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思考が止まる時 (瞑想中に訪れる静寂)

 こんにちは。

 今日は、静的瞑想をしている最中に、思考が止まる時があるということについて書こうと思います。

 前々回、質問に答える中で、自分が思考している時に、気づく事ができると、その瞬間に一度、思考が止まると言うことは書きました。そして、呼吸や身体の感覚、つまり「今、ここ」にある感覚に意識を戻していくわけです。

 でも、今日、書こうと思っている「思考がとまる」というのは、それとはちょっと違います。

 座って静かに瞑想をしていると、自然に思考が止まる時が訪れることがあるのです。
 
 もしかして、SIMTやマインドフルネスを実践されている読者の方でも、そのような事をすでに経験されている方もいるかもしれません。

 ただ、これについて書いてしまうと、このブログを読んだ後、ついついその状態を追い求めようとするあまり、「今、ここ」にただ意識を向けて行くマインドフルネスから離れていってしまう危険性があります。なので、初心者の方は、読まない方がよいかもしれません。また、読んでも、その状態を求めようとせず、あくまで今できることを続けていった方がよいと思います。
 なぜなら、僕も何度か思考が止まるのを経験していく中で、自分でそうなりたいと思ってトライしたことが何度かありますが、今の僕の経験の中では、その状態は望んでできるものではなく、基本的な洞察の瞑想を続けて言った結果、「そういう状態になることがある」、あくまで結果としてなることもあるというもののように感じるからです。

 では、どのような状態なのか書いていこうと思います。

 僕がSIMTを習い始め、1年の講習会を終えて、実践を続けていく中で、さらに半年位か1年ほどたったころでしょうか。
 基本通りに、呼吸を数えながら、ボディスキャンをやったり、思考に気がついたら「今、ここ」に意識を戻すということを繰り返していったときに、なんだか不思議な状態になるときがあることに気がつきました。

 その不思議な状態というのは、「今、ここ」に意識がずっとあるといった感じです。

 通常は、その状態を保とうとしても、知らず知らずのうちに、何らかのイメージが出現したり、思い浮かべていったりしてしまい、気づかないうちに「今、ここ」から意識が離れ、思考の中に入ってしまっているということがほとんどなのですが、その意識を繰り返し「今、ここ」に戻しながら、ゆっくり呼吸法で呼気を長めにして続けていくと、徐々に、思考の元になるイメージのようなものが浮かばないようになってきて、心と意識がどんどん静かになって、ただ静寂の中に座っているような感じになっていることに気がつく、というような事を経験するようになりました。

 静寂といっても、何かに集中して周りの事が入ってこないという訳ではなく、周りの音も良く聞こえているし、目の前の景色もよく見えています。
 むしろ、自分の中に思考の元となるものが生まれてこないので、意識は「今、ここ」を感じることにすべて向いており、感覚はすごく鋭敏になっていて、まわりの状況がはっきりとわかる状態です。ただ、自分の中に思考がうまれてこないので、ただただ心は静寂な状態です。
 音は聞こえますが、それを「~の音がしている」と認識するのではなく、ただ、生の音そのものが、自分の中を通り抜けていく感じがします。そして、その音にも引きずられることなく、消えて行くに任せ、常に更新されていく「今、ここ」と共に有り続けるような感じです。

 こういった状態が、瞑想を始めて10~15分くらいすると訪れることが、いつもではないのですが、時々あるようになりました。そして、数分間くらいその状態が続くと、また疲れてくるのか、いつの間にか、いつものように思考が始まってそれに気づくといったような具合です。時計を見ながら時間を逐一はかっているわけではないので、あくまで時間はだいたいの目安ですが。

