「こうしたら、明日から新しい自分に!」 「一瞬で自分を変える方法」 といったような、キャッチーなコピーの本が書店には一杯ならんでいます。鬱や不安発作を抱える人ならもちろんですが、そうでない人でも、皆が新しい自分を夢見ているのかも知れません。
でも、自分ていうものはそう簡単に変わるものでしょうか。そもそも変わる必要があるのでしょうか。
マインドフルネスを続けていると、僕自身は、「自分は、簡単には変えられないもの、そして変える必要もないもの」という実感が強くなってきています。そのあたりのことを、最近の自分の片頭痛の経験も踏まえて書いてみたいと思います。
実は、1月中旬に偏頭痛の発作を起こしていたのですが、2月下旬に再度、偏頭痛の発作が出現してしまいました。
以前にも書いたかもしれませんが、僕の偏頭痛は中学生の頃より、1年に1~2回程度あるもので、その間隔はまちまちですが、、発作がでてしまうと、もうれつな吐き気と頭痛が襲い、半日は吐き続け、2~3日は何もできない状態となってしまいます。
1月の前は、昨年の6月か7月頃に久しぶりの発作が起こったのが最後でした。
以前より、疲れが溜まったり、ストレスが溜まったりすると出やすいことはわかっていたので、1月の発作は、昨年11月頃から仕事を少し増やして働いていた影響が出ていることが考えられました。また、発作時にも呼吸法をやりながら、できるだけ考えすぎない様にやり過ごし、実際、発作時の体調の戻りも早くなってきていたのですが、7月の発作と1月の発作では、発作の翌々日に再発を起こすという新たな展開があり、また体調が悪くなるんじゃないかと、少々焦っていました。しかし、もう起こってしまったことは休むしかないので、それぞれ計四日づつくらい自宅で休んでいることで、回復しました。
でも、まさかまた1か月で発作が出現するとは予想しておらず、今回の発作にも驚き、精神的にも動揺しました。なぜなら、前回、仕事を休職する前にも、偏頭痛が頻発し、体調がかなり悪化したからです。
順調に仕事も頑張っているつもりだったのに、週2日の仕事を3日に増やしただけで、こんな風に発作が起こってしまうのかと、気分的にも落ち込みました。
でも、その時は落ち込みもありましたが、マインドフルネスを学んでいる以上、ただで落ち込んでいるわけにはいきません。
呼吸法でしのぎつつ、押し寄せてくる「こんな自分じゃダメだ」という思考はできるだけ脇において、偏頭痛の経過を観察することとしました。
というのも、昨年7月と今年1月の発作で、中1日での再発という初めての体験をしていたのですが、1月の発作を乗り切ったところで、どうも、呼吸法でしのぐことをやりながら、自分の意識の中に「早く良くなろう」と無理をしているところがあったように感じたからです。
確かに呼吸法をやりながら意識を頭痛や吐き気、ネガティブな思考からそらし、回復に努めることで、体調の戻りは以前にくらべ早くなっているような気はしました。ただ、そこで「自分はこんなに良くなっているんだ」と思いたいあまりに、まだ十分に体調が回復していないうちに、「食べなければ動けるようにはならない」と、まだ胃のあたりに重さを感じつつ、焦って食事を再開し、活動を始めていた結果、発作が再発した気がしたのです。
そこで、今回は良いトライの機会と考え、今回は、そういう焦る気持ちも観察しつつ、自分の身体の感覚をよく観察しながら、身体の回復のスピードに意識を併せるように注意してみました。
具体的には、金曜日の夜に出た発作の影響で、土曜日の朝までは頭痛嘔吐で苦しみ、その日は食欲が改善しないのがわかったので、無理に食べるのを止め、発作翌々日の日曜日になったところで、胃の調子を確認したうえで、食べ始めました。そして、その日は偏頭痛と絶食の影響でフラフラしているので無理せず横になって休みつつ過ごしたところ、月曜日の仕事にはなんとか行くことができました。そして、その日も再発が起こることはありませんでした。
偏頭痛はつらいことでしたが、以前の自分の体験から得た気づきをもとに、今回は再発を免れることができました。もちろん、1回1回発作も違うし、今回、たまたまということも考えられますが、発作時にはだいたい回復に二日がかかること、自分の身体の声をよく聞いてあわせてあげることが大切なことを学びました。そして、何より、発作がでても、結果的に仕事を休まずに行けたことが自信にもなりました。
