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マインドフルネスはなぜにすごいか 自分なりの解釈①(世界と我々の隔たり)

  さて、今日はちょっと理屈っぽいお話しです。

 僕らは、皆、同じ世界の中で生き、お互いコミュニケーションをとって生きていると思っています。
 でも、本当でしょうか。

 今日は、そのあたりの事を理屈っぽく語りつつ、その結果、ではマインドフルネスがどのように作用し、どうして自分を高めるためにどのように作用しているのか、どうして僕自身はマインドフルネスがすごいと思うのか、というようなことについて語ってみようと思います。興味のある方はおつきあいください。

 確かに、僕らの周りには外的環境=世の中、世界があり、同じ時の中で生きています。

 でも、その世界を僕らが皆同じように認識しているかというと、実は違います。
 もちろん、抽象的概念、例えば友情とか愛情とか、善とはという話になったりすると、当然それぞれの中で意味するものは違うと思いますが、実は、この色は茶色とか、味といった割と客観的なことまでも、人により違いがあります。さらにいうと、この世界と、我々には超える事のできない断絶された壁があるんです。そして、その壁は、我々一人一人も隔てているのです。

 では順番に説明していきます。
   
 まず、以前も書いた我々が物事を認識して、行動に移す過程を思い出してください。

   ①(外界から、内界からの)刺激 → ②五感+③認識(言語・思考) → ④感情、⑤身体反応 → ⑥行動

  我々が外界を認識するとき、すべてはこの経路をたどって認識されています。
  ④や⑤、⑥そして、⑥の結果起こった外界での反応などそれぞれが、また①に入り、次の反応の連鎖になっていきます。
 このステップの詳しい解説は、SIMTのアプローチするところ(物事の認識のステップの中で) をご覧ください。ちなみに広くは外界だけでなく、自分のうちで起こった感情や感覚、イメージなども、それが新たな刺激①となり、新たな連鎖のステップが生まれていきます。

  ここで、特に今回大切なのは、②五感と③認識(言語・思考)のステップです。
 我々が物事を認識するためには、かならず、まず②五感(視覚、聴覚、触覚体性感覚、味覚、嗅覚)でそれを感知しなくてはなりません。
 実は、この時点で、すでに世界(外界)と距離ができてしまいます。
 なぜなら我々の五感は、完璧ではないからで、一部の感覚しか認識できないからです。たとえば視覚は、光の成分の中でも限られた領域の波長しか認識しない。紫外線や赤外線と言われる波長のものは、われわれの目では見えないが、世の中にはあふれており、ある種の昆虫などではそれらの波長をとらえていると言われています。また色として感じる領域でも、人間の眼には、赤・緑・青を感じる細胞しかないため、すべての色をそれらの混合としてとらえていますが、他の生き物には4種類、5種類と色を感じる細胞があり、同じ色をみても、我々が見ている色と、他の生き物が見ているいろは全く別の可能性が高いです。
 このように同じ世界に暮らしていても、感知する感覚器の性能により世界をまったく違うものとしてみている可能性が高いということが言えます。ここまでは、違う生き物であればわかりやすい話です。
 では、同じ人間同士なら同じ世界を認識しているのでしょうか。
 確かに同じもの、同じ事柄に対する認識は近い可能性がありますが、同じとは言えません。
 なぜなら、我々の感覚装置は、人それぞれにおいて微妙に違うのですから。だから同じ「茶色」と一般的に呼ばれる色を同時に2人の人が見ていたとしても、Aさんの眼を通って脳内に再現された色と、Bさんの眼を通って脳内に再現された色はおそらく微妙に違うことが考えられるのです。例えば、味で考えてみるとわかりやすいかもしれません。Aさんが「海老の味が大好き」といいます。しかしBさんは「海老の味は大嫌い」といいます。Aさんにとっては、Bさんのことは信じられないでしょうし、BさんにとってもAさんは同様に思うでしょう。「美味しい」「マズイ」というのは、その人の経験から言われている可能性も高いですが、実はAさんが感じている「海老の味」とBさんが感じている「海老の味」は、例え同じものを食べても、異なっているのかもしれません。もし、仮にAさんの意識がBさんの身体を借りることができたら、Bさんの舌を通って、脳で探知される味は、非常に不快に感じる感覚であるかもしれませんし、逆にBさんの意識がAさんの身体を借りることができたら、Bさんの舌を通ってAさんの意識が感じる刺激は、大変心地よいものかもしれません。そういう意味では、本当に海老がもっている味というのは、だれもわからなくて、あくまでその人の味覚細胞が感じ、脳で再現されたものしかその人は認識できないと言えます。
 このように、我々の感覚器は、世界のごく限られた領域しか探知できないだけでなく、さらにそれぞれの個人の間においても差異があり決して同じではないということがわかります。つまり、我々の意識は現実の世界(環境)をそのまま認識できないという点において、すでに世界からは大きく隔絶されおり、、さらにはそれぞれの人間もお互いに越えられない壁で隔てられていると言えるのです。

