訪問ありがとうございます

はじめての方はこちらの記事をご覧ください → はじめに (2014/9/21)
記事一覧や目次をご覧になりたい方はこちらをどうぞ → 記事一覧・目次

観察者としての自分

 僕自身、SIMTを続けてマインドフルネスに親しんでいくうちに、自分の中に「観察者としての自分」というのができてきて、それが常に存在してきているような意識が生まれてきています。
 この「観察者としての自分」というのは、鬱や不安障害が改善していく上での、ひとつのキーとなる概念かなと僕自身感じたので、今回はそのことについて書いてみたいと思います。

 SIMTでは、基礎的な練習として呼吸に意識を向けます。あっちこっちに散らばっている自分の注意を、意思の力を使って呼吸に集める練習をします。しばらくすると、また注意が(意識が)どっかに行ってしまうので、また気がついて呼吸に意識を向けます。それを手始めとして、今度はその注意を視ているものに向けてみたり、身体の感覚に向けてみたりして、意識を自分の意思で動かす練習をするわけです。僕が習慣的に行っている瞑想時のボディスキャンというのもそれと同じことです。

 そうやって、自分の意識を「今、ここ」に生じていることに向ける練習をしていくと、自分の中で生じてくる様々な思考、感覚、感情の動きなどを、観察ができるようになってきます。
 「お腹のあたりが重たいな」とただ感じている自分だけではなくて、そう感じている自分を意識している自分がいることになります。
 その自分は自分を観察している「観察者としての自分」なわけです。
 最初は、それが瞬間的におこるのみで、重さを感じた自分を意識した自分(観察者としての自分)は、一瞬で消えてしまうのですが、繰り返し日常生活の中に、その観察・洞察が起こる瞬間を増やしていくと、自分の中で感情が動いたり、急な身体感覚が生じた瞬間に、無意識的にそれが起きたことを洞察し、名前付けをしたりしている自分が働くようになってきます。
 それは、まるで、自分の中にもう一人、小さな自分がいる感じです。
 例えば、僕の例で言うと、運動目的に買ったにもかかわらずあんまり乗っていない自転車があったのですが、妻に「あんまり自転車乗らないね」と言われた時に、勝手に非難されたとらえ、「そんなことないよ」と無意識に怒りながら返答をした瞬間に、「あ、今、お腹の中が熱くなった、これは怒ったときの感覚だ」と、軽く怒ってムカッとした感情の横で、それを観察している自分も瞬間的に反応していたんですね。その観察者の自分が反応するまで、自分でも怒っているということに気がついていなかったので、ちょっとびっくりしていた自分がいました。そして、「あ、これは僕自身が、自転車に乗ってないことに罪悪感を感じているんだな」と気がついたのです。
  もちろん、それに気がついたからといって、その時のイライラっとした気持ちがすぐになくなるわけではないのですが、自分の意識の中に怒りの感情や意識が8割あるとしたら、残り2割ぐらい、すごく冷静にそれを観察している意識がある感じです。
 この2割の部分を「自分を観察している小さな自分」と呼んだわけですね。

 そして、洞察を実践して、こういったことを繰り返していくと、自分の中に観察者としての自分が根付いてくるような、割合として観察者としての自分が少しずつ大きくなってくるような感じがあります。
 まだ、その時々によってその割合は様々で、感情がすごく大きく動いてそれに飲み込まれそうになているときは、すごくちっちゃな自分、少しの変化だったら、その感情を感じている自分は半分くらいで、もう半分は比較的冷静に観察している自分である、といった感じです。

  これが、なぜ、鬱や不安障害の改善に大切なことなのかというと、この経験を繰り返していくと、それまで、「これが自分自身の本体だ」と思っているものって、揺れ動く感情や、痛みや苦しさを感じている自分のように思っていたのですが、最近はどちらかというと、この「観察者の自分」というのが、本来の自分本体に近いのかなという気がしてきています。
 
