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コントロールしようとするのではなく、マネージメントしよう

 さてさて、どうもはっきりしない天気が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 このところ抽象的な話の記事が続いてしまいましたが、今日は、もう少し実践的なことかもしれません。

 タイトルからはわかりにくいかもしれませんが、僕自身の体験から感じたマインドフルネス実践のコツです。

 ここで書かれる「コントロール」という言葉は、「自分の力で変化させよう、思い通りい動かそう」とすることで、それに対し、「マネージメント」という言葉は、「変えようとする、思い通りに動かそうとするのではなく、そちらに合わせて対処する、調整する」といった感じでとらえていただけるといいと思います。

 僕自身、うつになる前から、何かにつけて、「コントロールしよう」としていたと思います。それは、自分の感情、つまり不安や怒り、そして体調などに始まり、まわりの状況、相手の反応、などなど、そういったものを努力して、そして自分の意志でどうにか変化させよう、思い通りにしようとしていました。
 それが努力することであり、目標にむかって頑張ることだと思ってもいました。
 そして、思ったようにならないことを、「自分の意志が弱いから」「努力が足りないから」、さらに、不安に負けそうになり、弱い気持ちを消せない自分を、「自分が弱い人間だから」と思っていました。

 そうして、そうならないことばかりの中で、疲労とストレスを積み重ねてうつになってしまい、なってからも、前向きに考えられない自分を責め、思ったように動けない自分を責め、嵐のように変化する体調に対して、「なんで思い通りにならないんだ!」と怒りを感じては、さらに体調が悪化するような日々を過ごしていました。

 しかし、SIMTを実践して、マインドフルネスを続けていく中で、そういったことをコントロールしようという気持ちを手放して、それに対して自分自身をマネージメントしていければそれでいいんだという風に考えるようになりました。

 というのは、SIMTの課題の実践を通して、生じてくる様々なことをできるだけ評価せず、自分自身を観察、洞察していくうちに、そもそも、自分でコントロールできることなんていうのは、ごくごくわずかなことしかなくて、自分自身の感情や体調でさえも、コントロールできるような代物でないという事に気が付いていったからです。

 例えるなら、それは、天候に対応するのに似ています。

 天候は、日々、変化していきますよね。
 自分がお出かけしたい、ピクニックに行きたいという時でも、かならずしも晴れるわけではありません。
 雨が降ったりする日もあります。
 そんな時、雨を止めようと努力したりするでしょうか。そんなことは無駄ですよね。エネルギーばかり消費して、ずぶぬれになってひどい目に合うだけです。
 
 雨そのものをどうすることもできません。確かに残念だなという気持ちはぬぐえません。それ自体はなくすことはできません。
 でも、小雨だったら、傘をさしたり、カッパを来たりすれば、ある程度、出かけたりすることは可能ですよね。
 ちょっとお出かけなら、明日に延期したり、キャンセルしたりできるかもしれません。
 もちろん、その結果、晴れの時のようには楽しめないかもしれませんが、晴れの時には経験できない、雨の時の美しい風景を見ることができる可能性もありますし、思わぬ雨の日セールに出会うかもしれません。 
 たとえキャンセルして家にいることにしても、家で思わぬ面白いテレビを見つけたり、ふと手にとった本から生きるためのヒントを得ることだってあり得ますよね。予定外にとった休養で、身体がリフレッシュし、翌日のお出かけは、より楽しいものになるかもしれません。

 雨が降っていることを呪って、それを止めようと必死になっているより、ずっと生産的でストレスの少ない対応が可能です。

 僕が自分自身の生活において、いろいろなことを「コントロールしよう」とするのをやめたのは、こういった感じに似ています。

 周りの環境や、他人の態度や反応はもちろんのこと、自分自身の感情や気分、そして体調さえも、自分の意志でどうにかできるものではなく、こちらはそれを変えられないものとして対処して、合わせていくしかないんだと思ったからです。

 でも、天候と同じで、対処なら可能です。

 具体的に言うと、仕事で疲れているときに、「もっと頑張れるはずだ」ではなく、「これくらいの疲れがあるから、今日は、早めに切り上げよう」とか「疲れがあるから、これくらいのペースでしかすすまないのはしょうがない、無理せずやろう」とか、怒りの感情が生じたときも、「こんなところで怒ってはいけない、抑えなくては!」ではなく、「これは自分で抱えきれないほどの怒りになっているから、だれかに話して発散しよう」とか、「少しこの場を離れて、新鮮な空気をすってこよう」とか、そういった対処が可能です。

  でも、こういった対処だけでも、天候と同じように、状況や感情、気分も常に変化していくので、時間さえかければ、晴れ間がまた除くように、状況が好転し、感情が落ち着いてくるときがあるのです。

 これが、「コントロールしよう」という気持ちを手放して、「マネージメントしていこう」という事です。

 言葉でいうのは簡単ですが、これを日々の観察の中で、観察・洞察し、実感として理解していくことが大切です。
 自分の中で変えられないことは何なのか、でも、それらに対してどのような対処が可能なのかということを、理解し見つけていくことが大切だと思います。

 日々のストレスや葛藤というのは、「自分で思うようにできるはずだ、こうなるはずだ」と思ったことができなかったり、思うようにならなかったりすることから生じていきます。
 
 SIMTの実践開始時は、ついついマインドフルネスをしていれば、自分の体調を自分の意志で改善させることができるとか、マインドフルネスを身に着けることは、自分の感情を思うように制御できると思ってしまいがちです。

