ではでは。

 



> 丁寧なお返事をありがとうございました。
> 傾注観察法、というのがなんだったのか本を見て確認しました。
> 作業をするときは「目の前の道具などをしっかり見て、それをとりあつかっていく」「その作業に集中する」とありますね。
> 瞑想中に思考の抑制や注意の移動ができても、日常生活の作業中はまったくできていません。
> 瞑想中との違いは、何か一点にしぼって集中できないからかな、と思ったのですが。
> 料理をする時はいつも何か道具を使っているので、今度はそれをしっかり見てとりあつかう、ということに集中を絞ってやってみようかと思います。
> また、ボディスキャンというのはだいたいやり方はわかるのですが、「うつ・不安障害を治すマインドフルネス」の本で、どこに出てくるのかわからないのですが、本には載っていないんでしょうか。
>
> 今回書いてくださったことや、更新されたブログを読ませていただいて、やはり気づきや洞察をただしていく、という作業をもっと積み重ねないといけないんだなと思いました。私は、作用と対象や、感情や思考の原因と結果を、「これで自分のことをわかろう、見てやろう」ととても分析的に今すぐ結果が出るように、見ようとしていた気がします。
> 以前にも書かれていたと思いますが、気づきは点で、その点のデータが必要な分すべてそろったら、点が線になって、星座みたいに、何をあらわしているかがわかるものなのかなと思っています。
> なのでそれらのデータがそろうまで、自分が人為的に推測してわかろうとすることは、よけいな判断や思い込みを作るだけかもしれませんね。でも現実生活では、今すぐ何か対処する必要があることってありますよね。そういう時はどうされていますか?
> そういう時でも、わからないからといって勝手なストーリーを作ったり決めつけたりせず、「今はここまでしかわかっていないけど、とりあえず、この部分だけが困っているから、こういうふうに対処しておくけれど、それがあっているかどうかはわからない」という感じで部分部分だけを見ていればいいのでしょうか。今までは早く解決したいあまりに、いろんなことを決めつけて行動指針を決め、「これでもう終わり、もう問題はなくなった」としてしまっていました。その方がスッキリしますから(笑)
> 結果的に現実や自分自身に対して、とても低い解像度で見ているというか、おおざっぱなまとめ方をしてしまっているので、あとからまた問題になるというか。
>
> 何かまたお気づきの点があれば、教えていただけるとありがたいです。私も、この先何年も何年もかけて身につけていく、それまでの間は、「今はそれでいいよ」として、また淡々と筋トレをするような気持でやってみます。

No title

再び丁寧な返信をありがとうございます。
とても自分にとっては目からうろこです。
私は瞑想も日常も、頭から思考を排除するために
やっていると思っていました。集中して、思考しない状態を
少しでも長く続けることが目的だと思っていました。
思考が悪で、思考の影響を受けずに目の前のことに集中していたら
気分も安定しているのだと思っていたのですが、
全然違うんですね。
よく気がついて書いてくださって、本当に本当に感謝です!
もう一度セッション2の名付けくらいから課題をやりなおしてみたいと思います。
自分の感情も、自分の思考も、自分の中から消そうとすることではないのですね。
私は瞑想の時に思考が完全に止まる瞬間を目指していました。
そして最後は日常生活もそうなるのだと思ってしまっていました。
ko7さんが書かれているように、ただ気づいていくことで
自然に問題がなくなっているような状態…(思考や感情を自分でなんとかしようとするのではなく)を待ちたいと思います。
それで、必要な思考と、「今ここ」以外の思考についてなのですが、
少し混乱しています。
旅行の計画とか料理の手順とか、そういう具体的なこと以外に、
私には人間関係の悩みとか、自分の進路というか、自分についての悩みがあって、
いつもそれについて考えています。
自分の思考や感情をいつも分析的に見て、でもただ堂々巡りになっているだけのことがよくあって、ko7さんが書かれているように
本音をさぐろうとしてしまってドツボにはまってしまう、、、ということがよくわかります。私もきっとそうなっているんだと思うのです。
でも、たちまちは、今、なんらかの結論を出して対処しないといけないことってありますよね。
たとえば目の前で人が怒っていたり、嫌な言い方をしてきて、
私も嫌な気分になって、怒っているときとか。
そういう時に「そのままにする」「徹底受容」というのを
どういうふうにすればいいのかが、ニュアンスとしてわかりません。
たとえば、自分の中に怒りがあって、それが「あるな」と思って、
また目の前のことに意識を戻して、また怒りがわきあがってきて
「まだあるな」と気づいてでもそのままにして、また意識を目の前に戻して…って
「私、こんなに怒ってるんだ」と思考して、それに気づいて、
また戻して、「怒りがさらに強くなってきてる。どうしよう」と思考して
戻して、、、、ってやっていたらこのあいだ、爆発してしまいました(笑)
最初に怒りに気づいた段階で、なんらかの対処をとらないといけなかったのですが、「そのままにする」とか「徹底受容」は
嫌な気分を我慢するとか無理に抑えるというのと違うとは
思うのですが、よくわからなくなってしまいました。
いつも自分が冷静さを失っている時は、腹式呼吸をしたり、
相手や自分について何か勝手なストーリーを含む判断をして、
とりあえずの対処をしています。
それは「そのままにしない」ということになるのかな?と思ってしまうのですが、
「そのままにして観察し、ただ気づいておくだけ」というのと、どう違うのでしょうか。。
また、ある集まりに参加して、それがとにかくしんどかった時に、
その集まりに参加し続けていたら、ストレスがたまってしまったりしますよね。だから、やめようと考えたり、その時にまた
自分やそのしんどさの原因など、目の前のこと以外の
抽象的な思考をしながら考えて、一応の行動基準を作ろうとしますが、その時にやっぱりいろんなストーリーができてしまったりして、、でも、気づきが自然に生まれるまで参加し続けて、
本当の解決が自然に起こるのを待っている、、、
ということをしていたら、また爆発してしまいます(笑)
もちろん、そうすることが「そのままにする」ということではないのは
わかるのですが、いまいち意味がつかみかねています。
何回も質問してすみません。
またお時間のある時にでも何かお気づきのことがあれば
教えていただけると大変ありがたいです。

