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ご質問に答えて -思考の観察について-

 今回は、コメント欄ですばらしい質問を頂いたので、せっかくなのでそれをテーマに僕なりの考えを書いていこうと思います。

 頂いた質問をコピペしてみると
「マインドフルネス瞑想を自分なりにやっていて、 わからないことがあり、ネットで調べていてこちらのブログを知りました。
私は頭の中に浮かんでくる思考を見つめようとすると、思考が止まります。思考の元になる衝動に気づいたら、それを文章化して、頭の中で思考として展開させる働きが、止まるようです。それはそれで頭や感情が静まって「思考のない状態」を体験できたり、夜は眠れるようになったりしていいことがあったのですが、 それ以上に進まないのです。それ以外の時は、自分の思考と距離をとったり、見つめることができず、ふりまわされ思考と一体になっています。頭の中で思考しながら、同時並行してそれを観察する、ということができません。
よく瞑想の本などに思考を観察することが大事と書かれているのですが、この思考というのは、「頭の中で自分自身が作っている言葉や文章、つぶやき」というものではなく、もっとざっくりした「概念」みたいなものなのでしょうか?
「思考を観察する」のは思考と同時並行ではなく、時間差があって、思考をした後に、ふりかえって「こんなことを考えていた」と思い出して、洞察するということなのでしょうか?そのふりかえったりできることを「距離がある」という表現になっているのか、最近本当にわからなくて、ゆきづまってしまいました。
こうしてこのコメントの文章を考えている時に、それを自動的に頭にまかせながら、どんな文章ができるだろう?と観察できる自分がいないのと同じような感じです。でもよく、思考は雲が流れるように流れていくので、そのままほっておいて見つめるというようなことが書かれていますよね。私にはそれがわからないのです。
観察しようとする自分と、頭の中で文章化して思考しようとする自分は一人なので…。それとも頭に浮かんでくる、文章化させようとする衝動のような概念を、思考とみなさんは呼んでいるのでしょうか?
とりとめがなくてすみませんが、何かアドバイスがいただけるとありがたいです。 」


簡単にまとめて見ると

 質問内容を簡単に書くと、
  「思考を観察しようとすると思考は停止してしまう。それはそれで、思考を止められるので良いこともあるが、いわゆる思考を観察するという事ができない。本やこのブログで書いてあるような、自分の思考と距離をとったり観察するということは、どういう事なのでしょうか?」
 
 といった内容だと思います。

 質問者さんは独学のようですが、非常に熱心にマインドフルネスを勉強され、取り組んでおられるように思います。それが文章より伝わってきます。これはあくまで僕の予想なのですが、実践はされており、ある程度、洞察の訓練が身について来ているようですが、取り組み始めてからは、今、数ヶ月くらいの期間ではないでしょうか。

 僕自身、質問者様の現在の状態、バックグラウンド、またマインドフルネスに取り組んでおられる期間や方法など、詳しくはわからないため、ご意向にそった返事ができるかわかりませんが、僕自身も同じような疑問をもち、壁に当たったことがあるので、僕なりの考えを書いていこうと思います。

 質問者さんのおっしゃる通り、「思考」自体を観察しようとすると、思考が止まるというのはまさにその通りで、よって、「思考」そのものを観察するというのは、ある意味不可能です。でも、それでOKですし、それでも、観察できるものがあるように思います。

 そのことを書く前に、まず、では、ここでいう「思考」は何なのかということを定義してみたいと思います。
 おそらく、「思考」と言ったときにも、実は、各々の中で、その意味することは微妙に違うと思うんですね。なので、僕が各文章の中でどういう意味で使っているのかを書いてみます。

 僕は、基本的に「思考」といった時に、それは「言語的なもの」と考えています。つまり、頭の中で独り言をつぶやくように、言葉で考えている時を「思考」と呼んでいます。この点については、質問の文章を見る限り、質問者さんと同じように感じます。
 そして、僕が、すべての経験はこの要素のまとまりだと思っているのは、感覚の集合体(視覚情報V、聴覚情報A、触覚・体感覚情報K、味覚・嗅覚情報OG)に言語の要素がくっついたものです。
 