 でも、僕の経験では、自分の感情や体調などをコントロールできないということを理解して、それに合わせて対処していけるようになることが、マインドフルネスなのかなと思います。
 コントロールできないといっても、そこで諦めてしまうのではなく、その状況、例えていうなら、雲の流れや雨の強さなど、天候の変化を注意深く観察していきながら、その状況に合わせ、カッパや傘で出かけられるのか、雨天決行できるのか、それとも少し延期にするか、キャンセルして自宅にいたほうがいいのか、そういったことを常に変化していく状況に応じて判断していけることがマインドフルネスな状態かなと思います。

 こう書いている僕自身も、今日のブログは、一度書き終わりそうなところでブラウザが停止し、すべて消えてしまいました。
 その瞬間は、がくんと落ち込み、とてもすぐに再開して書く気にはなれなかったので、しばらくPCの前を離れ、ほかのことをしていました。気分も落ち込んだし、「途中で一度でいいから保存しておけばよかった」などの思考がうずまきますが、今起こってしまった状況は今更変えられないし、さらには、ブラウザが停止することを前もって止められるわけでもありません。不可抗力なわけです。
 そこは、「自分の力で変化させられたことではなく、今日はそういう日だった」「その時書いたブログは消える運命だった」と手放して、しばらく自分の感情が落ち着くまで、ほかのことをして過ごしました。
 その結果、またこうやって書き始めることができました。
 
 こうやって書くと、なんでも不可抗力ということで、努力なんてしなくなってしまう気がしますが、僕の場合、「こうしなければ」とか、「自分はこうするんだ!」という気持ちを手放すことで、逆に力みが抜けて、仕事にしてもこういった趣味にしても、継続的に行っていくことができるようになり、結果的にパフォーマンスは上がっている気がします。
 前は、すごく頑張ろうという気持ちがありましたが、それがかえって邪魔して、やる気が出なくなってしまったり、手を付けられなかったり、様々な葛藤を逆に抱えてしまっていたように思います。

 もしかしてお気づきの方もいるかもしれませんが、そういった部分で、「コントロールをしようとせず、マネージメントに徹していく」というのは、前々回ブログに書いた「価値や願いを一度手放す」ということにも通じているんですね。

 ではでは、そうは言っても、最初に書いた文章の方がうまく書けているのではないかという思考は頭をよぎりますが(笑)
 その気持ちも自然なこととして、今日の文章を自分でも味わいたいと思います。

 今日も独りよがりな文章になっているかもしれませんが、少しでも参考になることがあったなら、本当にそれは僕の喜びです。
 
 では、今日はこの辺で。また書きたいと思います。

時間は実在するのか?(未来や過去なんて本当にあるの?)


 今日も、ちょっと意味不明なタイトルで書き始めてみたいと思います。
 最近の内容は、直接、マインドフルネスとは関係のないことのようにも思えるかもしれませんが、僕にとっては、マインドフルネスという状態を、きちんと実感、理解していく上では大切かなーと思っていることなので、懲りずに今日も書かせてください。

 前回で、価値や願いを一度捨ててみようというような記事を書いてきました。
 
 今日は、さらに踏み込んで、未来や過去なんて本当にあるの?という事を書いてみようと思います。

 というのも、未来や過去を考えることが絶対的に悪いことだとか、今という時間を刹那的に好きなように生きればいいんだということではなくて、「未来」「過去」そして「時間」という既成概念にとらわれてしまっている場合は、そこから自由になりましょうというお話です。

 僕らは普段の生活の中でも、これら「過去」「未来」「昨日」「明日」など、「時間」という概念を使って生活をしています。
 この概念があるからこそ、カレンダーを使って先々の予定を立てたり、以前のことを振り返って、今日、新たな作業に取り組めるわけです。
 でも、それができるからこそ、「あの時、あんなことをしなかったら」とか、「あの人にあの時にこんな仕打ちを受けたから、今の私はこんな風になっているんだ」という風に、過去を悔んだり、「このままいったら、私の将来はどうなってしまうんんだろう」とか「来週に入っているあの仕事の時に、こんな失敗をしたらどうしよう」など、未来について不安を抱いたりしてしまうことがあります。

 この時、「未来」というのは、「今」ここに存在しているわけではないし、自分の意識が、様々な情報を元に、「今、ここで」、作り出しているただの概念的な想像物であることは、わかっていただけると思います。
 確かに、様々な情報を元にして推測したことであれば、かなり正しいことのように思えるかもしれません。でも、それは、あくまで「今、ここ」の自分が、勝手に作り出した概念ですから、決して、「真実」や「事実」とは違うわけです。
 東日本大震災が起こった日も、あの地震の直前まで、いろいろな人が、いろいろな未来を想像したり、無意識に考えたりして生活していたと思います。でも、その直後に、あれだけの自身や津波がくるなんて想像ができていた人は、ほぼ皆無なんじゃないでしょうか。

 「今、ここ」で、どんな未来を想像したとしても、それは、「今、ここ」の自分自身が勝手に作り出した想像の産物にすぎません。
 なので、「今、ここ」の状況が変化していけば、この未来像も、どんどん変化していってしまいます。
 
 だから、そんな勝手な想像を「確かな事実」と無意識に信じ込んで、あれこれ思い悩むのは、無意味であることを頭で理解するのは、そう難しいことではないと思います。

 SIMTの実践をして、マインドフルネスを身に着けていくとき、決して未来のことを考えない、というわけではありませんが、この「今の自分が無意識に想像してしまう未来」というのに関しては、それが生じたときには、「思考」「想像」と名前を付けて、そこで止めるように訓練していきます。そして、「今、ここ」の状況、感覚、などに意識を戻していきます。
  さらに、実践が進むと、そのような「思考」「想像」が生まれた背景にある自分の本音や価値観に焦点をあてたりしていきますが、それは、一瞬のことです。

