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時間は実在するのか?(未来や過去なんて本当にあるの?)


 今日も、ちょっと意味不明なタイトルで書き始めてみたいと思います。
 最近の内容は、直接、マインドフルネスとは関係のないことのようにも思えるかもしれませんが、僕にとっては、マインドフルネスという状態を、きちんと実感、理解していく上では大切かなーと思っていることなので、懲りずに今日も書かせてください。

 前回で、価値や願いを一度捨ててみようというような記事を書いてきました。
 
 今日は、さらに踏み込んで、未来や過去なんて本当にあるの?という事を書いてみようと思います。

 というのも、未来や過去を考えることが絶対的に悪いことだとか、今という時間を刹那的に好きなように生きればいいんだということではなくて、「未来」「過去」そして「時間」という既成概念にとらわれてしまっている場合は、そこから自由になりましょうというお話です。

 僕らは普段の生活の中でも、これら「過去」「未来」「昨日」「明日」など、「時間」という概念を使って生活をしています。
 この概念があるからこそ、カレンダーを使って先々の予定を立てたり、以前のことを振り返って、今日、新たな作業に取り組めるわけです。
 でも、それができるからこそ、「あの時、あんなことをしなかったら」とか、「あの人にあの時にこんな仕打ちを受けたから、今の私はこんな風になっているんだ」という風に、過去を悔んだり、「このままいったら、私の将来はどうなってしまうんんだろう」とか「来週に入っているあの仕事の時に、こんな失敗をしたらどうしよう」など、未来について不安を抱いたりしてしまうことがあります。

 この時、「未来」というのは、「今」ここに存在しているわけではないし、自分の意識が、様々な情報を元に、「今、ここで」、作り出しているただの概念的な想像物であることは、わかっていただけると思います。
 確かに、様々な情報を元にして推測したことであれば、かなり正しいことのように思えるかもしれません。でも、それは、あくまで「今、ここ」の自分が、勝手に作り出した概念ですから、決して、「真実」や「事実」とは違うわけです。
 東日本大震災が起こった日も、あの地震の直前まで、いろいろな人が、いろいろな未来を想像したり、無意識に考えたりして生活していたと思います。でも、その直後に、あれだけの自身や津波がくるなんて想像ができていた人は、ほぼ皆無なんじゃないでしょうか。

 「今、ここ」で、どんな未来を想像したとしても、それは、「今、ここ」の自分自身が勝手に作り出した想像の産物にすぎません。
 なので、「今、ここ」の状況が変化していけば、この未来像も、どんどん変化していってしまいます。
 
 だから、そんな勝手な想像を「確かな事実」と無意識に信じ込んで、あれこれ思い悩むのは、無意味であることを頭で理解するのは、そう難しいことではないと思います。

 SIMTの実践をして、マインドフルネスを身に着けていくとき、決して未来のことを考えない、というわけではありませんが、この「今の自分が無意識に想像してしまう未来」というのに関しては、それが生じたときには、「思考」「想像」と名前を付けて、そこで止めるように訓練していきます。そして、「今、ここ」の状況、感覚、などに意識を戻していきます。
  さらに、実践が進むと、そのような「思考」「想像」が生まれた背景にある自分の本音や価値観に焦点をあてたりしていきますが、それは、一瞬のことです。

 自分の勝手な想像の中で、あれやこれや不安や妄想を膨らませていくより、「今、ここ」の状況や、「今、ここ」でできることに意識をむけていくわけです。 
 なぜなら、「今、ここ」の状況のみが、その「未来」を作っており、実際の「未来」を変えていく方法だからです。
 しかし、その未来が現実にやってくるときには、それは、その時の「今、ここ」になっているわけです。
 だから、常に意識を「今、ここ」に焦点をあてて、「今、ここ」の課題に取り組んでいくわけですね。