 自分の「思考」を考えた時に、「言語的な独り言」のある一方で、そこに映像だったり、音だったり、体の感覚だったりが、平行して働いていると思います。僕は、この「言語的な独り言」の部分を「思考」と読んで、おそらく質問者さんが、「思考の元になる衝動」と呼んでいるのが、このV、A、K、OG、といった感覚の情報であるのではないかと思います。

 なぜなら、静的瞑想をしながら、自分の心に浮かんでくることを眺めていると、言語的な「思考」が働き出す前の段階では、ふわふわとした、細部まではっきりしないようなイメージだったり、一場面だったり、何らかの音を思い出していたり、体の感覚だったりが、移ろいながら動いていて、それがある程度すすんだところで、言語的な独り言、つまり僕がいうところの「思考」が始まっているように思います。その「思考」が進みながら、このV,A,K,OGからなる感覚情報は、思考と併走しながら、夢の中のようにコロコロと変わっていきます。そして、ある程度、進んだところで、「は、今、思考に流れていた!」と気がつく訳です。

 少しややこしいですが、この「は、今、思考に流れていた!」というのも、言語的という意味では「思考」な訳です。なので、この気づきの「思考」が働いた時には、同時にその前に続いていた言語的な「思考」を続けることができず、自動的に、それまで続けていた「思考」はとまるわけです。
 だから、厳密な意味で言うと、口が一つしかなくて、二つの言葉を同時にしゃべれないように、「思考」も同時に二つのことが平行することはできないので、「思考」に気がついた時には、自動的に思考がとまることになります。
 この点が、質問者さんの言う、「思考をみつめようとすると思考がとまる」ということなのだと思います。

 しかしながら、思考が生まれる前の、V、A、K、OG、などからなる感覚情報は、意識が「思考」に気がついて思考を止めたとして、しばらく残っています。Vといった視覚情報は消えやすいですが、Kなどの体感覚は、結構のこっていることが多いです。

 そこで、それが残っていたり、その感覚情報が強かったりすると、意識で「思考」に気がつき、言語的「思考」を1度、止めても、すぐにその感覚に引っ張られて、似たような「思考」が始まったりします。でも、そこで、意識、つまり注意作用の力で、その感覚情報が残っていても、呼吸に注意を向け、呼吸法を続けながら、ボディスキャンなど、「今、ここ」に注意を向けて、「今、ここ」のV,A,K,OGなどの感覚情報に注意を集中していくと、その残っていた感覚も、いつの間にかなくなっていきます。そうしている内に、次の思考に流れていくわけです。

 なので、「思考」に気づいたときに、「思考」そのものは、いったんは止まりますが、「思考の元になる衝動」と言っていた、V,A,K,OG感覚情報は、同時に観察することは、慣れるとできるようにはなってくるように思います。

 では、様々な本や、僕のブログでも言っている、「思考」を観察したり、気づきがあるというのはどういうことかというと、上記のように、自分の中に、思考の衝動(V,A,K,OG感覚情報)が働き、「思考」が始まって、それに意識が気づき、それを中断するといった一連のことを繰り返して行くと、あるときに、その思考の衝動や、「思考」に、共通点やパターンがあることに、「ハッ」と気がつくわけです。
 この、「ハッ」と気がつくことが大切です。
 これは、自分の「思考」を思いだして、それについて考えて、その結果、「こういうパターンがあるな」と考え出すといったたぐいのものではありません。もちろん、そういう事があっても良いと思うし、そういうことが実際にあることもありますが、それは、マインドフルネスで副産物として出てくる「気づき」とは別な物のように思います。