 自分の勝手な想像の中で、あれやこれや不安や妄想を膨らませていくより、「今、ここ」の状況や、「今、ここ」でできることに意識をむけていくわけです。 
 なぜなら、「今、ここ」の状況のみが、その「未来」を作っており、実際の「未来」を変えていく方法だからです。
 しかし、その未来が現実にやってくるときには、それは、その時の「今、ここ」になっているわけです。
 だから、常に意識を「今、ここ」に焦点をあてて、「今、ここ」の課題に取り組んでいくわけですね。

 では、過去はどうでしょう。

 過去とは、「記憶」です。

 過去に起こったことは、変えようのない事実で、それは「今、ここ」でどうしようとも、もう変わらない普遍的なものだと考えてしまいがちですよね。

 でも、違うんです。「過去」というのも、やはり「今、ここ」の自分の状態や状況によって、どんどん姿を変えていくんです。

 先ほど、過去はつまり「記憶」だよ、と書きましたが、皆さんんは、自分の記憶にどれくらいの自信をお持ちでしょうか。
 実は、人間の記憶ほどあやふやなものはありません。
  
  それを証明する様々な心理学上のエビデンスはあると思いますが、ひとつに、TEDで行われた「The fiction of memory」というプレゼンを見ていただくとその一端を知ることができるかもしれません。

 そこでは、車の自己をみて、それを記憶し、その状況対して質問に答えるという課題があったかと思います。
 その時、質問の仕方を、「車が衝突したとき」として聞くのか、「車が激突したとき」と前ふりして聞くのかでは、聞かれた人が答えるスピードの速さが、有意に変化してしまうというものだったと思います。
 
 みんなが同じ映像をみて、それも「しっかりと記憶してください」という前提のもとで覚えたものでも、「今、ここ」の質問の仕方一つで、簡単に内容に変化がみられてしまうわけです。
 
 さらには、このような質問に誘導された本人は、その誘導にはまったく気が付きません。

 そのようにして、目撃証言というような裁判の証拠として使われるようなことでも、簡単に誘導や記憶の改変が行えてしまうわけです。そうして冤罪が作られてしまうわけですね。

 そうじゃなくっても、過去のつらい体験も、「今、ここ」の状況が自分に肯定的に感じられる状況であれば、人は、「あの時があったからこそ、今の自分がある」などとかたります。しかし、「今、ここ」の状況が自分にとってつらいものだと、「あの時、あんなことがなければ」と人は語りたがります。

 確かに、「過去」というものは、僕らが「今、ここ」に生きている以上、確かにあったものかもしれません。
 でも、我々の意識というのは、その「過去」を完全に再現したり、自分の意識の中に「記憶」としてとどめて置けるわけではなく、そのごく一部しか、とらえておくことはできないわけです。
 さらに、その一部も、プリントした写真のように変化しない決まったシーンをとどめておけるのではなく、水の上に浮かべられた絵具の模様のように、どんどん変化する曖昧なものです。

 だから、「過去」というものが実在するわけではなく、「今、ここ」の自分の意識の中に、その「過去」の残さ、すでに原型をとどめていないカスのようなものが、漂っているだけなわけです。

 そうすると、ここでも、「未来」について書いたときと同じように、そんなあやふやな「カス」みないたものを、絶対的な事実として、いつまでも、繰り返し思い出して、考え続けることは、あまり意味のないことだというのがわかるかと思います。
 もう、使い古してボロボロになり字さえ見えないような地図をもちながら、その地図だけをもって、道路を歩いているようなものです。そんなものを見続けるより、「今、ここ」の状況で、落とし穴はないか、危険な車は迫っていないか、まわりをしっかり見なくちゃなりません。
  
 だから、SIMTでは、「過去」に対しての扱い方も、さきほどの「未来」の時と同様です。

 繰り返し、無意識に自分の意識の中に過去の記憶がよみがえって来たりする時も、それに気づき次第、「記憶」とか「映像」とか名前をつけて、そこで中断し、「今、ここ」に意識を戻していきます。
 なぜなら、自分が「過去」と思っているその映像を作り出しているのは、「今、ここ」の自分だからです。「今、ここ」の自分と向き合い、できることをやっていくことで、結果的に、「過去」と思っている自分の記憶、そしてその意味が、変化していってしまうからです。

 以上のような感じで、僕は、「過去」や「未来」というのが、事実ではなくて、「今、ここ」の自分が作り出したものだというのが少しお分かりいただけるかと思います。

 そうやって考えると、「時間」ってなんでしょう?