 では、過去はどうでしょう。

 過去とは、「記憶」です。

 過去に起こったことは、変えようのない事実で、それは「今、ここ」でどうしようとも、もう変わらない普遍的なものだと考えてしまいがちですよね。

 でも、違うんです。「過去」というのも、やはり「今、ここ」の自分の状態や状況によって、どんどん姿を変えていくんです。

 先ほど、過去はつまり「記憶」だよ、と書きましたが、皆さんんは、自分の記憶にどれくらいの自信をお持ちでしょうか。
 実は、人間の記憶ほどあやふやなものはありません。
  
  それを証明する様々な心理学上のエビデンスはあると思いますが、ひとつに、TEDで行われた「The fiction of memory」というプレゼンを見ていただくとその一端を知ることができるかもしれません。

 そこでは、車の自己をみて、それを記憶し、その状況対して質問に答えるという課題があったかと思います。
 その時、質問の仕方を、「車が衝突したとき」として聞くのか、「車が激突したとき」と前ふりして聞くのかでは、聞かれた人が答えるスピードの速さが、有意に変化してしまうというものだったと思います。
 
 みんなが同じ映像をみて、それも「しっかりと記憶してください」という前提のもとで覚えたものでも、「今、ここ」の質問の仕方一つで、簡単に内容に変化がみられてしまうわけです。
 
 さらには、このような質問に誘導された本人は、その誘導にはまったく気が付きません。

 そのようにして、目撃証言というような裁判の証拠として使われるようなことでも、簡単に誘導や記憶の改変が行えてしまうわけです。そうして冤罪が作られてしまうわけですね。

 そうじゃなくっても、過去のつらい体験も、「今、ここ」の状況が自分に肯定的に感じられる状況であれば、人は、「あの時があったからこそ、今の自分がある」などとかたります。しかし、「今、ここ」の状況が自分にとってつらいものだと、「あの時、あんなことがなければ」と人は語りたがります。

 確かに、「過去」というものは、僕らが「今、ここ」に生きている以上、確かにあったものかもしれません。
 でも、我々の意識というのは、その「過去」を完全に再現したり、自分の意識の中に「記憶」としてとどめて置けるわけではなく、そのごく一部しか、とらえておくことはできないわけです。
 さらに、その一部も、プリントした写真のように変化しない決まったシーンをとどめておけるのではなく、水の上に浮かべられた絵具の模様のように、どんどん変化する曖昧なものです。

 だから、「過去」というものが実在するわけではなく、「今、ここ」の自分の意識の中に、その「過去」の残さ、すでに原型をとどめていないカスのようなものが、漂っているだけなわけです。

 そうすると、ここでも、「未来」について書いたときと同じように、そんなあやふやな「カス」みないたものを、絶対的な事実として、いつまでも、繰り返し思い出して、考え続けることは、あまり意味のないことだというのがわかるかと思います。
 もう、使い古してボロボロになり字さえ見えないような地図をもちながら、その地図だけをもって、道路を歩いているようなものです。そんなものを見続けるより、「今、ここ」の状況で、落とし穴はないか、危険な車は迫っていないか、まわりをしっかり見なくちゃなりません。
  
 だから、SIMTでは、「過去」に対しての扱い方も、さきほどの「未来」の時と同様です。

 繰り返し、無意識に自分の意識の中に過去の記憶がよみがえって来たりする時も、それに気づき次第、「記憶」とか「映像」とか名前をつけて、そこで中断し、「今、ここ」に意識を戻していきます。
 なぜなら、自分が「過去」と思っているその映像を作り出しているのは、「今、ここ」の自分だからです。「今、ここ」の自分と向き合い、できることをやっていくことで、結果的に、「過去」と思っている自分の記憶、そしてその意味が、変化していってしまうからです。

 以上のような感じで、僕は、「過去」や「未来」というのが、事実ではなくて、「今、ここ」の自分が作り出したものだというのが少しお分かりいただけるかと思います。

 そうやって考えると、「時間」ってなんでしょう?

