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マインドフルネスを身に付けるのは簡単か?

 やっと風邪から立ち直り、体調も気分も回復してきました。

 今日は、先日の予告通り、「マインドフルネスを身に付けることは簡単か?」という観点で書いてみたいと思います。

 というのも、SIMTのセッションをやっていると、「みんなは良くなっているのに、自分はよくならない」とか、「もしかして、自分には向いていないのかも」といった疑問がわいてくる方もいらっしゃると思ったからです。
 
 僕自身も、そういう疑問は常にもってました。

 「自分には向かないんじゃないか」「マインドフルネスは、一種の特殊な技能で、一部の人しかできないんじゃないか」

 うつで、自分に対しての自身が喪失している状態なら、そう考えるのも当然です。

 私自身の体験と、考えからいうと、「マインドフルネスは、誰にでも身に付けることができる」と思います。

 条件を挙げるなら、以前の記事の中でも書いたかもしれませんが、
 ・呼吸をしていること
 ・自分が呼吸をしているのを自覚できること

 この2点が満たされれば、マインドフルネスを実践していくことができると思います。
 なので、このブログを今、読まれている方なら絶対できると言うことです。

 「でも、私には実感できない」という人がいるかもしれません。

 それには二つの原因が考えられると思います。

 一つは、やり方や方向性の点で、壁に当たっている、もしくは勘違いしてしまっている。

 この点については、良き指導者の下でやられることをおすすめします。アドバイスがもらえますからね。
 また、このブログも、そんな方々のヒントになればと思い始めました。
 いろいろな人の経験を聞くことは、理解の助けになりますよね。

 もう1点は、実践の時間、継続の時間が少ない。ということが考えられると思います。
 早く結果を求めたいのは皆同じですが、マインドフルネスの実践において、その効果を実感したり、自分なりにやり方が腑に落ちるまでには、どうしても、ある一定の時間がかかります。
 これは、どうしてもそういうものです。人によって、多少の早い遅いはあると思いますが、どうしてもある一定の時間はかかると思います。おそらく、最短でも数ヶ月は必要なような気がします。あくまで主観ですが。

 このあたりのことを、たとえ話で説明してみたいと思います。

 私自身、マインドフルネスの習得の過程は、言語習得や、山登りににているところがあると思います。
 
 まず、言語習得に似ているという点は、とにかく実践が大切であるという事です。
 そして、実践さえ積み重ねれば、誰でも習得できるという点も似ていると思います。

 たとえば、我々日本に生まれ育ったものは、耳が聞こえないなどの特殊な事情がないかぎり、ある程度の年齢になれば、日本語を話すことができます。
 でも、日本語の文法について、つらつらと説明できる人は少ないでしょう。でも、日本語を使いこなし、少なくとも日常の生活では、困らない程度に日本語を話せていると思います。
 日本語だと、身近すぎて実感がないかたでも、英語と言えば理解できるかもしれません。
 僕らは、英語というと学校で習った語学ということで、話すには勉強が必要だ、と思うかもしれません。
 でも、アメリカ人は、英語の中で育った人なら、学歴に関係なく、ある程度の英語は話せるはずです。
 もし、あなたが英語がまったくしゃべれないとしても、今すぐアメリカに行き、英語を必要とする世界で、日々、英語に接し、使おうとしていけば、数日、数週間では無理でも、数ヶ月先にはある程度の英語がしゃべれるようになっているはずです。

 マインドフルネスも一緒だと思います。日々、呼吸法をやりながらの洞察を繰り返していくことで、静的洞察、動的洞察を丁寧に続けていくことで、誰でも必ず、マインドフルネスを身に付けることができます。逆にいうと、その実践を経なければ、日々の継続を経なければ、決して身に付けることはできません。

 英会話も、英語の文法や、英会話のコツを書いた本をいくらたくさん読んだって、それだけでは、英語をしゃべれるようにはなりませんよね。どんなに知識を身に付けても、それだけでは、英語はしゃべれるようにはなれません。(決して知識が無駄だといっているわけではありません)
 英語をしゃべれるようになるためには、とにかく使ってみること、英語をしゃべってみて、例えいくら間違えたとしても、その都度、治したりしながらの試行錯誤がなければ、決してしゃべれるようにはなりません。
 日本人にありがちなのは、英語の文法などを学校で学びすぎてしまったために、正しい英語をしゃべろうとしすぎて、しゃべる前に固まってしまう、話せなくなってしまうという現象です。
 この点も、マインドフルネスが似ていると思います。
 マインドフルネスを知ろうとしすぎて、いろいろ本を読みます。そうするうちに、正しいマインドフルネスというハードルがどんどん高くなってしまい、いつまで立っても、実践することができないという状態です。