 自分では、こういった状態が、果たして瞑想がうまくいっているのかいないのか、それはマインドフルネスの範疇の物なのか、どう判断して良いかよくわかりませんでした。
 
 状態としては、決して気分の悪い物ではなく、むしろ、心が静かになって、頭が冴えているようなすっきりとした状態です。
 
 ただ、気持ちのよい状態が、決してマインドフルネス的に正解かというと、僕はそういうわけではないと思っています。むしろ、リラックスしたり、気分が落ち着いたり良くなったりするのは、結果としてそうなるのは良いですが、それをマインドフルネスの本質ととらえてしまうと、その状態を追っかけたり、作り出すのに一生懸命になり、「今、ここ」に意識を戻していくというマインドフルネスの本質から遠ざかってしまう危険性さえあるのではないかと思っています。

 だから、今回書いているような思考が止まった状態も、果たして良いものなのかどうか、判断しかねていました。
 
 わるい状態ではないように思ったのですが、いかんせん、思考自体が生まれなくなっている状態なので、当然のことながら、その状態の時は「気づき」もないわけです。
 その状態を体験し始めた時の僕は、この「気づき」こそが、マインドフルネスに大切なものだと思っていたので、「気づき」がなくなってしまうこのような状態が果たして良いものなのか迷っていたわけです。

 そうしている中、数ヶ月前の話しなのですが、ある瞑想に関する本を読んだときのことです。
 それは、SIMTやマインドフルネスに関した本ではなかったのですが、インドのヨーガを実践されてる方が自分の瞑想の実践について書いた瞑想に関する本で、すべてが理解できたり納得できたりするわけではないですが、やはり長年実践されている方の話だけあり、参考になる部分も多くありました。
 それに、マインドフルネスやSIMTの元になった禅、それに仏教自体も、元をたどればインドに端を発しているわけで、ヨーガなども、結局追い求めているゴールみたいなものは同じではないかと僕自身考えており、最近はそういった本も参考に読んだりしてみています。

 その中に、インドの瞑想において得られる、悟りに至る段階であるといわれる「サマーディ」(三昧:ざんまい)という状態は、大きくサムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)と、アサムプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)という二つの段階に分かれるそうで、さらに、最初のサムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)の段階は、サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)とニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)、サヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)、ニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)の4つの段階に分かれるそうです。あー、ややこしい。
  つまりは、瞑想による意識の深まりは、
    有尋三昧 → 無尋三昧 → 有伺三昧 → 無伺三昧 (ここまでが有想三昧) → 無想三昧
   の順に深まっていくということのようなんですね。
 これが正解かどうかはわかりませんが、古来から続くヨーガ行者の間で、実践を通じて言われてきたことのようです。

 そして、この最初の有尋三昧の段階では、思考を通しての達成される三昧(サマーディ)のようなのですが、この次の段階の、無尋三昧というのは、7世紀のヨーガの経典の注釈家の訳を借りれば、
 「チッタ(心)は記憶が機能を果たさなくなった後で、つまり、言語上あるいは論理上の諸々のつながりがなくなった後で、ニルヴィタルカ(無尋三昧)となる。それは、その対象が名称と意味をなくした瞬間においてのことであり、思考が対象の形をとり、対象それ自体が独りで輝くことによって、思考が直接それ自体を反省したその瞬間においてのことである」
 と書かれています。
  
  意味分からないですよね。。。。
  
 でも、この部分に書いてあることが、僕には、僕が、その「思考が停止している状態」になっているときに、周りの音などが、「~の音」と言語的に認識されるのではなく、その生の音のまま、僕自身の中を通り抜けていくような、その音自体が僕の身体の中でなっているような感覚を表すのに、ぴったりなような気がしたのです。

 僕自身、SIMTの論理的背景となっている西田哲学もまだ勉強していませんし、仏教やヨーガについても詳しくありませんが、ずーっと何千年も瞑想を探求し続けている人たちが書いている文章の中に、こういった記述があることを知り、僕自身が体験したあの状態、瞬間というのは、瞑想を実践していけば自然に訪れうるものであり、決して間違った道ではないのではないかと、思えるきっかけになりました。