 僕らは、普段、「時間」という概念を使って、生活しています。
 1時間は、60分で、1分は、60秒で、それは変わることなく、世界を支配しているルールのように思えます。
 そして、過去から未来に向かって、時間はだれにとっても平等に流れているように感じています。

 でも、同時に、同じ1時間や1分であろうとも、それは、すべての人に同じような意味を持つものではないことは、だれもが実感できるところだと思います。
 好きな人と一緒にいるときの1時間はあっという間なのに、嫌いな先生のつまらない授業を受けているときの1時間は、永遠に続くのではないかと思うほど長く感じたりします。
 そんな経験はだれもがお持ちではないでしょうか。

 なぜなら、「時間」というもののもつ価値や意味も、「今、ここ」の自分の状況や価値によっていくらでも変化してしまうものだからです。

 アインシュタインがいうまでもなく、時間は「絶対的なもの」ではなく、「相対的なもの」なんですね。

 それは、まるで、「国境」や「お金」のようなものかもしれません。

 確かに「国境」や「お金」という概念は、僕らが生活していく上では便利なものです。

 しかし、地球のどこを眺めても、「国境」という名の絶対的な線は存在しないわけです。僕らが勝手に決めて、フェンスを立ててみたり、検問を設けたりしています。「~人」といのも、勝手に人間が作り出した概念にすぎません。

 お金だってそうです。1万円札そのものには、1万円の価値はまったくありません。あれは、あの紙幣を国が保証して、その価値を認めているからこそ、みんなその1万円札をほしがるわけですが、その前提は絶対的なものではありませんから、国が崩れてしまえば、紙幣なんて、なんの意味もないものになってしまいます。
 日本にいると、ついつい忘れてしまいそうですが、そういう視点で、1万円札の束をもってニコニコしている姿は、滑稽に見えるかもしれません。それでも、ぼくらは、その1万年札に1万円の価値があると思って、ときに殺人さえ起こったりしてしまうわけです。

 「時間」というのも、そのようなものの一つだと思います。もう、無意識に絶対的なものだと思いがちですが、時計のない時代から、この世や続いているわけです。
 そんな時代も、みんな生きていたわけです。との時は、「今」という時間しかありません。
 その「今」をどう生きるかということに集中していたはずです。
 そういう視点で言うと、「過去」も「未来」も、「今、ここ」の自分が作り出した妄想なんですね。

 僕らには、常に「今、ここ」という時間のみが存在しています。

 だからこそ、意識の焦点を「今、ここ」に合わせて、生きていきましょう。

 今日は、「過去」「未来」ということから、絶対的な「時間」というものはあるのか?という事について書いてみました。

 マインドフルネスの実践において、「今、ここ」に焦点をあてる理由みたいなのが、よく理解できるかなと思って書いてみました。
 だからこそ、マインドフルネスでは、問題を解決していくのに、原因とか結果とかにはあまりこだわらず、「今、ここ」に焦点を当てていくのではないかなーと思ったわけです。

 しばらくちょっと抽象的なお話が続いていますが、少しでも参考になったなーと思ってくれる方がいたら幸いです。

 ではでは、今日はこの辺で。
 また、時間のある時に書きたいと思います。

 最後まで読んでいただいてありがとうございました! 

※ あくまで「過去」の記憶や「未来」の不安などが悪いといっているわけではありませし、その記憶は嘘だとか間違いだとか言っているわけではありません。
  そういったものは、無意識にぼくらの意識に浮かんできますし、繰り返しでてくるそれらを完全に抑え込むことは不可能でし、抑え込もうとすれば、逆にとらわれます。
  しかし、それらを無意識に「事実」だと思い込んしまって、とらわれていることに「気づく」のが大切なのではないかということを提案したいだけです。