 僕らは、普段、「時間」という概念を使って、生活しています。
 1時間は、60分で、1分は、60秒で、それは変わることなく、世界を支配しているルールのように思えます。
 そして、過去から未来に向かって、時間はだれにとっても平等に流れているように感じています。

 でも、同時に、同じ1時間や1分であろうとも、それは、すべての人に同じような意味を持つものではないことは、だれもが実感できるところだと思います。
 好きな人と一緒にいるときの1時間はあっという間なのに、嫌いな先生のつまらない授業を受けているときの1時間は、永遠に続くのではないかと思うほど長く感じたりします。
 そんな経験はだれもがお持ちではないでしょうか。

 なぜなら、「時間」というもののもつ価値や意味も、「今、ここ」の自分の状況や価値によっていくらでも変化してしまうものだからです。

 アインシュタインがいうまでもなく、時間は「絶対的なもの」ではなく、「相対的なもの」なんですね。

 それは、まるで、「国境」や「お金」のようなものかもしれません。

 確かに「国境」や「お金」という概念は、僕らが生活していく上では便利なものです。

 しかし、地球のどこを眺めても、「国境」という名の絶対的な線は存在しないわけです。僕らが勝手に決めて、フェンスを立ててみたり、検問を設けたりしています。「~人」といのも、勝手に人間が作り出した概念にすぎません。

 お金だってそうです。1万円札そのものには、1万円の価値はまったくありません。あれは、あの紙幣を国が保証して、その価値を認めているからこそ、みんなその1万円札をほしがるわけですが、その前提は絶対的なものではありませんから、国が崩れてしまえば、紙幣なんて、なんの意味もないものになってしまいます。
 日本にいると、ついつい忘れてしまいそうですが、そういう視点で、1万円札の束をもってニコニコしている姿は、滑稽に見えるかもしれません。それでも、ぼくらは、その1万年札に1万円の価値があると思って、ときに殺人さえ起こったりしてしまうわけです。

 「時間」というのも、そのようなものの一つだと思います。もう、無意識に絶対的なものだと思いがちですが、時計のない時代から、この世や続いているわけです。
 そんな時代も、みんな生きていたわけです。との時は、「今」という時間しかありません。
 その「今」をどう生きるかということに集中していたはずです。
 そういう視点で言うと、「過去」も「未来」も、「今、ここ」の自分が作り出した妄想なんですね。

 僕らには、常に「今、ここ」という時間のみが存在しています。

 だからこそ、意識の焦点を「今、ここ」に合わせて、生きていきましょう。

 今日は、「過去」「未来」ということから、絶対的な「時間」というものはあるのか?という事について書いてみました。

 マインドフルネスの実践において、「今、ここ」に焦点をあてる理由みたいなのが、よく理解できるかなと思って書いてみました。
 だからこそ、マインドフルネスでは、問題を解決していくのに、原因とか結果とかにはあまりこだわらず、「今、ここ」に焦点を当てていくのではないかなーと思ったわけです。

 しばらくちょっと抽象的なお話が続いていますが、少しでも参考になったなーと思ってくれる方がいたら幸いです。

 ではでは、今日はこの辺で。
 また、時間のある時に書きたいと思います。

 最後まで読んでいただいてありがとうございました! 

※ あくまで「過去」の記憶や「未来」の不安などが悪いといっているわけではありませし、その記憶は嘘だとか間違いだとか言っているわけではありません。
  そういったものは、無意識にぼくらの意識に浮かんできますし、繰り返しでてくるそれらを完全に抑え込むことは不可能でし、抑え込もうとすれば、逆にとらわれます。
  しかし、それらを無意識に「事実」だと思い込んしまって、とらわれていることに「気づく」のが大切なのではないかということを提案したいだけです。

 自分の記憶や思い出を呼び起こしたり、それをついつい考えてしまうことを、悪いことだと自分を責める方向に行ってしまわないように、念のため、追記させていただきました。
 

意志的判断と意志的行動


 今日は、前回書いたブログの中で出てきた「意志的判断」、「意志的行動」について書いてみようと思います。

 そもそも、自己洞察瞑想法(SIMT)では、うつやパニック障害、不安障害を改善させるために、「意志的自己」を機能的に働かせることをトレーニングします。
 SIMT自体は、うつや不安障害が改善し、日常の生活や仕事が問題なくできるようになってからも、実践を続けることで、さらに深い自己(叡智的自己や人格的自己)を探求していくことができます。

 そんな深いレベルの自己を知りたい方は、詳しくは大田先生の書いている青い本「マインドフルネス入門 不安、ストレスが消える心の鍛え方」をご覧ください。
 といっても、読んだだけで理解できる人なんていないとおもいますが。。。。。。(笑)

  そういった深いレベルの自己の探究は、まさに一生をかけての課題になってくるので、まずうつや不安障害を克服し、改善するために、SIMTのセッションの中では「意志的自己」のトレーニングをしていくことが優先されています。
  そして、この「意志的自己を機能させる」という部分が、SIMTの特徴となっています。
 特に、一般的にマインドフルネスというと、「ありのままの注意」「今ここを偏見なく観察する」といった見る局面が協調されています。
 例:日本マインドフルネスにおける定義
 「“今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること” と定義する。
なお、“観る”は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、さらにそれらによって生じる心の働きをも観る、という意味である。」


 このように対象が感覚だとしても、主に「観る」局面が強調されています。

 しかし、SIMTでは、意志的自己の使い方の中でも、洞察による観る局面だけでなく、そこからさらに「意志的判断」を行い「意志的行動」をとっていくことが協調されており、それが、SIMTの特徴となっています。 

 この「意志的自己」を鍛えるといっても、一般に言われているところの「意志を鍛える」ということとはちょっと違うと僕は思っています。
 一般的に「意志を鍛える」というと、困難にも負けないように意志を貫ける強さを持つ!とか、いやなことでも負けない自分を作る!のように、鋼のような強さをもつようなイメージを持つことが多いと思います。
 しかし、「意志的自己を機能させる」というのは、そのような自分の中の葛藤と戦って勝つような類のものではなく、そういった葛藤と上手に付き合いながらも、自分の生きたい生き方を選らんでいけるような状態です。
 前者が、鋼の強さだとしたら、後者は風にゆらぐ竹や柳のような強さとでも例えられるでしょうか。