 その本の中での解説では、この状態は、瞑想のまだ第2段階の状態にすぎず、この後、第3段階、第4段階、さらにその上、と、瞑想によって得られる状態は進んでいくようです。

 僕には、まだここから先の状態はさっぱり理解できませんが、きっと、地道に実践していれば、やはりいつかは自然に訪れうるものなのだと思います。

 この文章を見つけてから、少し自分の体験の意味が分かったように感じていたのですが、そういえば、以前、研究発表会で大田先生とお話させていただいた時に、大田先生が書かれた「マインドフルネス入門」の中に、「叡智的自己」というものが書かれていたのですが、僕はそれがまったく理解できず、先生に質問したところ、「叡智的自己」の段階では、「『気づき』すらなくなります。」とおっしゃっていたのを思い出しました。
  その時は、僕は、「気づき」こそが、そして、「気づき」によって自分が変化していけることが、SIMTの、マインドフルネスの凄さだと思っていた頃だったので、先生の言っていることは、「?????」という感じでうまく理解できず、「そういうものなのかー」としか思っていなかったのですが、今回書いたような状態を体験して、上記の本の文章に出会ってからは、もしかしたら、その叡智的自己の段階を少しだけ体験し始めているのかもしれないと感じられるようになりました。
 
 そして、それからは、「気づき」すらも、マインフルネスでは、副産物であり、決して目的ではないのだろうと考えるようになっています。

 もちろん、これは僕の勘違いかもしれませんし、マインドフルネスにはまだまだ奥にふかーく道は続いているのだと思います。
 これは、あくまで今の段階での僕自身の考えであり、学びです。

 でも、ヨーガや仏教など、古くから面々と続く自己探求の道に、なんとか自分も道を踏み外さず進めているのではないかと感じられるのは嬉しいものです。

 さて、今回は、僕が体験した「思考が止まる瞬間」のお話を書いてみました。
 
 まだ、いつもこの状態が訪れるわけではなく、僕の中でも現在進行形の学びの体験です。
 でも、この状態は決して、狙ってできるものではないと思います。基本的な洞察を続けていくと、フッと自然とそうなる瞬間が訪れるかもしれません。

 冒頭に書いたように、僕自身、今回の体験を書くことで、むしろ初心者の方には悪影響になることも懸念しています。
 でも、やっと最近、自分のこの体験を自分なりに理論づけすることが(あくまで仮の段階ですが)できたので、今回思い切って書いてみました。

 あくまでご参考程度に読んでいただければ嬉しいです。

 また、同じような体験をされている方が致したらコメントいただけると嬉しいです。

 では、これからもともに自己探求の旅を続けられることを祈っています。

 ではでは。 
 

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こんにちは。今回も、興味深く読ませていただきました。
同じ経験になるかはわからないのですが、
私も似たような状態になることがあります。
思考をみつめると思考が止まる、ということを続けていると
だんだん思考の元の衝動が少なくなってきて、浮かんでこなくなります。そしてシーンとした無の状態になるというか、、、。
その時は、普段の思考がある状態とその無の状態とのギャップに驚くことがあります。とくに、感情的になっている時には、思考が静まったことで感情も静まり、
「今、ここ、には心配するようなことや不安になるようなことは何もなくて、それは全部頭の中にあったんだ!」と実感することがたびたびありました。
そして、思考はつねに連想ゲームのようなことを続けていて、関連のありそうな刺激的な言葉やイメージをつぎつぎに検索してくるというか、それによって感情も高まって、思考もまた過激な感じになっていって、、、。それを受け取らずにふくらませないでいると、そのサーチエンジンの力が弱まっていってやがて止まる、という感じです。
瞑想のあとも30分くらいはその状態が続いて、本を読んだり勉強をしたら、とても集中できている自分に驚きます。(普段とても思考に邪魔されているとも思います)
ただ感覚が鋭敏になるとか、まわりの状況がはっきりとわかる、ということはないのでko7さんと同じ経験をしているかどうかはわかりません。ただ冷静になる、とか落ち着きを取り戻す、という過程を経験しているだけかもしれませんが、少し似たところがあったので書かせていただきました。