 マインドフルネスについては、1冊の本より、1回の瞑想、1回の呼吸法しながらの洞察、だと思います。
 そういった経験が蓄積されたとき、やっと本に書いてある知識が、役に立つときがくると思います。
 とにかく、実践、実践、実践です。

 そして、山登りに似ているのは、このような部分です。
 1回30分の瞑想を、30歩歩いたのと同じとします。
 山を登るときに、30歩歩いて、何かかわるでしょうか?
 たぶん、見える景色は、すこし違うと思います。でも、スタート地点とほとんど同じでしょう。まったく同じではないけれど、30歩の違いは、それほど大きいものでは、ありません。
 もし、この30歩を歩いて、「自分は登山を経験した」という人がいたら、どうでしょうか?
 「ちょっと待って、ちょっと待って、お兄さん」と言いたくなりませんか?(笑)

 では、30歩を3回やって、100歩歩いたら、どうでしょうか?確かに、30歩の時よりも、すこしまた景色が違って見えるかもしれません。でも、あんまりかわりはありませんよね。

 でも、これが、30歩×100回やったら、どうですか?
 3000歩です。これくらい歩くと、さっきより、明らかなに高い所に来ているし、見える高さも変わってきていると思います。このくらいの高さにくると、自分が山を登っているなということが、はっきりと実感できるかもしれません。

 たかが30歩、されど30歩。たった1回の30歩では、たいした違いはわかりません。その30歩にいかに大きな意味を求めても、それは30歩でしかありません。でも、頂上に達する道は、その30歩の繰り返しによって、達成される訳です。

 マインドフルネス、そして、SIMTの実践も、これと同じように思います。
 今日、合計30分の瞑想をやった。それは素晴らしいことです。でも、そこにたくさんの期待を持ちすぎても、それは30分の瞑想でしかありません。それ1回で治るわけではありません。
 でも、たかだた30分を積み重ねていくと、ふと気がついたときに、以前には見えなかった景色が見えてくる瞬間があるんです。以前ならが、決して気がつかなかったような事に、気がつく瞬間があるんです。
 なんとか続けて、ここまで来ると、山を登るのが楽しくなります。
 30歩では変化を感じずに、坂道に苦しくなるときがあったと思います。でも、その30歩を積み上げて、ふと見上げたときに、すばらしい景色に出会えると、また登っていく元気がでます。
 マインドフルネスも、そこに気づく事ができたとき、さらに続けていく気持ちが生まれます。
 でも、いくら最初の100歩や200歩で、上の景色を想像しても、いくら振り返っても、そこからはそれほどの景色は見えませんよね。でも、見渡しがいい高さまで達するその歩数を歩いたときに、初めてその景色が手に入る訳です。

 だから、とにかく、実践を続けて欲しいと思います。静的洞察と動的洞察を、とにかく続けて欲しいと思っています。

 初めて入る山では、迷いやすいですよね。
 だから、登った経験のあるガイドと一緒に登ることをおすすめします。いくら、30歩を積み重ねても、それが、ある程度正しい道をあるいていないと、中々登っていることは実感できませんよね。例え、道に迷ったとしても、さんざん迷って、自分で道を見つけることができれが、それはかけがえのない経験になると思いますが。
 経験のあるガイドと一緒に登るのが安全ではあります。それが、良き指導者の下でSIMTを勉強するということだと思います。だから、SIMTを教えてらっしゃる方は、絶対に自分が実践をしていないとできないと思います。山を登った事のないガイドと一緒に山を登ろうとは思いませんよね。
 僕自身も、このブログが、皆さんの登山道でのちょっとした矢印案内板になれることを願っています。迷わせ看板にならないように、気を付けます。

 さて、二つほど、たとえ話を書いてみましたが、
 「マインドフルネスは、誰にでも身に付けられるものだが、それを身に付けるためにはかならず実践が必要である」という事は、多少、理解していただけたでしょうか?

