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SIMTにおける無評価とは

 今日は、SIMTにおける無評価とはということについて書いてみたいと思います。
 
 僕の過去の記事にも、SIMTで大切なのは、「無評価・徹底受容」だと書いていますが、この徹底受容というのが、ただの我慢とはちがうように、「無評価」といっても、まったく評価しないわけではありません。

 実際の生活の場面では、「評価、判断、決断」をしなければならない場面は、多々ありますし、SIMT自体が、「ただ見ること」
だけではなく、どう判断し、どう行動していくか、というところに重点をおいており、それ故に、僕自身、ほかのマインドフルネスの技法より、SIMTの方がより深いのではないか、実践的で役立つのではないかと思っているところもあります。

 SIMTにおける「評価、判断」では、「独善を排し」ということが大変大切になってくるのですが、では、「何が独善で、何が正しい判断か」というのが、問題になってきますよね。

そして、もうひとつは、逆説的ではありますが、そもそも「無評価でいる」ということが、可能だろうかという問題があります。

 そういったことについて、僕なりの考えを書いてみたいと思います。

 まず、この「何が独善、つまり排除したほうがよい判断や評価で、何が正しい判断か」という疑問を考え始めると、「一体どれが正しいんだろう」という思考にとらわれ、本質が見えてこなくなってしまうと思います。
 実は、この「何が正しいんだろう」という考え方自体が、すごくSIMTの上達においては、危険なことだと思うのです。

    そもそも「正しい評価・判断」とは何でしょう。
 僕も、「ある状況に、どの程度、適切な評価や判断であるか」ということは、ある程度決められると思います。
 しかし、「誰が見ても、絶対的に正しい判断や評価」というものの事を指すならば、それは頭の中だけで、理想として存在していると思いこんでいるものであり、実際の生活の場面においては、実は存在しないものだと思います。

 というのは、たとえていうなら、1メートルくらいの棒が転がっているとします。
 そして、その棒について、「この棒は長いのか短いのか」という議論をしているのと同じようにものだと思うからです。
 Aさんは「長い」という言うかもしれません。Bさんは、「短い」というかもしれません。これはどちらが正しいかなんてわからないですよね。
 Aさんが、もし、料理でつかう延べ棒がほしいと思っているなら、明らかに1mは長いですね。
 Bさんが、物干しざおに使おうと思っているなら、明らかに1mは短いですよね。
 そういう意味では、二人とも正解なと言えるわけです。

 これと同じように、日常生活における、決断や評価って、「何をしたいのか、どんな状況なのか」というのが決まって初めて、その決断や評価が適切かどうかというのが、決まるのだと思います。。
 空中に点が二つあって、比較するのに、XYZ軸が決定しないと判断することが不可能なのと同じです。

 では、「何をしたいのか、どんな状況なのか」というのが決まれば、かならず適切な答えはかならず決まるということでしょうか。
 これも、微妙なところだと思います。
 なぜなら、前述の例で言えば、「物干しざおに使う棒が欲しい」という状況に置いたとしても、適切な長さって決まっているでしょうか。ある程度は絞り込めるかもしれません。でも、干すものによっては、2m以上あったほうがいい場合もありますし、逆に1mで十分足りる局面もあるでしょう。
 それに、ただ単に、1mの棒があればそれでいいかというと、そうでもありません。ハンガーが動かないようにするくぼみがついていればなお助かるかもしれませんが、それを嫌がる人もいるかもしれません。
 一度目の時は、2mの棒でよかったかもしれませんが、2度目に「物干しざおに使う棒がほしい」という状況では、1度目とは干すものが違うかもしれません。同じ棒を用意しても、かならず適切かはわからないんですね。

 このように、確かに状況や場面がある程度決まれば、適切な判断や評価というものは、ある程度絞り込めるかもしれません。
 でも、果たして本当にそれが、適切かということは誰にもわかりませんし、さらに、状況は刻一刻と変わっていくものですので、適切な判断や評価というものも常に変化していくはずなわけです。

 さらに、決断、評価後も、未来にわたって状況は変わっていきます。そうすると、どの時点で判断するかで、自分がとった決断が正しかったかどうかなんていくらでも変わっていきます。
 
 例えば、お金のない少年がいたとします。かわいそうだと思い、お金持ちのあなたは1000万円寄付したとします。
 その少年は学校にいけるようになりました。そこで、なんとすばらしい決断だったのかと、あなたや周りの人は言うかもしれません。
 数年後、学校を卒業した彼は、勉学に大変励んだかと思いきや、お金を恵んでもらうことを覚えてしまい、仕事をせずに、あなたのところにお金をせがみにくるようになりました。
 あなたや周りの人は、やっぱり、お金は自分で稼がないとだめだね。あの決断は間違いだったというかもしれません。そして、あなたは彼のもとをさりました。
 
 数年後、苦労した彼は、一念発起し、会社を興し、成功を収めました。そこで、自分で稼いだお金を、地元の子供たちの学校のために、寄付をしました。テレビのインタビューで、彼は、「私も昔、心ある方から寄付をいただき学校に行くことができました。これはそのほんの恩返しです」と語っていました。
 それを見たあなたは、「ああ、やっぱり私のあげた1000万円は決して無駄じゃなかった、正しかった」と思うかもしれません。

 このように、人間万事塞翁が馬というやつで、たとえ現実に、ある状況が設定されたとしても、その決断が「正しいか、正しくないか」という視点では、決して判断できないのです。そんなのは、いくらでも変化していくんですね。「適切か、適切でないか」も同じかもしれません。

 特に、一度、ある判断や方法で成功してしまうと、「この方法が絶対的に正しい」と思い込み、それを続けていくうちに、社会情勢とかけ離れてしまい、会社は倒産なんて話は、よくあることです。