 というのも、揺れ動く感情や痛み、苦しさというのは、時間とともにどんどん変化していきます。強くなったり、弱くなったり、消えてしまったり、またあらわれたり。でも、それを観察している自分というのは、割合の程度こそあれ、意識さえしてあげれば、常に存在している感じなんですね。なので、より身近に感じられ、より自分自身だなという感じがしてくるわけです。
 そうすると、言ってみれば、来ては去っていく感情や感覚と一緒の自分は、いわゆるかりそめの自分という感覚が生じてきます。
 そうなってくると、一時的に表れる不安とか、痛みとか、そういったものが、前ほど気にならなくなってくるんです。
 もちろん、不安や痛みやつらさを感じている時の気持ちはいいものじゃありません。強ければ飲み込まれそうになることもあります。でも、「いずれは去っていくものだ」という知っている「観察者の自分」がいることで、そういった不安やつらさを冷静に受け止められるようになってきます。
 そうやって不安やつらさを受け流せるようになってくると、日常生活として、そこまで困らなくなってくるんですね。自分の中に、不安やつらさはあっても、それにより自分が大きな影響を受けなくなってきます。そのころには、周りの人の方が、「ずいぶん良くなったね」なんて言ってくるようになります。自分としては、不安や症状はかわりなくあるので、良くなったという感覚はそれほどなかったりするので、不思議ですが。

 こういった理由で、自分の中に「観察者の自分」というのが出来てくるのは、病状の回復に結構大切なんじゃないかと思うわけです。
 でも、あくまでこの「観察者の自分」というのは、作ろうとしてできるものではなく、SIMTの洞察の実践、課題をやっていった結果、いつの間にか出来上がっていったという感じです。

 この感覚を何にたとえたらと思ったのですが、この感情や感覚の変化を「観察している自分」というのは、馬に乗っている自分という風に考えてもいいかもしれません。

 最初は、馬それ自体を自分自身だと思っていました。馬がいななき、怒り、暴れる時は、自分自身も馬になりきって怒りまくっています。ですが、洞察を初めていくと、どうやら、自分は馬にしがみついている騎手であることがわかってきます。でも、まだしがみついているのに精一杯です。でも、それでも馬を観察していくと、だんだん馬の特徴がわかってきます。どんな時に起こるのか、落ち着くのか、草が食べたいのか、それとも走りたいのか。さらに観察を続けて馬の特徴を理解すると、手綱をつけて馬をある程度コントロールすることが可能になっています。もちろん、馬自体には乗っているので、馬の意思を無視して走り続けたり、餌を食べさせずにいることはできません。でも、馬の特徴をよく知り、どんなタイミングで餌をやればいいのか、休みが必要なのか、わかるようになってきます。そうすると、馬を乗りこなすことができるようになり、馬にのってより遠くまで出かけることが可能になります。

 SIMTを続けて、「観察者としての自分」ができ、自分自身の感情や不安、症状と折り合いをつけていく過程はこんな感じです。

 これは、私自身がこれまでの学びの中で感じた経験であり、今の私の学びのレベルです。
 
 でも、どうやら大田先生の本を読んだり話を聞いたりすると、どうやらマインドフルネスには、さらに奥深い世界が広がっているようです。そのレベルでは、その「観察者の自分自身」もいなくなってしまうようなのですが、一体それが、どういうことのなのか、今の僕にはわかりません。
 でも、きっと、実践を続けていれば、そこにたどり着けるんじゃないかと信じています。
 むしろ、まだまだ自分のしらない世界が広がっていると思うと、わくわくしますねー。
 いや、マインドフルネスってまだまだずーっと奥深いんだろうなあ。

 さて、今日の内容も、まったくもって個人的な経験からの話でしたが、少しでも読んでいただいた皆さんに参考になる部分があれば幸いです。

 最近、更新の間隔が開いてしまっていますが、懲りずに続けていきたいと思うので、ぜひまたお立ち寄りください。

質問に答えて

今日は、コメントにいただいた質問に関して書いてみようと思います。
 質問を投げかけていただくと、それをきっかけに自分の中の体験を言語化する試みの中で、自然と考えが整理されて、僕自身にとっても大変良い学びになっています。質問をしてくださった方に感謝です。

 質問の内容としては、大まかに
 ① このブログは、マインドフルメイトで習った事を中心に書いているのか、僕自身で本などで勉強したことを書いているのか。
 ② マインドフルメイトに通ったときに、「包んで映すはセッションでは扱わない」「呼吸法が中心」と言われて戸惑ってしまったが、僕自身が通っていた時もそのようであったか。
 ③ 現在は別のカウンセラーに教えてもらっているが、身に付かなかったのは自分の能力が問題ではなかったかと悔んでしまう。