 いつものように前置きが長くなりましたが、そんな「意志的判断」と「意志的行動」とはどういうことかということについて書いていきたいと思います。

 前回書きましたが、例えば、呼吸法や瞑想をやる気が出ないとき、課題の実践をやる気が出ないとき、ありますよね。
 
  「やる気がでない」 → 「こんな自分はダメだ」「これじゃ良い瞑想ができそうもない」 → 「実践をやらない」

 やる気が出ないときがあるのはしょうがないですが、
 この  「こんな自分はダメだ」「これじゃ良い瞑想ができそうもない」  というのは 衝動的・独善的な評価・判断

 その結果、 「実践をやらない」 というのは、 衝動的・独善的な行動

 ということになります。

 こういったときに、僕は今まで、この「観る局面」を大切にすることを強調してきました。すぐに決めつけないで、まずはよく見ましょう、観察しましょうということです。

「やる気がない」と思ったときは、その「やる気がない」という感覚を、どこでどのように感じているのか、例えば、身体が重い感じがするのか、頭がぼーっとするのか、などを観察してみようとお勧めしていました。
 また、その時に、どんな感情があるのか、どんな気分が、どのくらいの強さであるのか、その時に、どんな思考が繰り返されているのか、そういったことを観察していけば、それはもう課題の洞察と同じことだよ、と書いていました。

 だから、やる気のない自分を責めなくていいのだよ。やる気がなくても、そんな自分を観察していけば、それで洞察は十分なんだよと考えていたんです。そうしたら、自然と次につながっていくのではないか。そう思っていました。
 こうした意志の使い方をすれば、初期の意志作用としては十分なんじゃないかと考えたんです。

 今でもこの部分について、大きな変化はありません。すぐに衝動的な反応をせずに、たとえしたとしても、まずは「観る局面」を大事にしていくことは、すごく重要なことだと思います。

  実は、こういったことを文章にして、先日、養成講座の講習会の時に、大田先生にお伝えしてみたんですね。
 そうしたら、意志作用には、「判断・評価する局面」「行動する局面」が含まれていなければならず、それがSIMTの大事な要素であるということを、ズバッといわれてしまいました。だから、「観る局面」だけではダメだよと。
 
 そこで、僕なりにいろいろ考えまして、大田先生に言われたことを噛みしめて、自分の体験の中で自分なりの意味をつかむために、しばらく熟成させていました。

 そこで僕なりに答えを出してみたのですが、結果、やはり大田先生のいう事はさすがだなーと思いました。あたりまえですが。。。

 大田先生にそう言われてみると、僕が「観る局面」だけでも十分じゃないかと考えていたときに、すでに、無意識に、その中に「評価・判断する局面」「行動する局面」も含めて考えていたように思いました。
 上記の、やる気がないときでも、「今、衝動的な評価をして、自分を責めた!」と気づき、そう判断するためには、意識的に、その状況を洞察し、判断しなければなりません。そして、衝動的な行動に走るのではなく、「では、今のやる気のなさとはどんな状況だろう」と「観る」という作用を、自分自身に向けようとするのは、ある意味、「意志的行動」と言えると思ったからです。

 そういう意味で、「自分をよく観ていこう」と決断し、行動することには、すでに「意志的判断」「意志的行動」の要素が含まれているといえます。

 さらに、僕は、この「観る局面」というある意味「意志的行動」をしていけば、結果として、自然と改善・マインドフルネスの上達への道が開かれるのではないか、と思っていたのですが、よくよく考えて、普段の自分の行動を観察していくと、やはりそうではないということにも気が付きました。

 例えば、やる気がないとき、「今日は、やる気がでないな」「疲れがたまっているな」と意志的に判断し、「今日は休んで実践をやらないでおこう」と決断し、実践を休むという「意志的行動」をしたとします。
 これが、今日の判断であれば、間違っているとは言えません。
 しかし、毎回、毎回、「今日は、やる気が出ない日だな」「だから今日も休もう」と、やっていたのでは、やはり絶対にマインドフルネスは上達していかないし、現状も変わってはいきません。
 厳密にいうと、こういった状況では、「今日は、やる気が出ない日だな」といったときに、その観察だけで終わってしまっていては、自分をよく観察できているようで、十分には観察できていないのですよね。
 自分の過去の経験から、「やる気が出ない日」という事にひとくくりにしてしまい、今日のやる気のなさはどのような状況か、どんな感覚なのか、ということを細かくみる視点がなくなってしまっています。

 さらに、そこで、一度は、観察した今日の状態を基に、「では、そんな自分で今日できることはないか」「改善を目指すために、今、必要なことは一体何か」という事を、真摯に探ってみなくてはいけません。そして、少しでもいいから、できることがあれば、それを続けていく、という意志的行動が大切になります。
 「やる気がでない」というものを何とか出るように変化させようというわけではなく、それを観察した上で、「じゃあ、今できる実践はなにかな」ということを判断し、行動に移していくということです。
 
 この過程を隔てた上で、自分が「今日は、疲れがピークの状態なので(意志的洞察)、まず体を休めるのが最善だと判断し(意志的判断)、ゆっくり休む。(意志的行動)」という選択になるのであれば、それは問題ないと思います。
 
 しかし、安易に「やる気がでない」「疲れてるから今日はやめよう」となってしまうと、一見、よく観察し行動したように見えますが、これはもう衝動的な判断、行動になってしまっていますよね。