 これは、まったくSIMTでも、マインドフルネス的な態度でもありません。

 では、僕らにできることは何か、マインドフルネス的対応とは何かと言えば、状況や場面において、「ただ選択をしていく」ということだけだと思います。
 そして、その選択をした結果を、「ただ受け止める」ということしかできないと思うのです。正しいか、正しくないかなんていうことは、その場ではわからないんです。

 だからこそ、大切なのは、「よく観ていくこと」つまり「直観」なのです。
 すぐに、これは正しいのではないか、間違ているのではないかと「考える、評価する」のではなく、「こういう状況において、こういう選択をすると、こういう結果がおこるんだな」と、ただ、確認し、名前をつけておく事が大事なんだと思います。そして、そうしている間に、刻一刻と目の前の状況は変化していくので、「それで、こうなると、自分はこう感じて、こう反応して、それで、こうしてみたら、こうなった」と、現在進行形で、瞬間的、この確認作業を繰り返していくことが大切だと思うんですね。

 この確認自体は、単発ではあまり意味があることに感じないかもしれませんが、そういった作業を丁寧に繰り返していくと、自分の中に、無意識にでも「経験」が蓄積されていきます。そして、状況を丁寧に見る目も養われていきます。
 そうすると、「どうやら、こういった状況では、こうしたほうがよさそうだぞ」とより状況に適した選択肢ができるようになってくるかもしれません。すくなくとも、「こうであるはずだ!」と突っ走って、後戻りできないほうど失敗してしまったり、悩み続けて答えが出せないといった状況には、はまり込みにくくなります。

 これが、「何が正しい判断か」という考え方自体に、実は危険が潜んでいるという理由です。

 もう一つは、上記にも絡んできて、また多少、矛盾しているのですが、では、本当に「無評価」ということが可能かということについてです。

 上記の文章を読んでいて、疑問に思った方もいるかもしれません。
 「でも、そうやってやっていったって、そのようにして決めた選択だって、評価や決断の結果じゃないか」と。
 実際、その通りなんです。
 僕は、思うのですが、人間においては、どこまで行っても、行動する時には「評価や選択」が伴っていると思うんです。
 例えば、あなたの目の前に牛乳とコップがおかれています。
 この時、目の前にある物体を、「牛乳」と「コップ」という風に認識できるということは、目の網膜に映ったその映像を、「牛乳」「コップ」であるな、と「評価・認識」しているわけです。
 さらに、そのコップに牛乳を入れたとになぜ失敗せずに入られるかといえば、無意識かもしれませんが、「このように入れれば、こぼさずにコップに牛乳を入れられる」という判断を意識がして、コップに牛乳を入れられているからなわけです。

 こういった細部までの話をするなら、人間は評価・判断せずにいられない生き物ということになります。。
 そういった意味でも、人間には生きていくうえで、評価判断をすることは必要ですし、むしろ、どのように評価・判断していくかが重要になってくるわけですね。

 しかし、そこに気づいているからこそ、僕らは、「では、どのように判断し、どのように考え、どのように行動したらいいのか」と悩んでしまい、そして、「じゃあ、どうするのが正しいんだ」と前述の疑問に戻ってしまいます。

 でも、ぼくは、だからこそ、「無評価な態度」ということが大切なのだと思うんです。
 人間は、「評価・判断」せずには、いられません。
 しかし、「じゃあ、正しい判断や評価はどうなんだ」と考えだすと、前述のように終わりのない迷路にはまり込んでしまいます。
 僕らが、考えて、ただただ考えて答えをだそうとしても、そこに新たな視点や行動はうまれません。
 かならず、そこには、「独善」が入ります。自分の思考が判断した「評価」が加わってしまいます。
 というか、さっきコップの例で書いたように、常に「評価・判断」をしているので、「独善」は完全には排除できません。
 だから、僕らにできることは、それを「洞察」し、「気づき」を入れ、その「評価している」という事実をしり、それ以上、それに手を加えないようにすること、そういった「洞察」「観察」を徹底して続けていくことなんだと思います。評価をできるだけ加えずに、状況や、自分に中に起こってくること、そしてその結果としてする行動も含めて、徹底して「まっすぐに見つめること」が大切だと思うんです。

 そのようにしていても、状況に応じて、僕らの意識、無意識は勝手にその状況にできる「評価・判断」をしていってくれます。
 さっき、コップの例も「評価」や「判断」と書きましたが、この「評価」や「判断」が頭の中で行われているなんて、そう簡単にはわからないですよね。それに、牛乳やコップをそれと判断するのに、「独善」「勝手な判断」は入りにくいですよね(実はこれすらも決してはいりこまないわけではなく、勝手な判断でありうるのですが相対的には問題になりにくいです)。

 だから、人間は評価・判断してしまうものだけれども、だからこそ、自分のしている「評価や判断」に自覚的になり、それ以上、それを膨らませることはしないということが大切であり、マインドフルネスにおいても、「まっすぐに観る」という局面が強調されるのだと思うのです。そしてそのために、「無評価」的でいるように意識的にいることが必要になってくるのだと思います。

 それをただ、淡々と続けていった中にこそ、「より独善的でない判断」、そして、「何が独善で、何が独善でないのか」といったことも、うっすらと見えてくるのではないでしょうか。

 今日もすっかり長文になってしまいましたが、この「無評価」って言葉ではいうけど、すごく難しくて、すごく奥が深いものだと思います。やっていること、そのために必要なことは、すごくシンプルなんですけどね。
 だからこそ、徹底してやっていくのが難しいというか。
 これも、日々、練習です。実践ですね。

 ではでは、お付き合いありがとうございました。今日はこの辺で。

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鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
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