 自分の記憶や思い出を呼び起こしたり、それをついつい考えてしまうことを、悪いことだと自分を責める方向に行ってしまわないように、念のため、追記させていただきました。
 

価値や願いを一度捨ててみよう! 上級編(回復後の話)

前回は、価値や願いを一度捨ててみようというテーマで、実践のやり始めに出やすい葛藤や苦しみを、価値や願いという観点から解説してみました。

今回は、ある程度、自分の症状が改善し、自分の中の衝動や本音と付き合いながら生活をしていけるようになっても、まだ「価値」や「願い」といったものが、自己を深めていくうえで障害になりうるということを書いていこうと思います。

SIMTで自己洞察を深めていって、自分の病気や症状の特徴がある程度掴めて、そういったものと付き合っていけるようになると、生きていくことが、そして生活していくことがだいぶ楽になってきます。
様々な症状やストレスがあって、それに対して、様々な感情や衝動が起こっても、その中である程度、自分の価値にあった、そして価値を実現する方向への行動というものが選択できるようになってくるんですね。
もちろん、毎回、価値実現の行動をできるわけではありませんが、そういった選択、行動をできることが増えていきます。
そんな中で症状も少しずつ落ち着いていきます。

しかしですね、そういった生活をして、自分なりにある程度満足のいく行動がとれるようになってきても、生活の中でやっぱり葛藤や違和感を感じる状況があるんですね。
というのは、自分としては、自分の価値に基づいて、自分なりにベストだとかベターだと思った行動をしたのに、自分の中に怒りや戸惑いといった感情が出現するような状況に気づくことが出てきたんです。
そんな自分を洞察すると、それは、それまでのように、自分の衝動的反応とか本音に基づいた評価の結果生まれた感情、つまり「こんな衝動的な反応をするなんて、俺ってダメだな」というものではなく、自分が洞察の結果、できるだけ本音や独善を交えない形で築き上げてきた価値に基づいた行動の結果としての感情、もし言語化するならば、「この状況で、洞察をして、一番良いだろうという判断をしたのに、なんでこんなに理不尽な対応をされなくてはならないんだ」といった感情であることがわかりました。

そういったできるだけ偏見や独善的な基準を排除した価値にもとづいた行動で、それまで体調も改善し、自己実現に結びつく結果につながってきたはずです。

最初は、なぜ、そういった感情が生じるのか自分でもよくわかりませんでした。
でも、確かにそういったことが時々あり、自分の中でそういった感情の置き所に困ることがありました。

ただ、その感情を抑え込もうとすると、それはさらなるストレスを生み出してしまうので、そこはSIMTのマインドフルネスな態度を貫いて、「今、自分はこういうつもりで行動して、結果としてこんな感情が、これくらい生じているんだなあ」と観察して、そこから「なんでだろう」ということを、ついつい考えたくなるのですが、深追いしないように、できるだけそのままにして、流して様子をみていました。

そうするうちに、あることに気がつきました。

僕が価値に基づいて行動した時に、その価値が、誰か他の人の価値とぶつかった場合、どうやらそのような感情が浮かびやすいことに気がついたのです。
価値に基づいた行動をするときの価値とは、SIMTの洞察をしながらの価値ですから、できるだけ1人よがりの価値ではなく、その状況やそのときの相手にとっても、良い結果を招くだろうと判断しての価値です。
だから、多くの場合、状況にあった、相手がいる状況でも、その場にいる人がある程度、みんな受け入れてくれるといっった場合が多いです。そして、それまでは、その結果、まわりの人にも喜んでもらえて、自分の喜びにつながっていくことが多かったのです。

しかし、まれに自分が良かれと思って選択した価値や行動が、受け入れてもらえなかったり、誰かの価値とぶつかってしまうことがあります。
特に、自分が色々な角度から洞察した上で、絶対にこの判断がいいはずだ!と思ったときであると、それが拒絶されたり、受け入れてもらえなかったりしたときに生じる憤りや怒りの感情も、とても強くなります。