 といったものでした。匿名の質問でしたので、こういった形で大まかに記載させていただきましたが、マインドフルメイトに通っているかどうかにかかわらず、SIMTを学ぶ過程において、僕を含めた多くの方が疑問に抱きやすいことだと感じたので、今回、記事に取り上げる形で、ご返答させていただこと思いました。

 もちろん、マインドフルメイトの佐藤先生の真意は、僕にわかるすべはありませんが、僕自身がマインドフルメイトで学び、自分でSIMTを通してマインドフルネスを実践している中で、いくつかこういう意味があったのではないかと感じることがありましたので、あくまで私自身の個人的な意見ではありますが、書かせていただこうかと思います。

 まず質問①このブログは、マインドフルメイトで習った事を中心に書いているのか、僕自身で本などで勉強したことを書いているのか。
 ということについてですが、このブログは、自分が大田先生が作られたSIMTをマインドフルメイトで習った事を土台として、自分で勉強したこと、そして何より、その練習、実践を自分で続ける中で体験として学んだことを自分なりの解釈で書いております。
 なので、もちろん、佐藤先生に習った事が土台にあり、大田先生が書かれた本も読んで学んではいますが、マインドフルネスというもの自体が、知識として理解するものではなく、あくまで体験として学び身につけるものであるので、多くは私自身の経験、体験からくるものであると思っていただいていいと思います。たとえで言うと、マインドフルネスを習得するというのは、「泳ぎを覚える」「言語を習得する」ということに近いように思います。
 泳ぎは、いくら本を読んでも覚えられませんよね。本で読んだ知識も無駄ではありませんが、何より、水の中に入って、自分で手足を動かして練習して身につけるしかないと思います。そこで僕なりに泳げるようになってくる中で体験したことを、自分なりの泳ぎ方のコツとして、このブログに書いていっているといっていいかなと思います。ただそこに、過去に学んだ心理学的なこと、医学的なこと、哲学的な知識などが経験の理解の助けになっているとは思います。

 ではでは、質問②
 「マインドフルメイトに通ったときに、「包んで映すはセッションでは扱わない」「呼吸法が中心」と言われて戸惑ってしまったが、僕自身が通っていた時もそのようであったか。 」
  ということについてですが、僕が通った時も、佐藤先生はこのようなことはおっしゃっていたと思います。僕自身も、この言葉で多少戸惑った部分もありましたが、セッション終了後も、自分なりにSIMTの課題を続けていくうちに、こういう理由でおっしゃっていたのかなあと感じた部分がありましたので書いてみたいと思います。