 マインドフルネスの観察や気づきは、ただ、「思考」を止めて、名前をつけて、「今、ここ」に戻っていくを繰り返して行く中で、あるとき、「フッ」と見えてくるものです。それは、まるで、ただの黒い点がひとつ、ひとつ、描かれているうちに、ある瞬間に、何の絵が描かれているのかが「フッ」とわかるような、そんな感覚のように思います。
 だから、それを、ある黒い点(1回の思考に気がついた時)があったときに、その点を一生懸命見つめて、「何が書いてあるんだろう」と考えてしまうと、それは、まさにその時のごとく、「考えている」ということであり、「思考」の網にどんどんとらわれていって、泥沼に嵌ってしまいます。
 実際、ぼくは、SIMTのセッション7くらいで、「自分の本音を見つける」といったような課題のところで、この「本音」というのがよくわからず、「僕にはいったい、どんな本音があるだ」とか、「今の思考の裏には、どんな本音が隠れているんだ」と考え出したら、ドツボに嵌ってしまいまして、危うく調子を崩しかけました。

 だから、基本的に、「思考」に気がついたら、その内容を一瞬確認、つまりこれがSIMTでいうところの「名前をつけて捨てる」とか「鑑にうつす」ということだと思うのですが、それを一瞬だけやったら、それ以上そこにはかかわらず、すぐに「今、ここ」の呼吸とか、今見ている物とかに意識を戻してあげることを繰り返して行けばいいのだと思います。 
 そうしているうちに気づきは、そのうちやってきますから。

 本当に、不思議なのですが、そうした静的洞察の訓練を重ねていくと、日常生活でも、ふっと感情が動いたり、思考が走ったりしたときに、「あ、今、思考が走った」とか、「感情が動いた」、「お腹のあたりに熱い感覚があった」とかいう、観察する「思考」が一瞬入ってくるようになってきます。これも、一瞬です。
 ですが、やはりそれがさらに繰り返されていくと、思考にどっぷりはまって生活していても、あるとき、いつものような観察する「思考」が入った時に、「あれ、そういえば、いつもこう考えてる」とかの一瞬の気づきが、訪れる時がくるように思います。
 文字で書くと、「あれ、そういえば、いつもこう考えてる」というのは、考えていることを観察しながら平行して「思考」しているように感じますが、これは一瞬で起こるもので、そう気づきの思考があった瞬間は、それまでの「思考」は1度ストップします。

 だから質問者さんの今やっていることはまったく間違いではなく、今の思考を止めるような洞察を繰り返して行くこと大切なんじゃないかなと思います。

 ここから先は、ちょっと余談で、これを書くとむしろ分かりづらくなってしまうかもしれないんですが、実は、洞察を続けていくと、日常生活を送りながらだったり、おそらく思考をしているような時でも、「観察者」としての自分があるように感じる場面が出てきます。
 ただ、これは、いわゆる「私はこれこれこう考えている」というような、言語的な「思考」としての観察者ではなく、先ほどもでていた「思考の元となる衝動」のように、感覚的なもののように思います。体とか、感覚が、観察モードになっているというか。

 例えば、今、ここで、今現在のあなた自身の呼吸の様子と、体全体の皮膚の感覚に意識を同時にむけてみてください。
 
 そうすると、思考もない、ただ「観察をしようとしている」ような意識の状態というか、全身の状態があるじゃないですか。
 それが、日常生活をしながら、そのモードになっているなと感じる時があります。
 そのモードがわかるようになってくると、雲のようにながれる思考や日常の生活、自身の行動を、いわゆる観察モードで過ごすことができるのかもしれません。
 僕自身、そのモードは常に再現できるほどまだブラッシュアップされておらず、これからも磨いて行かなくてはならないのですが。
 ただ、すくなくとも、そのモードは、自分の「思考」のレベルで、「今、自分はこうしている、こう考えている」と分析するようなものではないことは確かです。
 そして、このモードは、質問者さんが、今の基本的な洞察や瞑想を繰り返して行くことでのみ、自然にもたらされるものなので、まったく今、わからないとかできないことを気にする必要はないように思います。