そんなときに「こんな良い選択をしているのに、なんでそんな理不尽な対応をされなけならないのか」とか、「なんでこんな理不尽な状況にいなくちゃならないのか」といった憤りの感情が心に渦巻いてしまうわけです。

でも、読んでいる方はもうお気づきかもしれませんが、「こんな良い選択をしているのに」といったときに、その中に多かれ少なかれ自分の偏見が入ってしまっているわけです。
もちろん、それを完全に取り除くわけにはいきません。
でも、それで憤りを感じてしまうということは、その後ろに「私の判断したこの事は、絶対にただしい」という本音が働いているわけですね。

どんなに正しく見えることでも、本当にそれが正しいかどうかは、それを判断する人によって変わります。
例えば、食べ物に飢えている戦時下の子供に、食べ物を与えることは正しいように思えますよね。
でも、その子供がたまたま他で食べ物をもらってお腹いっぱいだったり、たまたま体調が悪くお腹の調子が悪くて食べ物が食べれないときかもしれません。
そんなときに、食べ物を渡されても実は迷惑だったりするかもしれませんよね。
しかし、そんな事情をしらないとしたら、食べ物がないだろうと思って差し出した食べ物を断られたら、
「なんでせっかくあげようとようとした食べ物を拒否するんだ!」と憤りの気持ちが生じませんか?

確かに、丁寧にその状況の説明をいってもらえれば、納得するかもしれませんが、そうでなければ憤りのが生じるはずです。場合によっては、その状況を聞いてもすっきりしないモヤモヤが残るかもしれません。

SIMTを続け洞察を続けていくと、自分の価値や願いも磨かれていきます。
しかし、自分が自由に動けるようになってくると、ついつい自分の価値や願いが素晴らしいものだ、さらには絶対的なものだと勘違いしてしまうことがあります。


そういった状況に応じて適切に動けるようになった自己は、西田哲学においては意志的自己を超えて、叡知的自己といいます。そのような自己は、行為的直観といい、様々な状況において、見た瞬間に独善的な判断を離れ、適切に判断をし行動ができるようになります。

しかし、自分自身の判断、評価を絶対としてしまうと、そこに間違いを起こしてしまう落とし穴があります。
自分の正しさを押し付けて、他の人の価値や判断が認められなくなってしまいます。
そうするとそこで、自己の成長は止まってしまいます。

やはり、ここでも、「自分の価値や願いを一度すててみる」という態度が必要になります。
例え、自分が正しいと思っても、そこで、一度、自分の正しさや価値を横において、状況を改めて落ち着いてよくみみることです。決してその憤りを起こさないようにするのではありません。
自分の価値を否定されれば、だれでも気分が良くはありません。
ただ、そこで、自分の価値を押し付けるのではなく、それを一度、横において、状況をただ良くみていきます。そして、待ちます。
そうすることで、今まで自分が気がつかなかった背景や、さらには、自分がそれは間違いだと思っていた判断も、状況によっては、必要な判断であったことに気がついて、さらに自分の幅を広げるきっかけになるかもしれません。

むしろ、自分の行動が自由になっていけばいくほど、憤りを感じるような場面にこそ、自分の成長をもたらすきっかけが隠れていることがわかってきます。

さて、今日は、自己洞察が進んできた先にも、「価値や願いを一度すててみる、横においてみる」という態度が大切なんじゃないかということを、例をあげながら書いてみました。

ちょっと西田哲学などわかりにくい言葉も出てきましたが、大切なのは、頭で理解することではありません。
SIMTでは、初心者も、経験者でも、基本的には行っていく実践の内容に変化はありません。
丁寧に丁寧に、実践の内容を深めていけば、理解は自然とあとからついてきます。

ぜひ、日々の実践を大切にお過ごしください。

ではでは、また時間のあるときに書いてみようとおもいます。
お時間のあるときに、ぜひご訪問ください。

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鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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