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「観察者としての自分」を例えるなら

前回も、「観察者としての自分」ということについて書きました。

 この観察者としての自分ができてくると、どうして楽になってくるのか、鬱の改善やストレスの緩和にどうしてつながってくるのかという点について、僕なりに解説してみたいと思います。

 日々生活をしていると、様々な事に出くわします。いろいろなことが起こってきます。
そこで、我々は出来事に一喜一憂し、右往左往、毎日しているわけです。

 でも、実は、その起こっていること、その事実自体にはなんの意味もないのです。
 それは、僕らの頭の中で解釈されて、始めて意味をもち、僕らの感情を動かすのです。

 僕らにとって、重要なのはその事実自体というよりも、その事実が自分の中でもっている意味、そして、その意味が生じる前後関係、つまり文脈、ストーリーが大切になるわけです。

 そして、そのストーリーは、それぞれの頭の中に、心の中に、独自に持っているものです。

 だからこそ、ひとつの汚いぬいぐるみが、ある人にとってはかけがえのないものになり、また、高額の札束が、ある人にとっては、まったく意味のないものになるのです。

 これについては、以前、信号のたとえで書いたことがあります。

 例えば、あなたが車にのって赤信号で待っているとき、ただ、赤信号でまっている状況であれば、別になんの感情もわかないでしょう。

  ただ、「信号が赤で、車を止めている」 という状況がそこにあります。ただ、ぼーっとしながら、信号待ちをしている状況です。

  ところが、もし、これが、朝寝坊して、仕事に間に合うかどうか、電車に間に合うかどうかの状況であったらどうでしょう。

  まったく同じ場所で、同じように信号に止まっていたとしても、その時のあなた自身の気持ちや思考は、まったく変わってくるはずです。きっと、イライラして、いつもより信号が変わるのに時間がかかっているように感じるかもしれません。頭の中では、「なんで寝坊したんだろう」など、後悔の言葉を繰り返しているかもしれません。

  しかし、ここで注目していただきたいのは、この信号自体は、何も変化していないことです。信号が赤であるということには、何の意味もないのです。

 確かに、朝寝坊をして、遅刻をしそうだというストーリーができあがっています。あなたはそのストーリーの中で生きていて、その中で、赤信号がこのタイミングであらわれたとき、そこに、あなたにとっての、赤信号の意味ができあがるわけです。

 もし、何かの魔法が使えて、一瞬であなたの記憶を抜き取ってしまったらどうでしょう。
 さっきまでの焦りは嘘のように消えて、ただ、信号をまっている状態にもどるでしょう。

 つまり、この信号に意味を与えていたのは、あなた自身の中にあるストーリーなのです。
 確かに、朝寝坊したという事実はあります。その事実は変えられません。でも、この「寝坊した」という事実も、信号待ちをしている時点では、すでに過去であり、その事実は、あなたの頭の中にしかありません。
 
 例えば、隣の車から、信号待ちをしているあなたをみても、「朝寝坊して焦っているあなた」も、「普通に信号待ちしているあなた」も、「あなた」という存在という観点からは何もかわらないわけです。
 
 ここで、信号待ちしている隣りの車から、あなたをみたらどうでしょう。
 ただ、赤信号で止まっている時のあなたは、「ただ、普通にしている」ように見えるでしょう。
 そして、朝寝坊した時のあなたは、「髪がぼさぼさで、しきりに時計を気にしていて、落ち着かない様子」なのが見てとれるかもしれません。それをみて、観察している人は、「あー、寝坊したんだね-、大変だ。でも慌てて事故を起こさないでね」と思うかもしれません。共感することはあっても、本人ほどはイライラしていないでしょう。

 これが、観察者の視点です。

 観察者としての自分が、自分の中にできてくると、イライラして慌てている自分と同時に、それを人ごとのように眺めている自分ができてきて、それが、9:1であったものが、8:1くらいになり、7:3くらいになり、とだんだん大きなウェイトを占めるようになってきます。
 もちろん、感情的に大きく揺さぶられるような事ほど、この観察は難しくなるため、10:0で、ストーリーにどっぷりつかってしまい、観察どころじゃなくなることもありますが、日常的なことであれば、だんだん、観察者の視点が平行してあるようになってきます。

 それを育てるために、毎日、静的瞑想をやっているようなところがあります。

 例え1割でも、観察者の自分ができてくれば、それまで、つらさ100%だっところが、90%になり、冷静な自分が10%保ているわけです。

 別の言い方でいうと、皆、それぞれのストーリーを生きている訳です。
 それを映画に例えるなら、皆が、それぞれ、自分を主人公にしている映画の中を、まさに生きている訳です。
 本当にその中を生きているわけだから、大変です。命がいくつあっても足りないくらいです。

  では、それを映画館でみているとしたら、どうでしょう。
 確かに、怖いシーンでは鳥肌もたつし、身体がこわばるかもしれません。
 でも、映画の中で本当に生きている人にくらべたら、冷静にその状況をみることができると思います。