 人間には、経験を積み重ねていくと、そこから一定した法則を見つけ出して、考えたりせずに瞬間的に判断できるようしていくような傾向があると思います。これは本能であり、自然の中で人間が情報を効率よく判断するために培ってきたシステムだと思います。
 それは、人間が生きていくために必要な能力です。
 しかし、それが無意識に行なわれていると、非機能的な反応に終始し、いつまでたっても症状が改善してこなかかったり、対人関係をこじらせてばかりになったりと、悪循環から抜け出すことはできません。
 
 そこに、意志の機能を働かせ、その局面に光をあて、自分の中のパターンに気づき、新たな選択肢を見つけていくことができるのが、マインドフルネスです。

 そのためには、まず「観る局面」で、今ここの自分自身の状態をよく観察し、そのうえで、むやみに、その良し悪しを評価して、自分を責めたり、その状態を無理に変化させようとするのではなく、今、必要なこと、できることを、その瞬間瞬間、判断し、実行していくことが大切です。そして、その結果をさらに観察し、判断し、実行していく。この繰り返しこそが、改善へのカギじゃないかと思っています。

 症状、苦しい感情、やる気のなさ、そういったものと戦わないけども、それらの言いなりにはならない。

 以前からブログで繰り返し、その違いを表現したいと思って書いているのですが、うまく表現できているでしょうか。
 これは、これから先も、ずっと僕の中でのテーマだと思います。

  つらいとき、苦しいときは、休んだっていいんです。でも、とにかく諦めないで、できる洞察、課題を実践していくことが大切です。
基本的な呼吸法、傾注観察、日常生活の中で、「思考してないかな」「感情が動いたかな」というチェックでいいんです。
 そういった基本的なことを、とにかく少しでもいいから日々続けていくことが大切だと思います。

 今日は、意志機能の中に含まれる「意志的判断」「意志的行動」について書いてみました。

 なかなかうまく伝えることが難しい内容なのですが、少しでも参考になったなと思えるところがあったら幸いです。
 今日も長文を読んでくださってありがとうございました。
 また、少しずつ更新していこうと思うので、お時間のあるときにお寄りください。

 ではでは今日はこの辺で。

やるきのないときは。


 今日は、題名の通り、やるきのないときのお話なのですが、実は、この3月下旬から4月上旬にかけて、今までにないくらい、マインドフルネスに対する熱意というか、やる気というのがかなり落ちてしまっていました。

 といっても、抵抗感とかやりたくないというわけではないのですが、なかなかマインドフルネスに取り組もうとか、もっと勉強しようという風に思えない状態であったわけです。

 こういう波は、今までにもあったのですが、今回の波はいままでの中では最大の波だったような気がします。
 おかげさまで、このところ、少しずつやる気も改善してきている印象があり、このようにブログにも取り組める気持ちになってきました。

 今回の原因というか、やる気がなくなっていた原因はいくつか心あたりがあります。

 ひとつは、昨年1年くらいかけて受講してきたSIMTの養成講座が3月の中頃に終わったこと、同時に、講座と並行して自分なりにまとめていた文章を、3月上旬に書き上げることができたこと。
 このことは結構自分の中で大きな出来事で、ある種の達成感が出てしまい(本当は、これからが本番といった感じなのですが)、軽い燃え尽き症候群になっていたような感じがあります。
 それに加え、3月下旬に、久しぶりの発熱を伴う咳風邪をひいて寝込んだこと。これでかなり体力を削られました。
 さらに、そんな中で子供たちが春休みということもあり、春の行楽予定がいくつかあったこと、などから、疲労がかなり蓄積していたように思います。

 そして、4月に入り、一向にやる気がでてこない状態が続いていました。

 そこで自分が対応した方法というか、どういう経過でどんなふうに考えていたかを書いてみたいと思います。

 さすがに4月に入っても、一向にやる気がわかず、いつもより回復に時間がかかっていたときは、「せっかくこれから活動の幅を広げるために昨年度1年勉強してきたのに、このままやる気がでなかったらどうしようかな、まずいなー」という思考が走ったりしていました。特に、まとめなきゃならない資料があったり、読もうと思って買ってるマインドフルネスの本を前にして、一向にやる気が起きないときは、上記のような思考が走るわけです。そして、「このままやる気がでなかったらどうしよう(不安)」という妄想や感情が起こり、「やる気がしないなんて俺ってダメだな」というのが、自分自身に対する衝動的な評価が起こったりしました。

 ただ、ここで、今までのSIMTの実践のおかげで、こういった気持ちがありつつも、それを膨らませるような方向にはいかないようにすることができました。具体的には、こういう思いが浮かんだりしても、「それは自分が勝手に作り出している思考、評価だ」と判断すると同時に、「確かにやる気はないが、それを意志の力で起こさせることはできない」とも理解し、「もし、このままやる気がでなくても、それはその時。今は、できることを続けよう」と判断して、呼吸法と瞑想、日記などは続けていくようにしていました。
 というのも、今までの経験上、このような時に、新しい作業や勉強をしても、疲れが余計たまるだけだし、効率も悪いということがわかっていて、しかし、だからといって、「俺はもうマインドフルネスが嫌いになったんだ」と決めつけてやめてしまうのは、衝動的行動だとわかっていたので、「今まで続けてきたできることをやれる範囲でやる」という判断に結び付いたわけです。