Re: No title

まりさん、お返事おそくなりました。
実は、この2週間ほど、半年ぶりの片頭痛がおこるわ、パソコンは壊れるはで、てんてこ舞いでした。パソコンもやっとネットにつながるようになったくらいのもので、まだいろいろとやることがあるのですが。。。人生、ままなりませんね、ほんとに。

さて、コメントへのお返事なのですが、思考するとか判断するということに関しても、前回、静かにやる瞑想の中で、思考を止めるのではなく、気づくことに重点をおくということと基本的には同じだと思いますよ。
 
 実生活の中での判断や思考は必要なものだし、そういったことが起こってくることもあります。というか、当たり前に自然におこってきます。そのままにするとか、実生活での洞察というのは、そうやって起こってくる判断自体を無理やり中止したり、思考を無理やり止めたりするものではありません。
 あくまで大切なのは、判断や思考をしたときに、「今、判断(思考)が働いたな、こういう『判断(思考)』をしたんだな」と確認することです。
 感情が動いた時も同じです。「今、『怒り』を感じたな」「身体反応として、胸のあたりがどきどきしているな」とか、今起こっていることに気づいてあげられたら、それでOKです。そうした結果、思考は止まる場合もありますし、もっと思考を続けることもあります。感情はたいていの場合、気づいても消えませんね。しばらくは残ります。その状況の中で、反応・行動をした結果、さらに悪化することもあります。二次感情ですね。
 しばらくして、思い出してしまって、その時の感情や新たな怒りや不安な出てきたら、それは三次感情です。
 そういったことに気付ければ、まずはOKなんです。
 だから、極端に言ってしまえば、思考しようが、判断しようが、怒りにまかせて爆発してしまっても、それは、SIMT的には、問題ではないと思います。大切なのは、そうなったときに、「今、こうしたな」と生じた減少に名前をつけて、その存在に気付けたかということです。そして、その思考や判断、行動、感情に伴って起こってきたことにも、また、名前をつけて、「気づいて」あげていきます。それが評価してしまって、落ち込んだとしても、怒りに任せてだれかを気づ付けたとしても、それはあくまでただの結果です。その結果により起こってきたことを、とにかくただ、「気づいて」いけば最初はいいんだと思いますよ。

 最初から、正しい判断ができて、感情をセーブできて、自分の納得のいく、その場に適した行動ができるなんてことはありえません。それがでてきいるなら、SIMTなんかやらなくてもいいんです。

 ただ、前回の静かに座ってやる瞑想の時のように、いろいろなことは起こってきてしまうものだから、ただそれに「気づく」センサーを磨いていくことが大切だと思います。特に最初は、あまりうまく生きることにこだわらず、ただただ、その気づきを積み上げていくことが大切だと思います。