 さらに、同じ世界を共通に認識しているという点においては、認識のステップ③言語・思考の部分でも、問題があがります。

 ただでさえ、それぞれの感覚器でとらえられた情報は個々に異なるといいうのに、実はその情報さえも、そのまま僕らの意識に認識されることはありません。
 というのも、探知されたすべての感覚は、そのまま意識に上るのではなく、探知され脳にその情報が運ばれた瞬間に、視覚や聴覚など探知情報のセットとして、過去の経験や記憶と照らしあわされて、「言語的」な変換を受けるからです。
 つまり「赤色」の色を見た時、眼を伝わってその「色そのもの」が情報として脳に伝わるが、脳に伝わった途端、自分の記憶や経験を参照し、「赤色」とか「赤い」という言語に置き換わるわけです。「リンゴ」を見たとしても、「その物体の情報」がそのまま脳に伝わり、そこで記憶や経験と照らしあわせて、始めて「リンゴ」と認識されるわけです。
 さっきの味でいうと、Aさんが感じた海老の味も、Bさんが感じた海老の味も、実は味覚細胞がその情報を取得し脳に送った段階では、「味そのもの」であり、そこに良いも悪いもありません。しかし、脳に伝わり過去の経験や記憶と照らしあわされた瞬間、「美味しい味」「まずい味」と認識と同時に評価も付け加えられ、変換されてしまいます。
 もちろん、これは意識されることもある。何かの匂いを感じた時に、ある記憶を思い出したりするように、その変換の過程が、自分で認識・意識できることもありますが、今たとえに挙げた味のように、殆どの場合それは反射的に変換されるものであり、無意識に行われる過程です。しかし、我々の中では、身近なものや事柄になればなるほど、この過程は自動化され、無意識のうちに行なわれています。これがすなわち悪いといっているわけではありません。例えば本を読む場合など、1文字1文字の認識に時間がかかっているようでは、本全体の内容を理解することなど到底できません。文字やそのセットの言葉を瞬間的に認識できるようになり、始めてその内容という物まで理解し考えることができるのです。
 なので、ただ、人間の認識のステップというのはこういうものであるということを理解することが大切です。さらに、我々の日常では、そのような認識を、無意識化過程を「学習」と呼び、むしろ「良いこと」ととらえられている面があります。

 さて、この変換プログラムは、もともと人間などの生物が根本的に持っているものでもありますが(痛みに対しての逃避や恐怖の反応のように)、多くの場合は、成長の過程で教育や経験、文化的背景、言語的背景によって作られてきたものです。
 たとえば、文化によっては、虹を7色ととらえるのか、5色ととらえるのか違いがあります。また太陽を絵に描いたとき、黄色で描くか赤色で描くかは住んでいる国や地域によって違いがあります。
 さらには、女性に対する扱いや認識も時代や文化によってかなり差があり、例えば、痩せている人が美しいとされるか太っている人が美しいとされるかなどもその一例です。
 さらに、同じ日本だとしても、水を桶などに入れてお湯で薄めてぬるくするのを忌諱する人がいます。これは、亡くなった方を拭いたりする水はそのようにしてぬるくするので縁起が悪いと言うものであったと思います。でも、僕も含め、それを知らなかった人、もしくはそれを習慣としていない人にとっては、そこに対して不快の感情などはまったく生まれません。しかし、それを「不快」と感じる人にとっては、それは、理屈などなくその感情が生まれるといっていいでしょう。


 このように考えると、我々は世界や外に拡がった環境や出来事を認識するということは、感覚器からの限られた情報が、ある種のプログラムにて変換された結果のみが、意識というスクリーンに表示されたようなものだと言うことができます。

 感覚器(情報)⇒プログラムによる変換(記憶や経験による言語への変換)⇒意識というスクリーンに表示(認識するということ)

 これらの過程は、ほぼ無意識で起こっており、我々は、この意識のスクリーンに表示されているものを、「実際に外界にあるものそのものだ」と考えて普段生活しています。
 しかし、今まで書いてきたように、「本当にあるであろうもの」と我々が「認識したもの」になるためには、認識ステップの中で、かなりの修飾と変換をうけていることが分かります。

 つまり、例えるなら、われわれは、それぞれが、カプセルの中に入って生きているようなものなのです。
 そのカプセルには、窓も無く、限られた計測機器のみが付いていて、それが特殊なプログラムで変換され、その結果のみをみて、我々は、そのカプセルを操縦し、世界(外界)を生きて行かねばなりません。

 このように書くと、いかに心細い状況の中で我々が生きているかがイメージできるのではないかと思います。

 さらに、そのようなカプセルに入った者同士が、同じ認識をもってお互いコミュニケーションをとり、理解し合うなど、不可能に近いと言えることがわかっていただけるかも知れません。

 
 ここまでが、いかにして我々が世界を認識しているか。そして、いかに世界を正確に認識できないかの説明になります。
 良い悪いではなく、このような認識のステップを理解しているというのが、これからの説明に大変重要なことになります。

  今日は、長くなったのでこのあたりにしますが、次回は、では、このような状況の中で、なぜマインドフルネスがその力を発揮できるのか、そして、なぜ私がすごいと感じるのかについて書いていきたいと思います。
 
 ここまでおつきあいいただきありがとうございます。

 よかったらまた見にきてください。
 ではでは。

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Ko7

Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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