私は普段からとても頭の中に雑念というか、言葉や思考がたくさんあって、意識もそちらにばかりいってしまっています。
自分の日常生活のほうを片手間にやるような、日常生活のほうを自動運転にして、意識は思考の方に行っている感じなので、とっても日常の動作がおろそかになり、注意欠陥とか散漫といった感じになります。
また頭の中にある雑念や言葉、思考の内容がなんであれ、
その状態自身がとても不快です。
いまのところ瞑想以外でそれがなくなることはありません。
日常生活の中でそれに気づいて、意識を自分の行為に向けようとしても、ほんの一瞬だけで、すぐまた思考の中に入ってしまいます。
最近、SIMTの本を購入して、今ひとりでセッション1からやっているのですが、これらの訓練を続けていけば、いつか日常生活の方にもっと意識を行かせて集中できるようになれるでしょうか、、、。
また質問なのですが、
セッション1では呼吸法をしながら注意作用の洞察と、洞察実践3の包んで映すを実行するとあります。
今はなんとなく、呼吸を観察したり、長く吐いたりしながら、
音や視界、身体の感覚にも意識を持ち、
さらに思考が浮かんできたら、呼吸に意識を戻したりしています。
漠然とした感じでやっていますが、これでいいのでしょうか。
思考を見つめると思考が止まる、というのをしている時は、自分の中に電光掲示板をイメージして、言葉をひとつひとつそこに映すような気持でやっていると思考が出てこなくなるのです。
包んで映す、というのも同じように解釈しているのですが、それとはまた違うのか、よくわかりません。でも呼吸法をしながら電光掲示板をイメージするのは難しいので、ただ呼吸に意識を戻すようにしています。あまり厳密にこれはこう、これはこう、というのはないのかもしれないし、またセッションを進めていけばわかってくることがあるかもしれませんが、、、。
何か気づいたことがあれば教えていただけるとありがたいです。
長くなってすみません。

Re: タイトルなし

 まりさん、コメントありがとうございます。まりさんの経験されている過程が大変よくわかって参考になります。


読ませていただくと、ほぼ僕が体験しているものと同じであるように思います。マインドフルネスを実践されている方が同じような体験をされていて、僕にとっても大変励みになります。

> 思考をみつめると思考が止まる、ということを続けていると
> だんだん思考の元の衝動が少なくなってきて、浮かんでこなくなります。そしてシーンとした無の状態になるというか、、、。

そうそう、まさにそんな感じです。

> その時は、普段の思考がある状態とその無の状態とのギャップに驚くことがあります。とくに、感情的になっている時には、思>考が静まったことで感情も静まり、
> 「今、ここ、には心配するようなことや不安になるようなことは何もなくて、それは全部頭の中にあったんだ!」と実感するこ>とがたびたびありました。
> そして、思考はつねに連想ゲームのようなことを続けていて、関連のありそうな刺激的な言葉やイメージをつぎつぎに検索して>くるというか、それによって感情も高まって、思考もまた過激な感じになっていって、、、。それを受け取らずにふくらませな>いでいると、そのサーチエンジンの力が弱まっていってやがて止まる、という感じです。

本当にそうですよね。マインドフルネスを習い始めて、まず、自分がどんだけ思考の世界の連想ゲームに漂っていて、「今、ここ」の現実に生きていないことに自分で気がついた時に、僕は本当に愕然としました。


> 瞑想のあとも30分くらいはその状態が続いて、本を読んだり勉強をしたら、とても集中できている自分に驚きます。(普段と>ても思考に邪魔されているとも思います)