 「包んで映す」は何を意味しているかというと、外からの刺激や自分に生じた感情や感覚を、それを変化させようとかそれについてあれこれ考えたりせず、とにかくそれを「そのまま」にして、眺めるようにしておくということだと思います。つまり、これは、マインドネスの2大原則である、「判断評価の中止」「徹底受容」ということを、また違った表現で表しているものなのだと思います。
 佐藤先生は、よく「そのままにする」という表現でこれを表そうとしていたように思います。
 大田先生の本では、「鏡に映す」とか、「器に浮かべる」とか、いくつかの表現で書いていたように思います。
 結局、「判断や評価をやめて、おこってきたことをそのまま見つめる」ということのやり方は、目に見える内容ではないので、それを歌えるためには、人それぞれ表現が異なってくるんだと思うんですね。それぞれが、できるだけわかりやすいように伝えようといろいろな表現を試みているということなのではないかと思います。
 例えば、泳ぎを学ぼうとしているのに、「水をかいて進むってどういう感じ?」と聞かれたら、ある人は、「手で水をつかんでそれを後ろにおす感じ」というかもしれないし、ある人は「手をお椀みたいに広げて動かせば、進むよ」というかもしれません。
 ここで、では、なんで、それを扱わない、細かくは教えないということを言っていたのか。
 おそらくなのですが、いくらそこにこだわっても、結果があまり変わらない、もしくはそれを無理に教えようとすることが害になる可能性があるからなのではないかなと思いました。
  まだ、習い始めのうちに、「包んで映す」というのはどういうことかと考えすぎてしまうと、そこから前にすすめなくなってしまいます。
 泳ぎを例えにいうなら、「水をつかむってどういうことなんだろう」といくら本を読んでも、考えても、その感覚を理解することはできないですよね。それより、水の中に入って手を動かし、まずは少し泳げるようになってしまえば、「あー、あの感覚ね」と頭で理解していなくても、すぐにわかってしまうのではないでしょうか。
 マインドフルネスやSIMTもそれに近いものがあるんじゃないかと思います。正直、僕も、セッションをやっているうちは、「包んで映す」とか「器の心」と本に書いてあっても、それがどういうことを言っているのかよくわかりませんでした。でも、セッションを終わっても、自分なりに静的瞑想や洞察の実践をしていくうちに、このブログの中でも書いたのですが、「徹底受容」とか「そのままにする」ということが、できるようになってくると、「包んで映す」という感覚がどういうものか、わかるようになってきています。だから、「包んで映す」ということを完全にできるように、そこにこだわっていくよりも、ほかの課題を続けていけば、それも自然と理解できるようになってくるということをおっしゃっていたのかなと思っています。
 そして、「呼吸法中心」ということについてですが、これは、今書いたことともかかわってくるのですが、僕自身もそうだったのですが、大田先生の本を読んだり、マインドフルネスの知識を仕入れたりすると、ついつい、本音の観察とか、深い自己とかについて、取り組んでいきたくなります。こっちとしては、一刻も早く、悪い状態から抜け出したいわけです。だからなんとか早くそういったことを学んで良くしたいと思うわけです。ですが、僕自身の体験でいうと、そういう試みはほとんどの場合失敗に終わるように思います。呼吸法や、静的瞑想(これも結局呼吸や自分の感覚を観察するトレーニングなわkですが)といったトレーニングで自分に生じたことを「そのままにする」練習ができてないうちに、本音や深い自己を見つめる段階に入ろうとしても、逆に「考えてしまう」という状態になってしまい、それにより調子を崩してしまうことがほとんどです。僕自身も、セッション6.7の「本音を探す」といったところで、「本音ってどういうことだろう、僕の本音はなんなんだろう」と本音について考えて探しにいってしまい、その結果、気持が落ち込んで調子を崩しかけてしまいまいました。
 そこで、無理に「本音」については考えず、わからないものとして、とにかく呼吸法と日々の瞑想、日中の洞察を続けていくと、ある時、「あ、こういうことが僕の本音なのかな」と気がつく日がありました。
 こういったように、「マインドフルネス」では、知識があとから付いてくるといいうことが本当に多くあります。わからないものは、わからないとして、今、自分にできる課題をやっていくと、ある時、ふっと、わからなかったことが理解できる瞬間が訪れるのですね。
 なので、まずは、基本的な「呼吸法」そして、日々の呼吸をつかった洞察の練習を身につけることが大切と強調されていたのではないかなと思います。
 とくに、セッションを受けにこようとされる人たちは、調子が悪く、つらい状態の方が多いわけです。その人たちになんとかセッションを続けて回復してもらうには、10回のセッションですべてを完璧に身につけるのはおそらく不可能ですし、それを目指すと余計体調が悪化してしまうのではないかと思うんです。だから、まず、その体調が悪い時を乗り切る手段を身につけるのが第一で、それを手がかりに各自が洞察を深めていけるようにと考えたときに、ある程度、セッションでやる内容を絞って、呼吸法を中心にすえているのかなと、おそらく、多くの方々を教えている中で先生なりに工夫されていったことなのではないかと感じるようになりました。
 僕自身、セッションを受けていた当時は、そこまで考えていませんでしたし、考える余裕もありませんでした。ただ必死に課題と取り組んでいただけです。
 これも、泳ぎでたとえると、鬱でつらい状態でセッションを受けに来るときって、水の中で溺れてしまっている時だと思うんです。そこで、泳ぐ方法を身につけようと、いきなり、クロールやバタフライの練習をしたり、その泳法のことを勉強したりしても、その過程で本当におぼれて沈んでしまいますよね。まずは、「水に力を抜いて浮かんでいること」「その状態で、楽に息をすること」が大切になると思うんです。逆にいえば、そのセルフレスキューの仕方さえ、身についてしまえば、溺れることがなくなってきます。そうすれば、海でも川でも、その人の泳いでいる環境の中で、セルフレスキューを駆使しながらその場にあった泳ぎ方をその人自身で身につけていけばいいのではないかと思います。そうすれば、プールで「バタフライは交泳がねばならない」「クロールはこうだ」と教えてもらうより、立ち泳ぎであろうが、犬かきであろうが、その人が普段生活している環境での、最適な泳ぎ方をその人自身で見つけられるようになるのではないかと思います。
 だから、まずセッションを習う方は、呼吸法や呼吸や感覚へ意識を向けることをトレーニングし、注意作用を自由に使えるように訓練することに集中するといいと思います。呼吸法に親しんで、呼吸に意識が向けられることができるようになると、自分の中の自動思考にブレーキをかけられるようになってきて、悪循環から抜け出せるように、すくなくとも悪化の期間を短縮できるようになってきます。そうすると、日々の生活に多少余裕ができるように、様々な感情や現象を冷静に観察できるようになってきます。この悪い時を乗り切れるようにするということがとても大切に思います。そして、セッションが後半になっても、よくわからないときは、その基本的な呼吸法と呼吸や生活の観察を繰り返していけば、知識はあとから付いてきます。