 すっかり長文になってしまいました。
 僕なりの考えをつらつらと書いていましたが、質問者さんに対するうまい返答になっているかどうか。。。。。
 でも、今回の質問が、多くの人にとっても大きな学びになるのではないかと思います。もちろん、僕自身も、改めて考える機会を頂いき言語化したことで多くの学びがありました。ご質問頂きありがとうございます。

 今回の質問者の方でなくても、読んでみて、さらに疑問に思うことなどあれば、どなたでもまたコメントください。

 ではでは、読んでいただきありがとうございます。今日はこの辺で。
 誤字脱字、誤変換はご容赦ください。

「観察者としての自分」を例えるなら

前回も、「観察者としての自分」ということについて書きました。

 この観察者としての自分ができてくると、どうして楽になってくるのか、鬱の改善やストレスの緩和にどうしてつながってくるのかという点について、僕なりに解説してみたいと思います。

 日々生活をしていると、様々な事に出くわします。いろいろなことが起こってきます。
そこで、我々は出来事に一喜一憂し、右往左往、毎日しているわけです。

 でも、実は、その起こっていること、その事実自体にはなんの意味もないのです。
 それは、僕らの頭の中で解釈されて、始めて意味をもち、僕らの感情を動かすのです。

 僕らにとって、重要なのはその事実自体というよりも、その事実が自分の中でもっている意味、そして、その意味が生じる前後関係、つまり文脈、ストーリーが大切になるわけです。

 そして、そのストーリーは、それぞれの頭の中に、心の中に、独自に持っているものです。

 だからこそ、ひとつの汚いぬいぐるみが、ある人にとってはかけがえのないものになり、また、高額の札束が、ある人にとっては、まったく意味のないものになるのです。

 これについては、以前、信号のたとえで書いたことがあります。

 例えば、あなたが車にのって赤信号で待っているとき、ただ、赤信号でまっている状況であれば、別になんの感情もわかないでしょう。

  ただ、「信号が赤で、車を止めている」 という状況がそこにあります。ただ、ぼーっとしながら、信号待ちをしている状況です。

  ところが、もし、これが、朝寝坊して、仕事に間に合うかどうか、電車に間に合うかどうかの状況であったらどうでしょう。

  まったく同じ場所で、同じように信号に止まっていたとしても、その時のあなた自身の気持ちや思考は、まったく変わってくるはずです。きっと、イライラして、いつもより信号が変わるのに時間がかかっているように感じるかもしれません。頭の中では、「なんで寝坊したんだろう」など、後悔の言葉を繰り返しているかもしれません。

  しかし、ここで注目していただきたいのは、この信号自体は、何も変化していないことです。信号が赤であるということには、何の意味もないのです。

 確かに、朝寝坊をして、遅刻をしそうだというストーリーができあがっています。あなたはそのストーリーの中で生きていて、その中で、赤信号がこのタイミングであらわれたとき、そこに、あなたにとっての、赤信号の意味ができあがるわけです。

 もし、何かの魔法が使えて、一瞬であなたの記憶を抜き取ってしまったらどうでしょう。
 さっきまでの焦りは嘘のように消えて、ただ、信号をまっている状態にもどるでしょう。

 つまり、この信号に意味を与えていたのは、あなた自身の中にあるストーリーなのです。
 確かに、朝寝坊したという事実はあります。その事実は変えられません。でも、この「寝坊した」という事実も、信号待ちをしている時点では、すでに過去であり、その事実は、あなたの頭の中にしかありません。
 
 例えば、隣の車から、信号待ちをしているあなたをみても、「朝寝坊して焦っているあなた」も、「普通に信号待ちしているあなた」も、「あなた」という存在という観点からは何もかわらないわけです。
 
 ここで、信号待ちしている隣りの車から、あなたをみたらどうでしょう。
 ただ、赤信号で止まっている時のあなたは、「ただ、普通にしている」ように見えるでしょう。
 そして、朝寝坊した時のあなたは、「髪がぼさぼさで、しきりに時計を気にしていて、落ち着かない様子」なのが見てとれるかもしれません。それをみて、観察している人は、「あー、寝坊したんだね-、大変だ。でも慌てて事故を起こさないでね」と思うかもしれません。共感することはあっても、本人ほどはイライラしていないでしょう。