 鎌田先生の本のタイトルにもなっている、「がんばらない、でも、あきらめない」という感覚ですね。

 とはいっても、最初から上記の過程がすべてできていたわけではなく、やる気ゼロの状態にどっぷりの4月上旬の時には、不安な感情や思考の方が多くあったように思います。それを呼吸法などでしのいでいくうちに、「じたばたしてもしょうがいないから、なるようになればいい。できることをやっていいこう」という風な気持ちも生まれてきて、そうしているうちに、まず体の疲れが少しづつ取れてきて、「今は、身体を休めつつ、できることをやっていけばいいんだな」と方向性に自信がわいてきたといった感じです。

 一般的に、マインドフルネスとして行われているものでは、「ありのままに見る、独善を排してみる」というように、「見る局面」が協調されがちです。確かにこれは、スタートとしてすごく重用なことです。見る局面ですでに独善がたくさん入ってきてしまうと、そのあとの判断、行動もそれにより偏ってしまいます。
 しかし、SIMTでは、見る局面だけでなく、その後に、「独善を排して判断し、行動する」という「判断する局面」「行動する局面」というのが、強調されており、それがSIMTの特色にもなっています。

 これはどういうことかというと、例えば僕の上記の過程でいうと、「今の自分は、講座を終え、風邪や旅行で体力が落ちていて、やる気がなくなっている状態なんだな」と確認するのが見る局面だと思います。
 この時に、習慣的に行われている「こんなんじゃダメだ」とか「このままだったらどうしよう」という習慣的、衝動的な評価や反応も生じてきます。これは止められません。でも、それを横に置いて、今の状態をできるだけ客観的に見つめるというのが、「見る局面」です。これはこれですごく大切なことです。
 しかし、これだけで止まってしまっていては、マインドフルネスを続けることが難しくなってしまいます。
 そこで、「『こんなんじゃダメだ』とか『このままだったらどうしよう』というのは、一時的に生じる衝動的反応であり、膨らませる必要はない、しかし、今の体調だとある程度の休みが必要である。』というのは、できるだけ独善を排した「見る局面」に基づいた「意志的判断」であり、さらに「こういう時には、無理に新しいことをせず、今までやってきたことを地道に続けよう」というのも、意志的判断だと思います。そして、「なるべく夜更かしせずに寝るようにして休息をとり、朝夕の基本的な瞑想と日記は最低限続ける」という行動が意志的な行動ということになります。
 この時に、「やる気が生まれないから、もう実践はやめちゃおう」と衝動的な行動を続けていては、たとえ、見る局面ができていたとしても、マインドフルネスの実践を妨げることになってしまいます。見る局面で得られた情報を基に、判断し、衝動的な行動ではなく、意志的な行動をとっていくことが大切です。

 意志的な行動といっても、やる気のない状態のときにやる気を出させることができるわけではないです。
 無理に新しいことを始めようと、身体や心に鞭打って行動することでもありません。
  しかし、見る局面で得られた情報を、できるだけ客観的に判断し、休みがどの程度必要なのか、そしてその休みを得るためには何ができるのか(早寝するとか外食は控えるとか)、その一方で、では何が続けられるのかということを判断し、行っていくのが意志的判断であり、意志的行動だと思います。

 ついつい、僕らは1か10か、白か黒かで考えがちです。しかし、現実の状況は、常にグラデーションです。休む割合と実践する割合も、10:0ではありません。そこを7:3でいいのか6:4でいいのか、それを判断し、実行し、そしてさらに観察し、判断し、調整して実行する。その繰り返しが、SIMTであり、マインドフルネスを実践していくということなのかなと思います。

 この「意志的行動」というのは、決して、自分の葛藤や感情、体調の波と戦うことではなく、今の自分に必要なこと、できること選択していくだけのことなのだという感覚を、実感をともなって理解する、つかむことはなかなか難しいのですが、その感覚がわかるようになると、すごく実践が楽になります。
 たとえ、その感覚がわからなくても、「意志的行動」が決して、自分と戦うことではない、と知っておくことがすごく大切なことのように思います。

 頑張った後には、かならずやる気や体調が落ちるときがあります。これは寄せた波が引いていくように、自然の摂理です。しかし、その波を知り、その波と合わせて生きていく方法があります。焦らずに地道にやっていけばいいと思うのです。

 調子が悪いときも、それが100%にならず、どこかで「そんなときがあってもいい」と、自分の中に様々な感情や気持ちを同時においておけるようになったのは、本当にマインドフルネスのおかげだなーと思います。
 その結果、僕は以前に比べると少し「強い人」になれているのかなーと感じます。

 今日は、自分がこの1か月ほどで体験したやる気のない状況を踏まえ、それに対してマインドフルネス的にどう対応していたのかということを書いてみました。誰でも経験することで、意外と不安になったり、その波の中でもまれて苦しくなっている人が多いんじゃないかなと思い(過去の自分がそうだったので)、今回は参考までに書いてみました。

 本日も長文にお付き合いありがとうございました。少しでも共感していただける部分があれば幸いです。
 更新が最近遅れ気味ですが、よかったらまた立ち寄ってください。ではでは今日はこの辺で。

言葉と記憶による制限(進化の代償)

 
 今日は、人間が進化の過程で手に入れてきた能力で、逆に制限されてしまっているということについて、僕なりの考えを書いてみたいと思います。

 人間が、動物と比べ、飛躍的に発展できた一つの理由として、「知性」を手に入れたということが言えると思います。
 では、知性とは何かという事なのですが、「我おもう故に我あり」とは言ったもので、考えることができるようになったという事だと思います。