今回の発作が起こって、こんなことにも耐えられない自分に対して落ち込み、やはりこれ以上仕事を増やしたりすることは、自分には不可能なんじゃないかという考えが浮かぶこともありましたが、、あらためて発作を振り返ってみると、時を同じくして子供が胃腸炎で寝込んだり、妻も同じ症状を起こしていたりと、今回の偏頭痛には、仕事のストレスというものだけじゃなく、ウイルス性胃腸炎による体調不良というイレギュラーな影響があったようにも思います。
仕事が増えた影響もありますが、だからと言って、週三日働けないわけではなく、週2.5もしくは隔週で週3になるというペースの時は、問題ないように思えました。発作がでたからといって全く仕事が出来ないわけではなく、以前にくらべできる様になっている点もあるわけです。
僕自身、体調を崩し、鬱と言われるまでにも、一番前面に出てきたのは、様々な身体症状でした。ストレス耐性は、再発を繰り返したことで、すっかりなくなったようで、ちょっとした肉体的、精神的変化に対して、いろんな症状を感じる身体になってしまいました。
最初は、そのような自分を「こんなはずじゃない、以前はもっと働けたし、無理もできた!」と、元の自分に戻ること、一刻も早く、今のどうしようもない自分から抜け出すことを考えて毎日を過ごしていました。
その結果、焦って仕事を増やしては、体調が崩れて仕事を休んだり、やめたりしなければならなくなっていました。
そんな中、マインドフルネスを学び、こうした偏頭痛の発作や身体症状を繰り返していくなかで、気づいたことは、そう簡単に身体はかわらないということです。
そして、「自分と言うものは、基本的に変えることができないのではないか」ということです。
マインドフルネスを、SIMTを、やり始める時に、多くの人は、「早く良くなりたい!」つまりは、「今の自分を変えたい!」と感じるからこそ、始めていると思うのですが、僕の場合、やり続ければやり続ける程、感じることは、「自分はそう簡単に変わらない、変えられない」ということを実感として学んできています。
でも、「だからやる意味がない」のではなくて、「だからこそ、自分自身を良く知ることで、できることもある」ということなのです。
どういう事かというと、今の僕の体調や体力は、まだまだ自分が希望しているほどの体力には達していないと思います。疲れ易さも強く、自分の好きな事、楽しい事でもすぐに疲れてしまい、まだまだ持続してやることができません。でも、どんなにそれが嫌だとしても、明日からそれがガラッと変化させることはできません。というか、いままで明日といわなくても、短期間で改善することを期待して今まであれこれやってみましたが、それはムリなんだと言う事がいやでもわかってきました。
それよりも、今の自分の特徴を、本当によく理解して、その特徴に合わせた生活や生き方ができれば、それが大切なのだと思えるようになりましたし、そうすることができれば、自分が従来考えていた生き方とは違うかも知れませんが、もしかしてそれ以上に輝ける可能性もあるんじゃないかと思っています。
いつものように、それを例えばなしにしてみると、僕の体調や体質といったものは、自然そのものであり、例えば自然界の天気や季節みたいなものと同じだと思うんです。僕が僕として生まれたこと、僕という人間の体質を持っていることは、僕にはコントロールできなかったことです。
そこで、どんなに今日は晴れてほしいと思っても、その日の雨が降ったらそれはしょうがないですよね。雨を降らしている空に向かって、どんなに晴れになるようにお願いしても、天気はかわりません。
天気を変えるために、雨乞いをしたり、BBQをやる予定だったんだと、無理してやって疲弊するくらいなら、雨の日は、雨を受け入れて、雨の日にできる過ごし方をする方が、ずっと有効に時間や体力を使えると思うんです。
今までの僕の生き方は、自分の「こうありたい」に無理に近づけるために、その日の天気を無視して、BBQをやろうとしたり、天気を変えるために、空に向かって叫んだり、つばを吐いたりしていたのと同じだったのではないかと感じるようになりました。
じゃあ、雨の日だから、BBQはできないと落ち込むのではなくて、雨の日にもできることはあると思うんです。
BBQをキャンセルして、本を読むでもよし、BBQをするための新たな料理を考えてみるでもいいかもしれません。
もし、どうしても出かけなくちゃならないなら、カッパを着たり、傘を差したりする方法もあります。BBQをやりたいからといって、腫れているときと同じようなつもりで出かけたら、それこそぐちゃぐちゃになり疲弊するばかりでなんにも楽しくありません。