これも本当にその通りで、瞑想をした後って、しばらくはすごく感覚が繊細になっているというか、目の前の事に集中できるというか、瞑想の時に到達していたモードがしばらく持続している感じですよね。

> ただ感覚が鋭敏になるとか、まわりの状況がはっきりとわかる、ということはないのでko7さんと同じ経験をしているかどうか>はわかりません。ただ冷静になる、とか落ち着きを取り戻す、という過程を経験しているだけかもしれませんが、少し似たとこ>ろがあったので書かせていただきました。

 これは、僕自身、感覚が鋭敏になるとブログには書いたのですが、おそらく自分の能力以上に+アルファの感覚が身につくといかそういう訳ではなく、おそらく、普段は意識の一部が(僕の場合は大半がそちらに費やされていますが)思考の連想など、「今、ここ」でない世界に向かってしまっていて、感覚をフルに感じていることがなかなかないんだと思います。その中で、瞑想中、その思考の世界が止まるので、結果として意識がすべて「今、ここ」の感覚に向かうことになり、そのため、普段より鋭敏になっていると感じているだけなのだと思います。普段もっている感覚の力をフルに近い感じで使えているというか。

> 私は普段からとても頭の中に雑念というか、言葉や思考がたくさんあって、意識もそちらにばかりいってしまっています。
> 自分の日常生活のほうを片手間にやるような、日常生活のほうを自動運転にして、意識は思考の方に行っている感じなので、とっても日常の動作がおろそかになり、注意欠陥とか散漫といった感じになります。
> また頭の中にある雑念や言葉、思考の内容がなんであれ、
> その状態自身がとても不快です。
> いまのところ瞑想以外でそれがなくなることはありません。
> 日常生活の中でそれに気づいて、意識を自分の行為に向けようとしても、ほんの一瞬だけで、すぐまた思考の中に入ってしまいます。
> 最近、SIMTの本を購入して、今ひとりでセッション1からやっているのですが、これらの訓練を続けていけば、いつか日常生活の方にもっと意識を行かせて集中できるようになれるでしょうか、、、。

 僕も今書いたように、日常生活では基本的に妄想の世界に生きているタイプなので(笑)、日常生活で瞑想の時のように洞察モードでいれることは少ないです。ただ、まりさんの書いたように一瞬かもしれないですが、「自分が今思考モードに入っていた」と気づけることが、すごく重要なんじゃないかと思います。そして、その頻度を増やすために、様々な手法を使っていったり、さらには、静的瞑想の時間をとって洞察の訓練をしていくことが本当に大切なように思うんです。

> また質問なのですが、
> セッション1では呼吸法をしながら注意作用の洞察と、洞察実践3の包んで映すを実行するとあります。
> 今はなんとなく、呼吸を観察したり、長く吐いたりしながら、
> 音や視界、身体の感覚にも意識を持ち、
> さらに思考が浮かんできたら、呼吸に意識を戻したりしています。
> 漠然とした感じでやっていますが、これでいいのでしょうか。
> 思考を見つめると思考が止まる、というのをしている時は、自分の中に電光掲示板をイメージして、言葉をひとつひとつそこに映すような気持でやっていると思考が出てこなくなるのです。
> 包んで映す、というのも同じように解釈しているのですが、それとはまた違うのか、よくわかりません。でも呼吸法をしながら電光掲示板をイメージするのは難しいので、ただ呼吸に意識を戻すようにしています。あまり厳密にこれはこう、これはこう、というのはないのかもしれないし、またセッションを進めていけばわかってくることがあるかもしれませんが、、、。
> 何か気づいたことがあれば教えていただけるとありがたいです。
> 長くなってすみません。

 「包んで映す」とか、とても言葉だけで感覚をつかむのは難しいですよね。僕自身も、そうでした。僕としては、「手で持ってそこに置いておくという」というイメージです。でも、電光掲示板のところを読むと、おそらく、いわゆる「包んで映す」という表現でやろうとしていることは、まりさんご自身はできているのではないかと思います。
 この辺は、僕自身は、自分としてどのような方法、イメージの仕方や表現が、一番しっくりきて、結局は、「評価をせず」「生じてきたことをそのままにできるか(徹底受容)」ということを実践できていければいいのじゃないかと思います。
 僕が田中先生に習ったときも、あまり「包んで映す」「器の心」とかの言葉にあまり惑わされずに、思考の衝動や思考にとらわれず、気づいたら「今、ここ」に意識を戻すということをただ繰り返して行くことをアドバイスされました。
 おそらく、定義にこだわりすぎて思考に陥っていってしまうと、ドツボに嵌ってしまうからだと思います。それよりも、基本的な事を繰り返しやっていって体験として、実践の中で身に付けることが大切かと思います。

 これは、余分な表現になってしまうかもしれませんが、例えば水泳を身に付ける時に、水の掻き方を説明している文章があって、こちらの本の表現が正しいとか、「水をつかむように」と書いてあるのはどんな感覚かと、いくら考えて悩んでも答えはでないですよね。それよりも、早く水に入って、水に親しんでいくと、自然と、「あの本に書いてった感覚はこのことなのかもなー」と分かってくると思います。

 おそらく「包む」とか「映す」とかもそれに近いものなんじゃないでしょうか。

 今回のコメントを拝見させていただいても、まりさんのやってらっしゃった瞑想というか洞察は、SIMTで僕が習った洞察などとかなり近いというか、まさにそのもののように感じますので、本の表現をベースに、まりさんのやりやすい方法で続けていけば言いように思います。何が良いかは、まりさん自身の身体や感性が教えてくれると思いますよ。

 マインドフルネスは、自分自身の中に自分なりのものをそれぞれが作っていくことがすごく大切なのだと思うのですが、自己流に陥っていまうのではないかという危険性もありますし、自分がやっているのが本当に正しいのかとか、そのあたりの兼ね合いがすごく難しいですよね。いつも僕も心配になります。

 僕なりの対策としては、自分の中の気づきも、すぐに「これが正解だ!」と確定せずに、「今は、こういう気づきだな」くらいにしておいて、あとは、本や他の実践者の方と交流して話しを聞いたりして、そういった表現と照らしあわせていくことが良いのかなと思っています。

 そういう意味で、こういうブログで僕自身の体験を紹介させていただき、いろんな方にコメント頂いてフィードバックしてもらえることは、本当に僕自身の為になっています。

 なんだかご質問の答えになっているかどうかわかりませんが、ぜひ、これからもブログにお立ち寄りいただき、体験の共有に協力していただけたらと思います。今回もコメントありがとうございました!

No title

回答いただいてありがとうございます。
このまま続けていても大丈夫なようなので、とても安心できました。
ko7さんの「手で持ってそこに置いておく」というイメージも、とてもいいですね。よくわかります。他の人の比喩表現を聞けることで、内的で抽象的なことでも、その内容を確かめることができますね。こちらこそ、こういうブログがあって本当に助かっています。
SMITの本を読んでいると、本当にいろんなテクニックが用意されていて、感心しています。おっしゃっていた名前をつける、というのもとても有効ですね。それがあるとないとでは、全然違って、名前をつけることで我に帰って、自分の行動を選びなおすことができるというか。そういうふうに、思考どっぷりにならないように、気づけるように考えられているんですね。これから進めていくのがとても楽しみです。私も何か気づいたら、「今はこういう気づきだな」と思うようにして「これが正解!」と思わないようにしたいと思います。
どんなことであれ、そういう姿勢は大切ですね。
今までひとりで思考錯誤してやっていましたが、こうして励ましてくださる場所があってとても嬉しいです。これからも更新を楽しみにしています。本当にありがとうございます。
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プロフィール

Ko7

Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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