 ここまでが、あくまで僕の体験による推測ですが、考えを書いてみました。

 では、最後の③ですが、質問くださった方が自分の能力のせいでわからなかったのではないかと心配されるのも当然かと思います。
 僕自身も、SIMTを受講する以前から、こういったことで悩みました。「ほかの人に効果があっても、自分にはなかったらどうしよう、できなかったらどうしよう」、始めてからも、「こんなことがわからないのは自分だけじゃないか」と悩みました。
 今の僕自身の感じる結論から言うと、確かに身につけるということに関しては、多少、早い遅いはあるように思います。それは、例えば、水泳を習っても早く覚える人と遅い人がいるように。もっと良いたとえで言うと、「日本語を身につける」ということで言ってもいいかもしれません。言葉を覚えるのも、多少、おそい早いがありますよね。生まれてから1歳にいならないうちに話始める子供、2歳近くになってやっと話せるようになるこもいるかもしれません。でも、大人になるころには、言葉を発する器官がないだとか特殊な事情がない限りは、みんな日本語を話せるようになっています。子供のころに覚えるのが早かったか遅かったかはあまり問題にはなりません。むしろ、身に付いた言語をその後どのように使っているのかがすごく大切なことになると思います。詩をつくる才能のある人、人を傷つける言葉を発している人、いろいろいますよね。
 マインドフルネスに関しては、以前も書きましたが、今現在、息をしていて、この文章を読めている人であれば、誰でも身につけることができると思います。そして、それを早く身につけるかゆっくりと身につけるかはあまり重要ではなく、それをいかにして続けていくか、生活の中で生かしていくかが大切かと思います。誰に教えてもらうとわかりやすいか、それはもう相性の問題でしかありません。様々な小説家がいる中で、どの人の話が自分は読みやすいかと感じることと同じです。大切なのは、読むことです。ある小説家の本がよくわからなかったから、小説すべてが理解できないわけではありません。
 そういう意味では、質問してくださった方は、今も別のカウンセラーさんにSIMTを学んでいらっしゃるそうで、そのあきらめないで続けてらっしゃること、それこそが大切なんだと思います。だから、ぜひ、ご自身のことを責めたりはせず、ご自身がやりやすいやり方でSIMTを続けてみてください。 質問してくださった方の体調が良くなることを心より願っております。

 さて、今回もすっかり長文になってしまいました。結構、勢いで書いているので、読みにくい部分、不適切な表現がありましたら、ぜひご容赦ください。
 私自身、まだカウンセラー講座もとっていないものですので、大田先生や佐藤先生が伝えようとされていることを正確に理解できていたいかもしれません。また意図したことと違うかもしれません。参考程度に読んでいただけたらと思います。

 質問をいただくと、とても僕自身の学びも深まるように思います。この機会をいただけたことに感謝です。
 ではでは、また次回。


続きを読む

これまでの訪問者数
ブログランキング
ブログランキングに参加しております。応援していただける方は下記バナーをクリックお願い致します!
プロフィール

Ko7

Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

カテゴリ
カレンダー
01 | 2016/02 | 03
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 - - - - -
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
ブログ内の記事から探す
入力した語句が含まれる記事を探せます
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR