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片頭痛の発作に対して

 先週、2年ぶりの片頭痛の発作が出てしまいました。

 この片頭痛は、父親譲りのもので、中学生の時に発症して以来、年に数回くらいのペースで苦しめられてきたのもです。

 片頭痛というと軽く聞こえてしまうかもしれませんが、私の場合、結構、発作はひどいもので、まず、閃輝暗点とよばれる症状が出て視野の一部が見えなくなってしまい、それが治る頃に、頭痛とひどい吐き気が起こり、半日~1日くらいの間は、吐き通しで、何もできずに布団にうずくまっているしかないという状況になります。

 元々、年に1~2回くらいは定期的に起こっていたものですが、休職前のストレスフルな時期は毎月のように発作が起こり、参っていました。

 この2年くらいは発作も起こらずにいて、最近は、マインドフルネスのお陰でストレスも感じにくくなってきているので、もうなることはないかなーなどと気楽に考えていたのですが、先週、とうとう発作がでてしまいました。

 もともと疲れている時とか、ストレスがかかった後、それがフッと和らいだ時になりやすい傾向はありましたが、かといって疲れている時にいつもなるわけでもなく、未だに、いつ起こるのかは、自分でもわかりません。

 でも、一度出現すると、1日~2日くらいは機能停止状態になるため、この症状が起こるのをいつも恐れている気持ちはありました。

 今回も、はっきりとした原因は思い当たらず、そういう意味でもちょっとショックだったのですが、これも自分にマインドフルネス対応を勉強させるための、一つのチャレンジだと思い込むようにして、症状が出続けている間、寝床でうずくまりながら、ひたすら呼吸を数えていました。
 そして、呼吸に意識を向けることで、それ以上、ネガティブが思考や原因探しの思考が続いていかないように、ただひたすら呼吸に意識を戻すという事を続けてみました。
 
 最初、予兆の閃輝暗点が出てきたときには、このままマインドフルネスの呼吸法を続けていたら、頭痛や吐き気が起こらなかったりして。。。。とすこし期待しましが、やっぱりつらい症状は出ました。

 でも、そこで、動揺しなかったのは、マインドフルネスのお陰かなと思います。

 発作が出た原因も思い当たらず、すくなからずショックだったのですが、そう思うのも当然だよなと受け止めてあげて、そして、でも、それ以上、原因探しをしても、わからないものはわからない。ある日突然地震が起こるのと同じだととらえて、そこからは、つらい症状を呼吸法でしのぎながら、ひたすら症状を観察していました。

 そう観察していると、症状出現し7~8時間くらい経過してくると、徐々に吐き気も収まってきて、すこしずつ身体が回復してくるのがわかりました。その間は、まったく飲めず食わずで吐き通しなので、そこから身体が戻るのに半日から1日程度かかります。
 そうやって観察と呼吸法を徹底してやりながら対処することで、発作自体はあるけれど、精神的には、そこまでショックを受けずに済んだような気がしています。

 でも、そこから2日後に、仕事中に再発。

 仕事を早退して帰宅しました。

 これもまた仕事中に起こるのは初めてだったので、かなりショックでした。
 他の方々に迷惑をかけてしまったことも、またショックです。

 でも、いつ起こるかわからないものだし、自分なりに対処をとってきていた中での再発です。

 これ以上、自分にできることはありません。

 それであれば、症状が再発したというのも、自分が力を出し切った結果です。

 もう、それは結果なので、受け入れて、またひたすら呼吸法と観察を続けていきました。

 やはり、7~8時間後くらいから徐々に楽になり、さすがに、2連続の発作なので、そこから体力が戻るのに2日ほど要しましたが、ほぼ復活といって良いレベルになっています。

 正直なところ、この先も、いつまた症状が出現するかもしれず、特にこういう発作直後は、発作を怖がっている自分がいます。でも、それも当然の反応だと思います。そんな自分も否定せず、でも、時間がたってくれば、こういった気持ちもすこしずつ収まってくるのかなと思いながら、今日も、そんな自分を観察・洞察している感じです。
 まだしばらくは、仕事をしている間も怖く感じるのでしょう。でも、それは自然と起こる感情だから自分では止められませんからね。しょうがない。
 ただ、その感情がそこにあることを許しつつ、そのままに、そのままに、今、やっていることに意識を向けています。
 ついつい、発作の事や、不安な事を考えそうなるときは、呼吸に意識を向けて。

 こんな1週間でした。

 これも、自分のマインドフルネスを磨くための、一つの課題だと思っていますが、やっぱり、マインドフルネス的に対処していくと、つらい症状はかわらないのだけど、それにより、心が揺さぶられる程度が弱くなっている気がします。

 まだまだ進行中の事ですが、リアルタイムでのマインドフルネス的対処している様子も、参考になる人もいるかなーと思い、今日は書いてみました。

 ではでは、また次回!

 (追記です)
 記事にて、発作時にも症状を観察していたと書きましたが、症状が強いときには、観察することが困難な事があります。特に痛みや不安などの程度が強い時には、そこに意識を向けようとしたり、「今、ここ」に意識を向けると、症状が強く感じられて圧倒されそうになってしまうときがあります。そういうときは、むりにその症状を観察しようとせず、ただ、気持ちがもっていかれないように、呼吸の方に意識を持っていって、ひたすら呼吸をかぞえながらやり過ごすという方法をとってました。
 その症状自体がつらいからといって、それを無視しようとか、押さえ込もうとすると、倍の威力で押し返してくるので、その症状がそこにあることはもうしょうがいないと覚悟を決めて、でも、その症状に意識が向かってしまうのを防ぐために、無理矢理呼吸に意識を向けておくようにする感じです。気を抜くと、すぐ症状に意識がもってかれるので、また呼吸に戻す。それをひたすら繰り返していました。
 イメージで言うと、自分の横にその症状をおいておきつつ、意識を呼吸に向けている感じというか、周辺視野にその症状がチラチラ見えているのを許しつつ、呼吸という部分を見つめているような感じでしょうか。
 余計わかりにくいかな。
 もし、観察できる余裕が出てきたら、その症状の程度や具体的にどこで感じているか、どう変化していくかを観察していくのは、自分の感情や思考から症状を切り離すのにとても役にたつと思います。
 これも一つの方法ですが、ご参考までに。
 自分なりの方法を見つけていくと良いと思います。

呼吸法、瞑想の目的 (陥りやすいポイント)

 さて、今日は、呼吸法、瞑想の目的について、書こうと思います。

 呼吸法、瞑想というのは、SIMTにおける静的自己洞察であり、基本的スキルです。
 でも、SIMTの素晴らしいと思うところは、セッション1であっても、セッション10であっても、卒業後であっても、やることは変わらないところです。
 この基本的スキルを丁寧に、丁寧に繰り返していくことが大切です。
 おそらく、やっていることは同じですが、その精度が変わっていく、深まっていくのだと思います。
 そして、この静的自己洞察においてできていないことは、決して、日常生活の中の動的自己洞察でもできないと思います。

 なので、まだ自分の症状が良くならない、もっと先に進めば改善のきっかけをみつけられるんじゃないかと焦る方もいると思いますが、大切なのはこの基本的スキル、静的自己洞察であるので、しっかりこの呼吸法、瞑想を続けていかれると良いと思います。

 そこで、この呼吸法、瞑想の目的についてですが、目的はあくまで、「自己洞察のトレーニング」ということです。
 というのも、呼吸法、瞑想法を続けていこうとすると、ついつい、この「自己洞察」以外のことが、目的になったり、その日の瞑想の評価基準になってしまったりするからです。

 どういうことかと言うと、瞑想をやっていると、「あー、今日は、ぜんぜん集中できないし、考えてばっかりだし、うまくできないや」とか、「こんなに思考ばかりになっている瞑想なんてダメだ!」とか、逆に「今日は、リラックスできてとてもうまく瞑想ができたな」とか、考えてしまいがちです。

 そのうちに、「今日は、やる気しないし、集中できないから瞑想はやめよう」となっていったり、「リラックスできてないのは、瞑想がうまくいってないからだ」「何かまちがっているにちがいない」といって、瞑想を続けられなくなっていったりしてしまいます。

 ちょっとまってください。
 瞑想の目的は、「集中すること」でも「集中力を養うこと」でも、「リラックスすること」でもありません。
 だから、「思考に流れず集中できたから良い瞑想」「リラックスできたから、リフレッシュできたから良い瞑想」ではありません。
 大切なのは、「自己洞察をトレーニングすること」です。
 つまり、「すぐ思考に流れていたな」とか「身体がだるいな」と気づくことが、それ自体がトレーニングであり、その気づきの繰り返しこそが、まさに、SIMTのおける瞑想の目的です。
 
 確かに、僕自身も疲労がたまっていたり、調子が悪いときは、瞑想をしていても、思考に流れやすくて、それに気づくまでの時間も遅くなりがちです。それに、瞑想をしながら、呼吸法をしていると、時間にともなって症状がすこし楽になったり、リラックスしてくることが多いことは事実です。
 でも、それは単なる瞑想の副産物であり、目的ではありません。リラックスや集中など、自分がポジティブにとらえていることが自分に起こると、それを「良い」と判断して、ついつい瞑想の最中にも、その状態を求めようとしてしまいがちです。
 確かに起こったら嬉しい副産物ですが、でも、それは、「快」の感覚への執着ですね。

 SIMTにおける瞑想で重要なのは、今、自分の中で起こった感覚や思考などの現象に気づくことであり、その「気づく」感覚を養っていくことだと思います。

 確かに瞑想の最中に、呼吸に意識を向けますが、それは、呼吸のみに意識を向け続けなければならないということではありありません。ある1つの事に意識を向けていれば、意識がふわふわーと他に流れ、思考が始まったときに、その事に気がつきやすくなるという理由で、呼吸が選ばれているわけです。この点は、何も呼吸でなければならないわけではありません。実際にボディスキャンといって、全身の感覚に意識を向けることで、呼吸のかわりとし、その結果、思考に流れたりしたときにそれに気がつくというやり方もあります。

 だから、大切なのは、呼吸に集中することというよりも、呼吸に意識を向けた結果、そこから意識が逸れたりしたときに、すぐに気がつけることなのですね。確かに集中は大切ですが、もし、かりに強靱な集中力を持っている人がいて、30分間、一瞬も意識がそれることなく、呼吸のみに意識が向けられる人がいたら、それはそれでスゴいと思いますが、それでは自己洞察の練習にはまったくなりません。SIMTにおける瞑想では、集中力をつけるトレーニングをしているのではなく、あくまで洞察のトレーニングをしているわけです。
 でも、一般人は心配する必要はありません。30秒もすれば、呼吸から意識が逸れて、ちがうことを考え始めます。
 それが、当然なんです。人間は考えることをやめることはほぼ不可能ですから、それが正常の反応です。
 だから、意識が逸れてしまうことに罪悪感を感じたりする必要はまったくありません。
 ただ、それに気がついたときに、「今、思考にそれたな」と思って、そっと意識をまた呼吸に戻すだけです。
 ただただ、それの繰り返しです。


  めんどくさいなーという気持ちも、人間なら当然起こります。それに気がついたら、「めんどくさいという思考が走ったな」と確認して、そっとまた呼吸に意識を向けます。
  身体がだるいなーと感じたら、その感覚がどこにあるか感じてあげて「ここ重い感じがあるな」と確認して、また呼吸に意識を戻します。
 もう、きょうはやめたいな-という気持ちが浮かんだら、それを観察対象にして、「やめたいという気持ちが浮かんだな」、それに続いて、うまくできなかったという評価をしてたら、「あ、今、自分を評価したな」、「うまくやらないといけないという、本音、前提が働いたな」と確認して、また呼吸に意識を戻します。

 そうやって自分の中の、ポジティブなものも、ネガティブなものも、観察対象として、気づいていくことこそ、瞑想、静的自己洞察の目的そのものです。
 そいういう気持ちで瞑想をとらえると、体調が悪い日には悪い日の、良いときには良いときの瞑想があり、ただそれに気づきを加えていくだけでいいんだなーと思え、日々の瞑想が続けやすくなります。

 不思議な事に、それを、何日も何日も繰り返していくと、日常生活の中でも、ふとした瞬間に、その洞察モードが働いていることがわかるようになります。 ふと、今、自分の中に起こったことを洞察している自分に気がつきます。

 これは、いきなり日常生活の中で洞察をしようと思っても、なっかなかできません。
 気がついたら、一日過ぎていて、夜、日記を書くときになり、あー、今日も洞察まったくできてなかたった。。。とそれこそ、後悔の念におそわれたりします。

 でも、この静的洞察を繰り返しながら、日中の課題も取り組んでいくと、ふとした瞬間に以前より洞察の頻度が増えている事に気がつきます。

 だから、セッションがいくつになっても、セッションが終わった後でも、この静的自己洞察のトレーニング、つまり、瞑想と呼吸法を続けていくことが、大切になるんですね。
 洞察の精度を磨いていくことで、日常生活の中で、より深い自己洞察を手に入れることができるように思います。
 その結果、目的ではなく、あくまで結果ですが、自分のいろいろなものが変化していくように思います。

 僕自身も、始めたころ、日中の活動時自己洞察の数が伸びず、どうしたらいかと悩みました。
 また、今日の瞑想は全然ダメだったとか、リラックスできないなとか、いろいろ考えてしまいました。
 でも、実践を続けているうちに、こういった気持ちで日々の瞑想に取り組むと、楽に続けることができ、さらに自然と日中の洞察もできるようになっていきました。

 だから、今、実践中の方も、あせらずに、その日の瞑想を丁寧に、ただ、その日の自分の調子を観察してあげるつもりで、やってみてください。何より、日々に実践が大切です。

 ではでは、今日も、読んでくださりありがとうございます。すこしでもお役に立つことがあれば、さいわいです。
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日々の出来事、相手さえもマインドフルに扱う

 えー、今日は、うつからの回復を目指すという意味では、つらい時というより、すこし良くなってからの事を書こうと思います。
 書こうかどうしようかと思いましたが、やはり今の学びは、この瞬間にしかないものだし、自分のための記録の意味合いも兼ね書いてみます。
 僕自身がそういうつもりでも、誰かにどこかでヒントになるかもしれないし。

 すこし前のブログでも書いたかもしれませんが、だいぶ体調がよくなり、自分自身の気持ちとか症状は陰を潜めてきて、生活のなかで折り合いを付けられるようになってくると、では、次はどんなところを目指してというか、どういった学びに主眼をおいて、瞑想や洞察を続けていけがよいか、すこし迷っていました。
 もちろん、マインドフルネスでは、別の何かになるとか、目標を設定するものではありません。
 でも、うつの回復過程でも、マインドフルネスの上達や回復の過程は、決して、右肩上がりの直線グラフのように回復していくわけではありません。いや、たぶん右肩上がりで回復していくんでしょうが、自分の実感としては、「あ、気づいたら結構よくなっている」と感じる時と、「最近、ちょっと今ひとつだな」「なんか、良くなっていかないな」という時期が交互にくる感じです。

 (グラフを書いて挿入しようと思いましたが、どうやっていいかわからず断念。)

 そんな感じで、最近、またすこし停滞感を感じていたんですが、すこしきっかけになったことがあり、自分なりに次のテーマを見つけることができたので、書いてみたいと思います。

 自分は、今まで、呼吸法、瞑想をして、洞察を繰り返し、だいぶ不快の受容ができるようになってきてました。
 セッション中も、それなりに身に付けたつもりでいたんですが、特に最近、自分の中のネガティブな感情、症状、状態、たとえば、疲れとか、気分の落ち込み、頭痛などの症状、怒りなどといったものも、徐々に上手に扱えるようになってきている気がします。
 それを否定したりせずに、今日は疲れてるんだなと気がついたら、それだけで、それをなくそうとしたりせず、かといって、それに対して動揺することもなく、ただ、それが在ることを認めながらも、自分のできることをやれるといったような感じです。

 ところが、最近、そういったことを、自分の外部にある環境や、外部から生じてくる事象についても、同様に扱ってあげればいいのだということがわかってきて、実践し始めているところです。

 というのも、つい先日、マインドフルネス精神療法協会の創刊号の雑誌が送られてきまして、ざっと目を通していたんですが、その中で、大田先生を始め、マインドフルネスをうつの方々に実践されている方たちのお話も出ており、読ませていただいたのですが、マインドフルネスを提供する実践者は、その参加する方々をも、マインドフルネス的に扱わなければならないというお話がでていたんですね。決して、指導的になったり、指示的になりすぎないようにして、参加者さんたちの持っている苦悩を、その参加者さんごと、マインドフルネス的に扱うことで、その参加者さんのマインドフルネスはより深まっていくというような。

 これを読んだとき、何か目から鱗のような気分になりました。

 僕自身、元々、対人関係に強い方ではないと自覚しており、わりと人見知りとか、人に対する緊張とかも強い方です。
 でも、仕事とかしていると、あんまり会いたくないなという方に、何度もお会いしなくちゃいけない時があるわけです。
 医療系の仕事をしているため、苦手なクライエントというのもやはりおりまして、たとえば、いつ会っても不平不満を言っていて、口を開けば悪口ばかり、という方がいたりするわけです。
 やっぱり会いたくないなと思っちゃうわけです。そして、会えば、早くさよならしたくなり、不満ばかり聞いていると怒りもわいてきたりするわけです。
 そんな人なら、そう思うjのも、当然といえば、当然なんですが、やっぱりそういう人も根っからの悪人ではないわけで、いろいろつらい理由もあったりするんですよね。
 だから、医療者なんだから、そんなこと思っちゃいけないとか、怒ったりしちゃいけないとか、相手の不平に対して、何かしてあげなくちゃいけないんじゃないかとか、いくつもの罪悪感を感じて、心の中では嫌でしょうがないというような事があったりするんですね
 だから、自分はそういう状況に対して、すごく苦手意識があって、相手に怒りや悲しみなどの負の感情をぶつけられるのをすごく苦手にしていました。

 でも、先ほどの記事を読んだとき、「そうか、他人の負の感情や、外で起こる嫌なことに対しても、自分の負の感情を扱うように、マインドフルネス的に扱ってあげればいいんだ」と思ったんです。

 どういうことかというと、自分の中で起こる負の感情や症状というと、落ち込みとか怒り、疲れなどが在るわけです。
 それが、嫌だから、その落ち込みを無理にあげようとしたり、怒りを抑え込もうとしたり、疲れをなくそうとしたりすると、悪循環に嵌っていくわけです。それらは、その前の生活の中での結果として、自然に起こってくるものなので、疲労感や怒りなどの感情は止めることはできません。だから、ただ、それが在ることを感じたら、名前を付けて、あとは、呼吸に意識を向けて、それがそのままあることを許してあげつつ、ただ観察していきます。そして、怒りなどや落ち込みなどの感情が生まれてしまったことで、起こる後悔の念や自分に対する失望の気持ちも、それ自体は止めることができませんので、「今の段階ではそう思うのも仕方がないよな」とそこに存在することを許し、ただ、呼吸法を用いつつ観察していきます。
 そうすると、時間が経つ内に、変化していきます。さっきまでの怒りが弱くなっていったり、疲労が回復してきたり、無理になくそうとしなくても、消えていくんですね。
 それを繰り返しているうちに、それらを引き起こした自分の中の連鎖に気がついてきます。
 こういう事があったのちにこれくらいの疲れがでるのか、とか、こういう価値判断基準があるから、こういう怒りが生まれるのか、とか。
 そのあたりまで観察できてくると、今まで生じるのがいやでしょうがなかった自分の中の不快事象を見る目がすこしずつ変わってきます。
 「今日は、こんなことがあったから、この程度の疲れがでるかも」とか、「このくらいの怒りなら、これくらいで消えていくかな」とか。
さらには、「次の時には、こういう対処をしたら、そのあとの疲れや怒りはどのくらいだろう?」と。
 この段階になってくると、今まで生じることを恐れていた態度とは真逆になっており、へたをしたら、「次はいつ起こるんだろう、観察するチャンスだ」と言った具合に、軽く楽しみにするくらいのレベルになってきます(そこまでいかなくてもいいけど)。
 もう、不快事象に対する態度がかわってきてしまいます。
 これが、自分の中に生じる不快事象に対するマインドフルネス的な対応です。

 ここからさらに一歩すすめて、相手に対しても、そして外部から起こってくる不快事象に対しても、同じように対応してあげればいいわけです。
 さっきのクライエントさんで言うと、相手がいう不平不満を止めることはできません。自分の中に生じる負の感情を止めることはできないのと同じです。そして、それに対して、自分がある程度、嫌な気持ちになることを止めることもできません。それも自然な反応です。
 でも、そこで、その不満に自分が無理に答えようとしたり、それを押さえつけようとしたりする必要はまったくないんです。それは、その方の中では自然に生じるものだから。ただ、そうしていることを認めて、呼吸法をしながら観察していけばいいんですね。
 その方に対して生じる自分の中の負の感情に対しても、罪悪感を覚える必要はありません。それも、自然にそのままにしておけばいいんです。

 そうやって、対応していると、最初は、「あ、怒りが強くなってきた。これ以上話しをきいているとやばいな」とか程度の観察の具合でしたが、徐々に、「今日は、この方の不満の度合いも強くないな」とか、「自分の怒りメーターは、まだ大丈夫だな」とか、「これくらい話していると、この人も落ち着いてくるんだ。」と変わっていき、「この不満の背景には寂しさがあるのかな」とか、「解決を求めてはいないな」とか、自分の怒りや罪悪感が消えて行き、その方に会うストレスもグッと少なくなってきていることに気がつきました。

 前は、会う前から、下手をしたら会う前日から嫌な気持ちがあったのに。

 こういうように対応していると、その方自身の反応も、すこしずつ変わってくるんですね。
 不満だけをぶつけてくるのではなく、時には「こんな話しばかりでゴメンね」とか、いたわりの言葉をくれたり、「私もわかってるんです」とか、自省的な発言がでたり。
 以前は、「お世話になってるのにそんなに悪口ばっかりいったらいけないよ」とか言っても、むしろもっと逆上したりする事もあったのに。
 本当に不思議です。

 世の中には、自分には変えられないことがたくさんあります。むしろ、自分に変えられることなんて、ごくわずかです。
 自分の事ですら、自分には変えられません。

 でも、ただ、マインドフルネス的に生活をしていくことで、変わっていくことってあるんですね。

 そこが、やっぱり、マインドフルネスの、SIMTのすごさだと思います。

 こうやって、SIMTを、日常生活の中に、周りの世界にどんどん広げて使って行くことで、自分の学びがさらに深まっていくことが実感できました。
 これからも、この道を歩んで行きたいと思います。

 今、病状でくるしんでいる方は、無理に生活の中に広げていくことを焦らないでいいと思います。
 材料は、自分の中にたくさんあります。
 まず、そこと徹底的に向き合って、SIMTを実践してくことだと思います。
 そうすると、すこしずつ、すこしずつ自分の向き合える範囲が広がっていって、気がつけば、自分の生活の幅も広がって行きます。
 
 ともに、あきらめずに、日々実践をしていきましょう。

 ではでは、今日は、この辺で。

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うつの時の疲労感

 前回の記載から、すこし御時間が空きました。
 最近、生活の方がいろいろと忙しくなってきています。そうするとどうしても、呼吸法をする時間が少なくなりがちですが、そんな中でも、隙を突いてでも、呼吸法(瞑想)と洞察を続けるようにしています。

 今日は、自分がうつ病が悪かったときに感じた疲労感について書いてみようと思います。

 というのも、最近特に、この疲れやすさや疲労感というものが回復してきているように感じるからです。これもマインドフルネスのお陰かなと思いまして、すこし考察したことを書いてみようと思います。

 うつの症状はあらゆるところに出てきます。

 うつ病になったことがない人は、「うつ病って、きっと落ち込む病気なんだろうな」とか思うと思います。
 僕自身も、うつになる前には、うつ病というのは精神症状がメインの病気だと思ってみました。
 確かに、気分が晴れないなどの精神症状があることはあります。
 でも、僕自身、鬱になってみて、つらかったのは精神症状に伴う様々な身体症状の方でした。
 こう言うと、うつ病になったことがない方々は、「あー、食欲がでなかったりとかそういうこと?」と思うかもしれません。
 でも、正直なところ、そういう気分的なものに近い症状以外にも、ありとあらゆる身体症状が出うると思います。
 僕自身はありませんでしたが、微熱が続いたりすることもあるそうです。
 
 僕自身の病気中の実感としては、精神疾患に伴う症状といううより、身体症状に伴う精神的な落ち込みというのが正しいのではないかというくらい、自分自身の身体が言うことを聞かず、様々な症状に苦しめられました。

 ちなみに、この身体症状は、どうやら人によってかなり差があるようです。だから一言で鬱といっても、症状の出方は本当に人それぞれと思ってもらっていいと思います。

 そんな症状の中で、自分が特に理解ができず、つらかった症状として、易疲労感、そして実際に感じている疲労感があります。
 初めて鬱症状が出たときは、この症状はそこまでひどくありませんでしたが、2回目の休職以後は、特にひどくなりました。今までの自分なら考えられないような軽作業でも、身体が疲れ切ってしまう。そして、自分が嫌だなと思うものだけでなく、好きだなとか、それまで楽しみとしていたことでも簡単に疲れてしまって、続けることができない。
 
 これには、自分に対して、本当にがっかりしたとともに、まったく自分でもどうなっているのか理解できませんでした。

 自分が、このくらいはできるなとか、そんなに無理せずに生活しているつもりでも、その後にドッと疲れがでてしまう。
 今は、うつ病だからと思って、身体を休めようとしばらく休んでも、ちっとも回復しない、もしくは回復のスピードが極端に遅い。
 そして、動けないからさらに体力がなくなっていく。
 その悪循環から抜け出せないでいました。そして、こんな状態じゃあ、この先どうやって生きていけばいいんだと、ずっと考えていました。

 そういった症状が、最近は、かなり改善されてきています。
 
 もちろん、数年間そんな状態が続きましたので、そう簡単には戻りませんが、以前に比べると、かなり活動の幅も広がり、元気が出てきている気がします。そして、疲れにくくなってきてもいます。もちろん、調子にのって動きすぎないように注意もしてますが。

 あの疲労感は何だったのかと考えた時に、今になると思い当たる事があったので、いくつか書いてみたいと思います。

 どんな感じだったのか特徴的なエピソードとして、こんな事がありました。

 うつの状態が悪くなり、偏頭痛やらめまいやら様々な症状が悪化し、3度目の休職をして間もないころでした。
 すでに休職をしているので、やることもなく、家にいました。
 日中も、なかなか気分が晴れず、ソファーで過ごすことが多かったある日です。
 妻も、今は無理せず身体と心を休めてといってくれていたので、ソファーに座ってたまにテレビを見たりして過ごしていました。まだ小さい子供たちも部屋で遊んでいましたが、彼らにかまうこともできず、ソファーに身体を横たえていました。
 そして、一日をすぎ、僕の発した一言が、
  「疲れた。。。。。」

 この一言に、妻は、「それだけ休んでいて、いったい何が疲れるというの?」と、素朴な質問を投げかけてきました。

 いや、実際、僕もそう思いました。

 子供と遊ぶこともできず、ただ休んでいるだけなのに、いったい何が疲れるのかと。

 でも、自分の実際に感じているのは、明らかに疲労感なのです。
 
 次の受診日、妻が同席していたので、妻が主治医の先生にも、聞いていました。「これこれこういう状況で、夫は疲れたというんですが、それで疲れるものなのでしょうか?」と。

 主治医の先生も、「それで、疲れる訳がない」と言っていました。
 意識で疲れた気がしているだけで、実際に疲れているわけではないと。

 それまでにも、何度も、この疲れやすさは何なのかと主治医の先生にも聞いてきましたが、明快な答えは得られませんでした。
 自分はもしかしたら貧血なのか?悪い病気か?甲状腺がおかしい?など、いろいろ考え、血液検査などもしましたが、まったく正常です。

 今は、通院先を変えてしまいましたが、この先生が特別なわけじゃなく、どこの先生もそのことについてなかなか明快な答えをくれる先生はいないんじゃないでしょうか?
 僕自身、当時は、主治医の先生にも妻にも理解してもらえないことを、とても残念に思っていましたが、同時に、それも当然だよなという気持ちもありました。だって、僕自身、そんなことで疲れるわけがないと思ってましたし、自分自身でわからないのに、うつでもない他人に理解できるわけがないよなという気持ちもありました。

 でも、どんなに「それは疲れではない」と言われても、自分自身には「疲労感」としか言いようがないものでした。
 自分の人生の過去の経験に照らしあわせると、「すごい大変な作業を一杯やって、くったくたになって、疲れ切っている時の疲労感」と、まったく同一の感覚で、「疲労感」としか表現のしようがありませんでした。
 動いてもないのに、どうしてその「疲労感」におそわれるのか、やっぱり自分が間違っているのか、ただでさえ自信を失っている自分は、自分の感覚さえも信じられなくなっていました。

 今思うと、やっぱりあれは、「疲労感」なのだと思います。
 おそらく、「すごい大変な作業を一杯やって、くたくたになっているときの疲労感」と、うつ状態の時にただに部屋にいるだけで感じていた「疲労感」は、そとから見るとすごく違いがあるように見えますが、頭の中で、そして身体の中で起こっていたことはおそらく同じなのだと思います。