そして、雨の日といっても、いろいろあると思うんです。その雨は小降りなのか、土砂降りなのかでできることも変わります。そして、雲行きと天気の動きをよーく観察することで、今後の天気の予測がつきやすくなるかもしれません。
自分の体調の波や、体力自体を自分ですぐコントロールすることは不可能です。でも、自分自身の特徴やその日の状況を、「今、ここ」の意識で、しっかり観察していくと、あとどれくらいで体調が回復しそうだとか、これくらいなら薬の助けを一時的に借りれば乗り越えられるとか、呼吸法だけでいけそうだとか、いろんな事がわかってくるようになります。そうすると、その体調自体をコントロールできなくても、その体調に合わせた暮らし方、生活の仕方ができるようになってくると思うんです。
そうしている内に、季節もかわり、天気や気候が変わってくるかもしれません。
冬の寒い日に、家の中で作っておいた様々な道具が、春になり畑仕事をできる時期になれば活躍するかも知れません。
雨の日に、ゆっくり休んでおいた体力を発揮できる晴れの日もきっとくるはずです。
これが、僕が、「自分はかわらないけど、その自分自身をよく知ることで、できることがたくさんある」ということです。
もう一つたとえ話を書いてみたいと思います。
それは、自分を道具に例えてみても良いと思うのです。
僕の今までの生き方は、自分は実はカンナという木を削る道具であるのに、必死で釘を打とうとして、「なんで僕はトンカチみたいに上手に釘が打てないのか」と一生懸命、釘を打てるようになろうとしていたように感じたのです。
多少、固いところで釘を打つことはできますが、トンカチのようにはうまくはうてません。無理して打ち続ければ、自分がどんどん傷ついてしまいます。
でも、自分をよく観察して、「僕は釘は打つほどには固くないけど、よく見ると、木を削るための刃がついている」と言うことに気がつければ、今度は木を削る練習をできるようになるのです。そして、木を薄く削る技術を高めていけば、家を建てたり家具を作るときにはかけがえのない道具になります。それは、トンカチにもできないカンナ自身の才能です。
確かに、従来自分が考えていた「釘を打つ」という目的は達成できないかもしれません。でも、その先にある「自分を輝かせる」ということは、できるはずです。
生まれながらにして、いったい自分は何の道具なのか、それは誰にもわかりません。
おそらく、人それぞれが、誰も見たことのない道具なのです。
だからこそ、他人のまねをして使って、落ち込んでも意味がなく、自分自身をよく観察することで、自分という物が、どんな場面でどういう風に使ったら、その力を発揮できるのかということがわかってくるのだと思います。
ついつい僕らは、一つの事ができなかったり、ダメだったりすると、「自分には意味がない」とか「才能がない」など、良い悪い、とか善・悪などの評価をしてしまいがちです。でも、それは、たんに「その状況では、その使い方が適していなかった」という一つの経験値を手に入れたということにすぎません。そういう体験を、すぐに評価せずに、経験値として自分の中に集めていくことこそ、SIMTでやっている「評価判断をしない」「そのままにする」あるいは「徹底受容」ということなのではないかと思います。
家を建てるためには、いろんな材料、いろんな道具が必要です。どれ一つかけても、快適な家はできません。
きっと、自分が活躍できる場面、方法、手段があるはずです。
これが、僕が、「自分を変える必要はない」と実感している理由です。変える必要はなく、自分を活躍させるための、状況や手段をよく知り、そのタイミングを待ってあげる、できることを生かしていくことこそが、大切だと思うのです。
今日は、自分の体験を通して感じた、「自分自身を変えることはできない、変える必要もない。生かしていけばいいんだ」ということを書いてみました。
普段、偉そうなことを書いていますが、僕の体調なんて、まだこんなものです。2年かかってやっとこんな感じです。自分の経験上、鬱を悪化させてしまっていた期間は、回復にかかってもしょうがないかなと思っているので、7年くらいは覚悟しているつもりです。
でも、自分のこういった繊細な体調があってこそ、僕がここで書かせてもらっているようないろいろな気づきがあり、そして、微力かもしれませんが、助けになるといっていただけるようになっているんじゃないかなと思うわけです。
今日も、長文におつきあいありがとうございました。
またよかったら、お立ち寄りください。