 僕がここで書いているのは、あくまで僕自身の経験から感じたひとつの意見でしかありません。
 マインドフルネスも、「これが、正しいやり方である」というものではなくて、マインドフルネスの状態に達するためには、いくつもの道があるものだと思います。

 皆さんが、自分自身の実践の中において、自分なりの道を見つけ出されることを祈ります。


  (2015年4月24日追記)
 マインドフルネスとは、山を登るようなものだから、経験のあるガイド=経験のある指導者の下で実践した方がよいとかきました。
 ここで、少し追加をしたくなったので、書き足します。
 確かにマインドフルネスの実践は山を登るようなものですが、みなさんそれぞれが、自分という名前の山に分け入っていくようなものです。そこでのガイドの役割は、決してガイドの人がゴールに手取り足とりし連れて行ってくれるというものではなく、自分と言う山を上った経験から、こういう時はこういうことが多いとか、こういうコツがあるとかのアドバイスをすることだと思います。このブログも、僕自身が、自分の実践の中で、山に入るとこういう風に迷いやすいという、自分の経験から得たコツを書いているにすぎません。
 最終的には、あなたという山のことは、あなた自身が実践を行う中で、自分なりの道を探していくしかありません。自分の山で感じた疑問は、自分で山を歩き回り、自分なりの道を探していくしかないのです。
 僕も、特にセッション後、瞑想などを続けていると、これでいいのかなとか、どんな方向を目指していけばいいのかなとか思ったことがたびたびあります。そこで、いろいろな方の経験を参考にしたり、ヴィッパサナーに関する本を読んだりしていますが、最終的には、自分が日々実践している瞑想や洞察の中で自分なりの答えを見つけて進んでいます。瞑想に関する疑問の答えは瞑想の中にしかないのです。
 だから、自分のマインドフルネスの答えは、自分の実践の中で見つけていくしかありません。ガイドの方の話は、参考にはなりますが、それが自分の山にそのままあてはまるわけではありません。どんなに他の山に答えを探しても、いくつも他の山を探し回っても、そこに答えはありあません。自分の山の答えは、自分の山の中で見つけて行くしかないんです。何よりの近道は、自分の山をとにかく歩き回って、良く知ることです。つまり、それが、とにかく日々の実践を続けることであり、その実践を大切にするということなんですね。
 その部分を追記したくて書いてみました。参考になれば幸いです。


 ではでは、おつきあいありがとうございます。
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体調を崩した時は。

 しばらくご無沙汰してしまいました。

 先々週より風邪気味だったのですが、久しぶりに発熱までする風邪をひいて寝込んでしまいました。ちょど寒暖の差が激しかったのと、忙しかったのが重なったこともあったようです。
 一度治りかけたところで再度発熱してしまい、先週はぐったりでした。

 うつから回復し、体調が良くなったと言っても、まだまだ100%改善したわけではありません。
 
 すこし無理をすれば、風邪をひいたり、めまいがしたり、眠りが浅くなったり色々起こります。

 今回も幼稚園の子供からうつされたものだと思いますが、風邪からの回復は家族で一番遅いし、寒さ暑さのストレスにも、一番弱いです。

 マインドフルネスをやってもそういったことが、すぐに好くなる訳ではありません。実際に、この先も、こういったことが完全によくなるかはわからないと思っています。

 でも、今回も、そういった体調を崩した中での収穫は、そのような中でも大きく精神的に崩れることがなかった(今のところない)というのは、大きな成果だと思っています。自分の経験上、精神的な疲れや落ち込みは、身体の疲れや負担にくらべ1週間くらい遅れてでてくる傾向があるので、まだわからないですが、たぶん、そこまで大きく精神的に崩れることはないと思います。

 それも、自分に起こってくる様々な体調不良や風邪の症状に対して、とにかく徹底して、横においておく、そのままにしておく、ということをできるようになってきているからです。

 SIMTのセッションでいうところの、「不快事象の受容」というところですね。

 「不快事象の受容」といっても、もちろん我慢でもないし、「受容」といっても、自分で、体調不良や風邪の症状をよろこんで迎え入れているわけではありません。そんなMっ気は、僕にはありません(笑)。