 さらに、もし、これが家で、テレビを使ってそのストーリーをみているとしたらどうでしょう。
 怖い場面でも、悲しい場面でも、感情は多少動きますが、映画館ほど怖くはないですよね。
 テレビをみながら、「私ならこうするな」とか、「僕ならこういう選択をする」といったように、違った行動をとれるかもしれません。

 これは、小説の中の主人公と、それを読んでいる人(観察者)と言い換えられるかもしれません。

 だから、とらえ方次第で、好きに生きられるといっているわけではありません。
 ストーリー自体は、そう簡単に変えることができないかもしれません。でも、より、詳細にそのストーリーをみることができれば、以外と、その主人公が気がついていなかったことにも、あなた自身が気がつけるようになるかもしれないのです。
 そうした事が積み重なって、あなたの気づきを主人公にも教えてあげることが、できれば、主人公が変わっていき、ストーリーも変化していく可能性がでてくるわけです。

 ちょっと、抽象的な話しになってしまいましたが、マインドフルネスを続けているうちに、自分が良くなっていく、ストレスに強くなっていくことというのは、こういう説明ができるのではないかと思って書いてみました。

 特に不思議というか、僕がおもしろいなと思ったことは、観察が徐々にできるようになってくると、自分の症状や、気持ちのつらさはあまり変わりはないのに、周りの人から、「良くなってきたね」とか、「最近、あんまりつらそうじゃないね」とか、言われるんですよね。最初は、自分としては、つらさは変わらないし、症状も同じだし、何が良くなってるんだろうと不思議に感じていたのですが、自分が、自分の症状や自分自身に起こってくる事を、眺められるようになってきて、その第3者的な視点としての自分が、自分の立ち振る舞いにもでてくるので、それをさらに傍目からみると、あまり、一喜一憂し狼狽えているようにはみえなくなってくるのかなと思いました。
 映画の主人公は、本気で怖がりますが、それを見ている人を観察しても、多少の感情の表出はあっても、そこまで動いたり暴れたりしないですよね。
 ちょうどそんな感じかなと。

 最近は、いろいろと忙しくなってきており、すっかり更新頻度も遅くなっていますが、これからも何とか続けていきたいと思っていますので、お時間のあるときに、見に来てください。

 ではでは、また何か感じた事など、コメントいただければと思います。
 

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観察について

はじめてコメントさせていただきます。
マインドフルネス瞑想を自分なりにやっていて、
わからないことがあり、ネットで調べていてこちらのブログを
知りました。
私は頭の中に浮かんでくる思考を見つめようとすると、思考が
止まります。思考の元になる衝動に気づいたら、それを文章化して、頭の中で思考として展開させる働きが、止まるようです。
それはそれで頭や感情が静まって「思考のない状態」を体験できたり、夜は眠れるようになったりしていいことがあったのですが、
それ以上に進まないのです。それ以外の時は、自分の思考と距離をとったり、見つめることができず、ふりまわされ思考と一体になっています。
頭の中で思考しながら、同時並行してそれを観察する、ということができません。
よく瞑想の本などに思考を観察することが大事と書かれているのですが、この思考というのは、「頭の中で自分自身が作っている言葉や文章、つぶやき」というものではなく、もっとざっくりした
「概念」みたいなものなのでしょうか?
「思考を観察する」のは思考と同時並行ではなく、時間差があって、思考をした後に、ふりかえって「こんなことを考えていた」と思い出して、洞察するということなのでしょうか?そのふりかえったりできることを「距離がある」という表現になっているのか、最近本当にわからなくて、ゆきづまってしまいました。
こうしてこのコメントの文章を考えている時に、それを自動的に頭にまかせながら、どんな文章ができるだろう?と観察できる自分がいないのと同じような感じです。でもよく、思考は雲が流れるように流れていくので、そのままほっておいて見つめるというようなことが書かれていますよね。私にはそれがわからないのです。
観察しようとする自分と、頭の中で文章化して思考しようとする自分は一人なので…。それとも頭に浮かんでくる、文章化させようとする衝動のような概念を、思考とみなさんは呼んでいるのでしょうか?
とりとめがなくてすみませんが、何かアドバイスがいただけるとありがたいです。

Re: 観察について

まりさん、コメントありがとうございます。
ご自身で勉強しながらマインドフルネス瞑想をやられているとのことですが、文章から、大変熱心に実践されており、自分なりに解釈して身に付けていられるのが大変わかります。頭が下がります。

 僕なりに理解しているマインドフルネスについて、観察と思考の関係を書いて見ようと思うのですが、おそらく長文になることが予想され、また、誰もが1度はぶつかる大変すばらしい疑問だと思うので、ぜひ、本文のテーマとして取り上げさせていただき、近日中に書いてみたいと思います。

 僕自身も、その観察するということをやろうとして、SIMTでいうと「本音の観察」というところでは、うまくその観察するということが、わからなくなり、体調を崩しそうに、悪化させそうになってしまいました。その時の感じと少しにているかなとも思います。

 すでに読んでいるかもしれませんが、以前の記事の「SIMTで止める思考とは」という一連の記事でも多少、思考について書いていたと思いますので、本文が仕上がるまでの間、もしでしたらご参考に読んでいただければと思います。

 うまく答えられるかわかりませんが、いましばらくお待ちください。
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Ko7

Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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