 これが、観察者の視点です。

 観察者としての自分が、自分の中にできてくると、イライラして慌てている自分と同時に、それを人ごとのように眺めている自分ができてきて、それが、9:1であったものが、8:1くらいになり、7:3くらいになり、とだんだん大きなウェイトを占めるようになってきます。
 もちろん、感情的に大きく揺さぶられるような事ほど、この観察は難しくなるため、10:0で、ストーリーにどっぷりつかってしまい、観察どころじゃなくなることもありますが、日常的なことであれば、だんだん、観察者の視点が平行してあるようになってきます。

 それを育てるために、毎日、静的瞑想をやっているようなところがあります。

 例え1割でも、観察者の自分ができてくれば、それまで、つらさ100%だっところが、90%になり、冷静な自分が10%保ているわけです。

 別の言い方でいうと、皆、それぞれのストーリーを生きている訳です。
 それを映画に例えるなら、皆が、それぞれ、自分を主人公にしている映画の中を、まさに生きている訳です。
 本当にその中を生きているわけだから、大変です。命がいくつあっても足りないくらいです。

  では、それを映画館でみているとしたら、どうでしょう。
 確かに、怖いシーンでは鳥肌もたつし、身体がこわばるかもしれません。
 でも、映画の中で本当に生きている人にくらべたら、冷静にその状況をみることができると思います。

 さらに、もし、これが家で、テレビを使ってそのストーリーをみているとしたらどうでしょう。
 怖い場面でも、悲しい場面でも、感情は多少動きますが、映画館ほど怖くはないですよね。
 テレビをみながら、「私ならこうするな」とか、「僕ならこういう選択をする」といったように、違った行動をとれるかもしれません。

 これは、小説の中の主人公と、それを読んでいる人(観察者)と言い換えられるかもしれません。

 だから、とらえ方次第で、好きに生きられるといっているわけではありません。
 ストーリー自体は、そう簡単に変えることができないかもしれません。でも、より、詳細にそのストーリーをみることができれば、以外と、その主人公が気がついていなかったことにも、あなた自身が気がつけるようになるかもしれないのです。
 そうした事が積み重なって、あなたの気づきを主人公にも教えてあげることが、できれば、主人公が変わっていき、ストーリーも変化していく可能性がでてくるわけです。

 ちょっと、抽象的な話しになってしまいましたが、マインドフルネスを続けているうちに、自分が良くなっていく、ストレスに強くなっていくことというのは、こういう説明ができるのではないかと思って書いてみました。

 特に不思議というか、僕がおもしろいなと思ったことは、観察が徐々にできるようになってくると、自分の症状や、気持ちのつらさはあまり変わりはないのに、周りの人から、「良くなってきたね」とか、「最近、あんまりつらそうじゃないね」とか、言われるんですよね。最初は、自分としては、つらさは変わらないし、症状も同じだし、何が良くなってるんだろうと不思議に感じていたのですが、自分が、自分の症状や自分自身に起こってくる事を、眺められるようになってきて、その第3者的な視点としての自分が、自分の立ち振る舞いにもでてくるので、それをさらに傍目からみると、あまり、一喜一憂し狼狽えているようにはみえなくなってくるのかなと思いました。
 映画の主人公は、本気で怖がりますが、それを見ている人を観察しても、多少の感情の表出はあっても、そこまで動いたり暴れたりしないですよね。
 ちょうどそんな感じかなと。

 最近は、いろいろと忙しくなってきており、すっかり更新頻度も遅くなっていますが、これからも何とか続けていきたいと思っていますので、お時間のあるときに、見に来てください。

 ではでは、また何か感じた事など、コメントいただければと思います。
 
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プロフィール

Ko7

Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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