 風邪で寝込んでいるときには、「あー、頭痛し、身体痛し、つらいなー」って思ってます。
 「早くよくなってほしいな」とも思ったりします。

 でも、そこまでなんです。

 「つらいなー」で、だからどうこうしようとはしません。症状にあわせて薬を飲んだりはしますが、それを「消してしまおう」とか考えず、つらいときは、ひたすら呼吸に意識を向けてました。

 それで、「自分ができる範囲で対処をしていたら、それ以上は、もうなるようにしかならないから」と、あとは、「つらいなー、ひとーつ、ふたーつ」と呼吸に意識を向けていきます。

 自分の不快な症状も、それに対して嫌な感情がわくことも、それがそこにあること自体には、「しょうがない」と、それ以上、それをどうこう考えるのはやめました。

 そうして、つらい時をつらい時なりに過ごしていると、そこに必要以上にエネルギーを奪われることなく過ごすことができました。

 今回の経験でやはり学ぶことは、風邪の症状や、それに対する自分の感情には、「善」も「悪」もないんですよね。ただ必要に応じ、自然に生じているだけで。そこに、いろいろ意味づけしているのは自分なんですよね。

 こういう不快な体験も、マインドフルネスを練習する良い経験になります。

 まあ、不快事象は、ないならないでそれが一番ですけど。やっぱり。

 と、そんな1週間を過ごしていました。

 まだ、体調が完全には回復していないため、今日はこの辺で。

 まだめまいと眠りの浅さは続いていますが、それも、そのまま、そのまま。ただただ観察していきましょう。

 次回は、マインドフルネスを身に付ける事は特殊技能?ってなテーマで書いてみようと考えてます。

 先日、ブログを始めて、初めてコメントを頂きました。助けになっていると言っていただき、やっぱりそういってもらえると嬉しいですね。

 少しでも、見てくださる方の参考になることがあれば本当にうれしいです。

 つらい時間を過ごされている方々、決してひとりではないですよ。あきらめないで下さい。

 ではでは。 

気づきの後に残るもの

  前回、2回に分けて、ストレスの原因と題して、自分の中にある「前提」や「理想」、「仮定」といったものが我々の意識を制限しており、それに「気づいて」いけるということを、書いてみました。

 そこで、今回は、そのような「気づき」を繰り返していった場合、自分には何が残るのかという事を書いてみたいと思います。

 繰り返しになるかもしれませんが、自分の中の「前提」や「理想」などに気づいても、すぐにそれが変わるとか、変えられる、ましてや、変えなければならないと言った事では消してありません。
 マインドフルネス的には、ただただ、その「前提」などに「気がついてあげる」だけでいいのです。
 「ああ、そういう前提があるんだな」、「自分は今、こういう前提のもとで思考が行なわれたんだな」と気がついてあげるだけです。
 それにともなって生じる感情や身体反応も、止められません。それがあるんだなと認めてあげます。そして、それ以上は深追いしません。

 ただ気づくだけでは、何もかわらないとお考えになるかもしれませんが、ただ気づくだけでいいのです。

 最初は、ただ気づくだけです。それが在ると知るだけです。

 それだけでも、かなり意味があるのですが、自分の中でより繰り返されているパターンは、生活の中でも繰り返しでてきます。そして、その「前提」があることに繰り返し気づき、またその後に起こる結果としての反応(感情や身体反応、そして、相手の反応なども)も、自然と繰り返し見つめることとなります。
 そうするうちに、もし、その「前提」に基づいた反応が、実生活にとって悪い影響を与えていると感じていたならば、自然と、そういった「前提」を持つことが意味の無いことに思えてきます。
 そうすると、自然と、その「前提」などに縛られなくなってくるんです。これは、自然と起こってきます。

 まあ、これはすこし余談でしたが、SIMTを続けるうちに、「今、ここ」という瞬間を大切にするようになってきます。
 勝手な「前提」とか「理想」とかを考えず、「今、ここ」の自分しかない、常に「今、ここ」しかこの瞬間には存在しないという風に、思えてきます。
 そうやって、自分を縛っていたいろいろな制限を捨てていくことができるんです。

 でも、我々は、成長の過程で、「理想をもて」とか「現状に満足したらいかん」とか、常に「もっとこういう風になれ」ということを意識させられ育ってきました。
 
 「今、ここ」の自分に満足するといっても、それってすごく刹那的な生き方、怠惰生き方になってしまうんじゃないかって思いませんか?
 僕は、思いました。
 上座部仏教では、修行においてこのマインドフルネス瞑想をヴィッパサナー瞑想として行ないますが、そうすると、諸行無常であることが実感として理解でき、そこには確固たる自分というような、「これが自分だ」というようなものは何もない、すべては、流転している現象の一側面にすぎないということを理解できると言います。

 本当に、マインドフルネスを続けると、「自分なんていない」ということがわかるのでしょうか?