 座ってやる瞑想でもそうですが、自分のセンサーが磨かれていって、ちょっと思考に走っただけでもそれに気づけるようになってくると、思考を止めようとしなくても、ちょっとの思考をしたところで気が付いて「今ここ」に意識を戻せるようになってくるので、相対的に思考を巡らしている時間は減ってきます。これが結果的に思考が少なくなってくる、止まってくるということです。決して、最初から思考を止めようとしているわけではないんです。

 同様に、生活の場面での判断なども、最初から、「良い判断」ができるわけではありません。感情がコントロールできるわけではありません。ただ、どんな場面でも「今、思考したな。」「怒りの感情があったな。」「爆発しそうだな。」「大きい声を出すという行動をしてしまったな」「その結果として、気分が落ち込んだな」と、ただただ、一瞬の気づきと名前付けを入れていきます。そうして生まれてくる現象の連鎖を、自分の中に蓄積していくんですね。
 もちろん、落ち込めばつらいし、結果としてうまくいかなかったなと感じてしまうときもあります。でも、それも結果で、そう感じた事自体を、名前をつけておきます。それさえできれば、その時点ではOKとしていきましょう。

 そういった蓄積がたまってくると、自分の中に繰り返されていくパターンがふっと見えてきたりします。
 パターンがみえてこなくても、「そういえば、こういう状況っていつもあるな」とか、「こういう時には、私はいつもこういう反応をしているな」というのが、わかってきたりするんですね。
 そうしてくると、人間だから当たり前ですが、あまり自分が嫌と感じる結果を生じるような選択しを取らなくなってきます。もちろんそこまでいくまでには、失敗もあります。でも、例えばある状況で、怒りを爆発させたとき、自分ではそれは失敗だと思うかもしれませんが、感情を爆発させることが必要な時もきっとあるわけです。逆に、1回、うまく状況を切り抜けたからと言って、常に同じ解決法をしていたら、きっとうまくいかない日が来ます。だから、できることは、常に「今、ここ」で起こっていることに名前を付けていき、それによって生じる結果も、また「気づき」を入れていくことです。

 さらに極端なことを言うと、そういう「気づき」「洞察」が入れられなくたっていいんですよ。僕もそういう日や時が一杯あります。ただここでも大切なのは、「気づき」ができにくい時の、自分の状況には、ちゃんと「気づき」を入れてあげることです。
 「あ、今日は、今ここに意識を戻そうとしても、すぐに思考に流れるな」と感じたら、それも気づきです。僕は、そういう時は、「今日は、そういう状態の日なんだな、身体の状態がそういう日なんだ」と思うようにして、身体の状態のチェックをいれてます。そうすると、やっぱりそういう「気づき」が起こりにくい日は、いつもに比べて疲れがたまっていたり、心配事があったりするときのように感じています。「じゃあ、思いっきり休もう」と判断して洞察モードをオフにしたりしますが、少し休んだ結果、身体の状態がどうなるのか、その結果、「気づき」をもたらそうとする意識の活動がどうなるのか、それはちゃんとチェックするようにしてます。

 ちょっと長くなってしまいましたが、まりさんも、今は、あまり深く上手にやることや、うまくやりこなすことを考えすぎず、名前を付けたり、連鎖を観察したり、そういった経験を、ただただ蓄積させていってみてください。自分にいいと感じることも、だめだなと感じることも、すべてただの結果です。その日にはその日の気づきがあり、その日できたことが、その日の100%なんだと思いますよ。よくやっている自分をほめてあげましょう。

 人生、ままならないことは果てしなく多いですが、一歩一歩、ともに頑張っていきましょう。また気が向いたときに、コメントでもしてください。ではでは。

 PS,感情や思考に飲み込まれそうになって、つらいときは、僕は、やっぱり呼吸法や傾注観察、注意の分配などを、そっちに意識をひっぱられすぎないように踏ん張るのに、よく利用しています。それも、一つの自分なりの解決方法だと思います。まりさんが今、できそうなことをいろいろやってみてください。そして、その時に気づきを入れられてれば、現時点ではそれでOKだと思いますよー。

No title

ko7さん、本当に何度も丁寧にお返事を書いてくださって、ありがとうございます。今はとにかく「気づく」ことだけをやってみようと思います。
思考を自分から止めようとするのではなく、ただ気づいている、
という状態になれるように。
そして今できることが100パーセントでこれでOKだという
気持ちで、やっていってみますね。
本当に親身に教えてくださって、ありがとうございました。
いろいろと人生はままならないですね。でも
今ただ自分にできることをやっていくしかないですね。
また何かあったら書き込ませていただきますね。
それでは、本当にありがとうございました。
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訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
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私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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