 というのも、感覚は脳が作り出します。
 痛みという感覚も、たとえば手をけがしたとしても、そこで痛み物質が神経を刺激し、興奮させ、その刺激が脳に伝えられて、脳がその痛みを「痛み」として、認識するわけです。
 たとえ、手をけがしても、脳の痛みを感じる部分が壊れていれば、人は痛みを感じません。
 逆に、例え、右腕を切り落としてしまい、右腕を失ってしまった人でも、脳が、右腕があると感じて、そこに痛みを感じる脳の部位が興奮すれば、不思議なことに、その人はないはずの右手の位置に、「痛み」を感じてしまうのです。
 これを「幻肢痛」と呼びます。
 同様に、我々の脳は、想像したりしたものと、実際に起こったことの区別もできません。自己と他者の区別すらも実は曖昧です。
 他人が腕をけがした映像をみると、まるで自分が痛いかのような気がしますよね。
 実は、そのとき、痛いような気がするだけでなく、実際に脳の痛みを感じる部位が働いていて、まるで自分がけがをしたときのように機能します。つまり、脳の面からだけみると、自分の身体の痛みと、他人の痛みを明確に区別できていません、というか、同じように脳が働いてしまいます。

 他にも、他の人がジョギングをしている映像をみているだけで、自分の脳の運動を司る部分が働いて、身体に信号を出し、実際に心拍数が上がったり、筋肉が収縮したりしていると言います。

 ただし、これは、自分自身に過去の経験のある場合だけです。
 おそらく、うまれたての赤ちゃんは、その映像をみても、そういった反応は起こさないでしょう。

 脳は、無意識に、見た映像から自分の記憶や経験にアクセスし、同じような反応をしてしまう訳です。
 その結果、同じ脳の部位が作用してしまうわけですね。

 おそらく、私が感じていた疲労感でも、同じような事が起こっていたのだと思います。
 
 ソファーに座っているだけでしたが、当時は、テレビでニュースをみれば、働いていない自分に対して攻め続ける思考をし、子供が部屋で遊んでいれば、「もっといい父親なら、こどもと遊んであげられるのに」とずっと考え続けていました。

 そとから見ると、座っているだけですが、頭の中では、ずっーと、仕事をしているところや、それに失敗しているだめな自分の事、良い父親像、それができない自分のだめさなどの思考が続いているわけです。
 おそらく、そのとき、脳内では、自分が実際に仕事をしてうまくいかなかったときと同じ反応を起こし、その神経が働いていて、その後、疲労物質を出し、身体にも疲労物質を出すような命令を出していたんでしょう。
脳の中では辛い経験や体験が繰り返し行われていたわけです。
 だから、自分の脳の中では、「すごく大変な作業をしてくったくたになっていく」のと同じ反応が起こっており、脳内、体内では、同様な反応が起こっていたんだと推測できます。
 そりゃ、自分では、区別できない訳です。だって、同じ事が起こっているんだから。

 では、なぜ、マインドフルネスでその疲労感が良くなっているのか。

 ここまで書けばわかると思いますが、マインドフルネスでは、呼吸に意識を向けて、思考の連鎖に嵌らないようにします。
 そして、今、自分が過ごしている現在に意識を向けて行きます。

 結果として、脳の中で、つらかった記憶やつらかった思考、イメージがリフレインされることを止めることができるわけです。
 今でも、実際に風邪をひいたり、実際に体力を使って疲れたときなど、その疲れに引きずられて、悪いイメージや悪循環の思考がスタートしそうになることがあります。
 でも、そんな時には、それがスタートしそうになる、もしくはスタートしてしまった時点で気づき、意識的に呼吸に意識を向けて、しばらく呼吸法を続けることで、その悪循環をある程度止めていくことができるようになりました。
 そうしているうちに、そもそもの悪い思考が出てくることが少なくなっています。
 今までは、脳の中で形成されていた、「つらい体調」→「つらい思考」といった神経回路のリンクが、使われないことで抑制されてきたんだと考えています。ちょっと難しい用語で言えば、「脱学習」の過程が進んできたんだと思います。

 なので、鬱で様々な症状を感じている皆さん、おそらくその症状は、気のせいでもなければ、自分の勘違いでもないと思います。おそらく、あなたが思考で繰り返してしまっている経験を、実際に起こっているのと同じように脳は感じてしまっているんです。
 つらい場面は、ただでさえエネルギーを使うのに、その経験を、何度も何度もさせられたら、そりゃくたびれますよね。
 仕事で鬱になった人がいたとしたら、それを繰り返し思い出すのは、自分自身の頭の中に、ブラックカンパニーがあるのと同じです。自分自身が自分を酷使してしまっているのですよね。

 そしてそれを緩和できる、止められる。ここに、呼吸法、そして、洞察のすごさがあると思います。

 様々なつらい症状を感じている方の、すこしでもヒントになれば幸いです。

 ではでは、今日は、この辺で。

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Ko7

Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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