 正直、私には正確な答えは、まだ持っていません。
 もっと、マインドフルネスが洗練されてくると、もっといろいろ見えてくるものがあると思うのですが、今の時点でも、いくつか私なりに感じた事があるので、それについて書いてみます。

 確かに、SIMTを続け、生活の中にマインドフルネスを持ち込めるようになると、今まで自分の中で絶対になっていた「前提」や「理想」などが浮かび上がってきて、絶対ではなくなり、自分の意思はもっと自由だと感じるようになります。
 自分だと思っていた自分のいろいろな側面が、そのときの様々な現象や反応のただの結果にすぎないということも、すこしずつ見えるようになってきます。
 自分は、常に「こうなりたい」とか、「こうあるべし」と思って突き動かされていたものから自由になって、ストレスは少なくなってきます。
 このまま、いったら、自分には何も残らないで、ただ川の流れを眺めるように、自分という現象が移り変わっていくのを眺めるだけなのかなと思ったときもありましたが、私の今のところの実感としては、そうとも言い切れないような気がしています。
 確かに、自分の中に「前提」と呼ばれるようなものは、すこしずつ減っていきます。
 でも、それでも残るものが、あるんです。
 なんていくのか、心の内からわき出てくる「意思」というか、「志向」というか、「方向性」というか、そういうものがわかるようになってきた気がします。
 我々は、何かの判断をするとき、多くはその価値判断となる「基準」が自分の中にあります。その多くは私が「前提」と呼ばれているものです。「今までの経験から、ここではこう判断した方が得だ」とか、「こういうときは、こうするものだ」という前提が自分の中にあって、判断をしています。
 マインドフルネスの状態にあると、こういう判断の「前提」にも気がついていけるわけです。だから、自分の今の判断が、どのような「前提」による影響か、徐々にわかるようになってきます。そうすると、そういう「前提」からは、すこしずつ自由な判断ができるようになってくるわけです。

 でも、そういう「前提」を減らしていっても、やっぱりAとBであれば、私はAをとるなというような、自分の心の奥のおくから染みついているような「好み」というか、「方向性」みたいなものが、やっぱりあるような気がするんです。

 もちろん、もっとマインドフルネスが洗練されてくると、そんな「方向性」も、もっと深いところにある「前提」に左右されていたなんて事に気がつくこともあるかもしれません。

 でも、今の私のレベルではありますが、そうやって「前提」をなくしていっても、最後に残るものがあるような感じです。
そして、もしそれを「自分」と呼ぶなら、それこそが「自分」と言えるものなのかなと感じています。

 それは、赤子に例えるとわかりやすいかもしれません。

 うまれたばかりの赤ちゃんは、何も経験していません。だからこそ、すべての経験が新しく、そこには、働きうる「前提」や判断の基準となるものは、まったく無いはずです。
 そこでは、もちろん快・不快が判断の基準になったりするわけですが、でも、不思議なことに赤ちゃんにも個性があるじゃないですか。
 理由はわからないけど、うちの子はこれが好きとか、これはいやがるとか、自分の子供をみてても、それがあるような気がするんですね。
 私が、マインドフルネスを続けながら、それでも自分の中に残る「方向性」というのは、それと同じようなものの気がします。
 マインドフルネスを続けていると、「前提」がとれていって、こころが自由になり、確かに、日々の事に揺るがなくなってきます。でも、その「前提」=個性で、その「前提」がなくなれば、みんな同じような心になってしまうのかというと、そうではないと思うんです。そういった、心の垢がとれていった結果、自分自身が本来もっていた大切な大切な本当の「個性」のようなものが、残ると思います。自分が生まれ落ちた瞬間から備わっていた本性みたいなものが。

 だから、マインドフルネスを続けて、心が自由になってくると、自分にとって本当に大切なものや事が、なんとなくわかってきます。「前提」の影響を受けたりして、「損得」で判断したのか、自分の心の奥底のものが「良い」っていっているのか、それが、すこしずつ見分けられるようになってくる気がします。
 
 「目標」や「理想」が無くなっても、「怠惰」にはならないと思うんです。もっと、外からの基準によるモチベーションではなく、自分の中からの、本当に心のそこからのモチベーションに気がつくことができように思います。

 だから、マインドフルネスを続けても、別に「ある一つの理想像と一致する」という訳ではないんです。
 でも、本来の自分を知ることができるというか、収まるところに収まれる気がします。

 これこそが、本当の自由なのかなと思っています。

 まだまだ、終わりなきマインドフルネスの途上なので、今の私の見解が、今後、二転三転する可能性はありますが、それもまた、新たな発見、楽しみとして、もし、新たな気づきがあったときには、またここに記したいと思います。

 今日は、「気づき」を続けていった結果残るものという事について、自分の考えを書いてみました。

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ストレスの原因②

 
 先日は、ストレスの原因について、マインドフルネスを実践するなかで気がついたことを書いてみました。
 
 前回は、ストレスの原因についての大まかな説明と、そこにマインドフルネスがいかにして作用するのかを書いたので、今日は、ストレスの原因になってしまっている「外にゴールをおく」「目標・理想をもつこと」について、もう少し書いてみたいと思います。

 この「自分の外にゴールを置く」とか「目標や理想、前提を持ってしまう」というのは、誰でもやっている事なんです。
 そして、それは実際には止められないものです。
 ただ、それに振り回されないようになら、すこしずつなっていきます。

 前回は、「朝寝坊して、いつもの電車に間に合わなくなり、車の信号待ちでいらいらしている」という状況について話しました。
 これは、わかりやすいというか状況かと思いますが、それ以外にも、この「目標や理想、前提」といったものは、日常生活のあらゆるところに顔を出しています。

 たとえば、台所に洗い終わっていない食器が放置されているとします。
 それを見るとどういうわけか、「イライラ」したり、「気分が重くなる」します。
 ただ、「洗われていない食器がある」というだけです。
 「イライラ」した瞬間の自分を観察すると、「まったく、まだ洗ってないのか」という思考があることに気がつきました。
 でも、その思考の裏にあるのは、「この食器は、あの人(妻or夫)が洗うべきものだ」という前提があることに気が尽きます。
 「気分が重くなった」ときを観察してみると、「あー、めんどくさいな」という思考がありました。
 このときには、背後に、「自分がやらなければならない、やるはずである」という前提があったり、「本来ならもう洗い物はすませてあるべきなのに」とか、「洗い物をやるのはめんどくさいことである」といった前提があったりします。

 これが、ただレストランの調理場においてあるものならどうですか?
 
 「ふーん」で終わりですよね。

 われわれは、すべての現象に、こういった意味づけを無意識のうちにしています。

 たとえば「お父さん」とか、「お母さん」と言ったときに、どのような事を思いうかべるでしょうか?
 「みかん」とか「りんご」などといった具体的なものでさえ、私たちの頭の中に描かれる像や、抱く印象は同じではありません。

 そこに、ストレスが生まれるのと同じように、誤解が生まれる原因があります。 
 自分自身に対しての「前提」や「理想」とのギャップであれば、それはストレスになりますし、相手や周囲の事に対してのギャップであれば、それは、誤解につながります。
 自分自身に対して、「元気ならこうやれたはずだ」とか「いつもならもっと仕事がこなせてる」といった思いが強いと、そうではない自分に対して落ち込んでしまいます。
 うつのときにはこういった事が多いです。いまのつらい状況をなんとか抜け出したい。本来ならもっとできるはずだ。そういう気持ちが強いので、すこし元気になると、「もう大丈夫なはずだ」とやりすぎてしまい、まだ大丈夫ではない自分に対して落ち込んでしまいます。
 元気がでない日もあります。ましてや病気であるときなら当然です。疲れたときは疲れたときなりの生活をすればいいのですが、この前提や理想がそうはさせてくれません。

 他人に対してならどうでしょう。
 距離が近い人であればあるほど、この「理想」や「前提」が顔をだし、誤解を生みます。
 「妻」であれば、「こういう振る舞いをするべきだ」とか、「夫」であれば、「こうするのが当然だ」とか。
 肉親は最もそういったものがあるものです。
 友達でも、自分にとって親友と呼べるひと程、そういう「前提」を押しつけてしまいがいちです。
 「親友」であれば、こういうときは優しい声をかけてくれるはずだ。とか。
 
 ただ、そこに知らない男性なり、女性なりがいて、自分が話したことに反対したとしても、多少驚くかもしれませんが、怒ったりまではなかなかしないでしょう。 でも、親友や、家族がそうしたらどうですか?
 たぶん、瞬間的に怒りがわくでしょう。すごく感情が揺さぶられませんか。
 それは、距離が近い分、その「前提」や「理想」がたくさん作られているからです。そして、自分の中の幻想であるその「前提」や「理想」と現実の相手を同じものと思ってしまっているからです。

 では、この「前提」や「理想」は、どこからくるのでしょう。
 いつ、われわれの心の中に、意識の中に入り込んでいるのでしょう。

 それは、生まれてから今現在までに、その人の経験したすべてがそれを作り出しているのです。
 人は、経験することで、物事をうまく処理できるようになっていきます。
 それは、見るもの、聞くもの、感じるもの、出会った人に対して、自分の意識の中で「意味づけ」がされていくからです。
 もしも「お母さん」を「お母さん」だと認識できなかったら、会う度に「この人は誰だ?」って思わなくちゃならないですよね。
 でも、あなたには化粧をしても、年をとっても、その人がお母さんだとわかります。
  食べ物にしても、そうです。この味が、この食べ物の味だとわからなければ、僕らは生きていけません。
  「みかん」を見るだけで、僕らはその味を想像できます。感じることができます。
 これは、生きるために必要な人間にそなわった能力なんです。

 でも、その働きが、人間の意思や思考の自由を制限してしまうときがあるんですね。

 ここでの前提である「こうすべきだ」とか「こうであるはずだ」といった事が意識できていれば、まだいい方です。それはそんなに強力な「前提」や「理想」では、ありません。

 本当に強力なものは、僕らが自分で自分がわかるようになるより前から繰り返し触れてきたようなものに関しては、「べきだ」という意識すらなく、そういうものだと思っています。そして、意識にすら上ることなく、私たちの意識の中で私たちの思考を支配しています。だからこそ、より身近なこと、より身近な人に対しては、その「前提」や「理想」が働きやすいのです。

 今、書いたように、その働き自体は悪者ではありません。生きるために必要な機能ですし、誰しもが、自分の育った環境の中ではその人独自の「前提」や「理想」「仮定」といったものがあるものなのです。

 大切なのは、自分の中に、そういった「前提」や「理想」などがあって、それが、機能していることに気づくことです。
 
 見知らぬ人に対しても、この「前提」などは働いています。
 さっき例に挙げた、
  「ただ、そこに知らない男性なり、女性なりがいて、自分が話したことに反対したとしても、多少驚くかもしれませんが、

  というケースですが、このとき、なぜ自分の中に、驚きという感情が起きるのでしょう。
 それは、今までの経験で、その人にあった瞬間に、「この人なら、こういう性格だろう」とか、「こういう物言いをするはずだ」といった「前提」が、できあがっているからです。

 もし、このとき、自分にその「前提」が働いていることに気がついてないと、「うわー、こんなこという人なんだ」とか、「こういう言い方をする人はいやだ」とか、第一印象で、その人を評価して、その評価を絶対的なものだと信じてしまうかもしれません。

 でも、少なくともその「前提」に気がついていれば、その結果として生まれる瞬間的な感情(反対されて嫌な気分がしたとか)を消すことはできませんが、自分のその評価自体が、ある意味ひとりよがりで、絶対的でないことを理解できます。
 そうすると、その評価自体を横に一度おいて、その人と引き続きつきあうことができるかもしれません。

  何をいいたいかというと、こういった「前提」や「理想」は、あなたの意識のあらゆるところに作用しているんだということを、わかってもらいたいなという事です。決して、特別なケースのみに当てはまることではなくて、日常のすべての経験にこのような働きが隠れていることを知ってもらいたいなと思ったわけです。

  それを、実感として、自分の体験として、理解することができるのが、マインドフルネスのすごさだと思います。

  書きたいことは書き尽くせませんが、今日はこの辺で。

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鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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