 では、「考える」上で、非常に大切になるのは何かというと、やはり「言葉」というものが大きいと思います。

 「言葉」というものができるまでは、人に自分の考えを伝えるときにも、物を介さないとできなかったわけです。
 例えば、「熊」ということを伝えたくても、熊そのものがないと伝えられないわけですよね。
 おそらく、そこから、絵をかいたりする中で、それが単純化され、音と結びついて言葉、言語として発展していったのかもしれません。
 その辺の文字や言語の発達については、詳しくないので、あくまで予測の話ですが。

 ただ、言葉をつかえるようになったことで、例えば抽象的な概念、「友情」とか「愛」とか「苦しみ」なんてことも、言葉を使って、人に表現することや、自分の中で思索をめぐらせることができるようになったわけです。

 そして、もう一つ、「記憶」という重要な能力があります。
 これ自体、言語を用いなくても、映像や感覚そのものとしての記憶もあるので、「言葉」とは別の能力かなと思ったのですが、この「記憶」の能力ができたことで、僕らは、危険を予測して回避することができるようになったわけですうね。
 「過去にこういう状況で獣に襲われた」という記憶があるから、同じような状況では、早めに対処することができるわけです。

 この二つは、人類の進化にとって、かけがえのない能力であり、今の大切な能力ではありますが、この能力が高まりすぎて、身近になりすぎて、逆にその能力に縛られて苦しむようなことが起こってきてしまいます。

 というのは、「言葉」はデジタルであり、現実そのものではありませんし、「記憶」ももちろん現実そのものではなく、バーチャルなものなんですね。ただ、それをついつい我々は実体のあるものと勘違いしてしまうんですね。

 例えば、「茶色」という色があったとします。このこの言葉があるから、僕らは、目の前に「茶色」の色がなくても、相手にこの色のことを伝えることができます。
 しかし、「茶色」という色は、現実には、無現にあるはずですよね。明るさ、濃さ、黄色っぽい、赤っぽいなどの色味など、僕らが日常でであう「茶色」は、千差万別で、決してひとつとして同じ色はありません。でも、それをいったら僕が伝えたい「茶色」は永遠に、正確には人に伝えられません。100%同じ色はないのですから。でも、自分の中では、「茶色」という言葉を付け、ある種の色味のものが、「茶色」という言葉と定義づけされて、自分の中に記憶として蓄積されています。それを私自身は「茶色」と名付けているわけです。もちろん、細分化すれば「こげ茶」とか「薄茶」とか、さらなる細分化はできますが、それが「言葉」である以上、現実にある色そのものではなく、そんな茶色たちの様々な違いを切り落とし、同じ「茶色」という言葉の枠組みに入れてしまっているわけです。そして、その枠組みに入ってしまった瞬間に、意識の中では同じ「茶色」というものとして、扱われてしまいます。
 ここに、現実と「言葉」「記憶」に大きな隔たりができるわけです。
 これは、音楽を、細かく切り刻み、デジタル情報として録音している今の技術と基本的には同じです。
 そのほうが、加工したり伝えたりするのには便利ですし、必要なデータスペースも少なくて済むからです。省エネですね。

 実際、このようにデジタルである言葉を駆使したからこそ、人間は複雑なこと、抽象的なことも思考をめぐらせ、考えを深められるようになったわけです。

 ですが、「言葉」に変換されてしまった瞬間、現実そのものから、とても多くの情報が失われていることに気を付けなければなりません。

  例えば、朝、食卓にのぼったパンを見ます。「その瞬間に、あー今日もパンかー」と思ったとします。
 その人の目には、今日そのときの「パン」が映ったはずです。しかし、それが意識された瞬間、それは、「パン」という言語情報に変更されます。そして、その瞬間、以前にパンを食べたときの「記憶」が思い起こされ、今みたパンから、「記憶」の中のパンと情報がすり替わり、意識には、もう、「過去の経験から蓄積された自分の中の情報にあるパン」にすり替わってしまいます。

 この過程は瞬間的に起こっているため、ほとんど意識はされません。

 もしかしたら、今日見たパンは味が違うかもしれません。実はパンのように見える作り物かもしれません。
 我々は、毎日、現実を見ているはずなのです。でも、意識がそれを許しません。
 現実を見ているつもりで、言葉や記憶によって作られた映写機から投影された映像を見ながらそれが本物だと思って生活しているようなものです。

 パニック障害なので、不安がよみがえったり、フラッシュバックなどはその典型的な例ですね。
 些細なきっかけから、それが意識された途端、過去の記憶や感情、感覚が一気によみがえり、現実に起こっていることは些細なことなのに、意識の中では、過去に起こった不安の発作や記憶、感情・感覚そのものが、まるで「今、ここ」で起こっているかのようによみがえってしまいます。

 人間関係においても、そうです。「また、この人、こんなこと言って」と、いつものように受け取ってしまいますが、その言葉は、もしかして、「今、ここ」にしかない重要な表現を含んでいるかもしれません。以前、聞いた言葉と、今聞いた言葉は、果たして同じものかはわかりません。でも、ついつい僕らは、自分の解釈、自分の中で自動で行われた変換の結果を、「今ここ」にあてはめようとしてしまいます。

 これは、人間が進化する中で獲得してきた能力ですので、それ自体が悪いものではないですし、それを止められるものではありません。 「あいうえお」という文字を、ただの図形として眺めろと言われても、日本人で文字を学んだひとではそれは不可能ですよね。

 でも、それ自体は止められなくても、こういった変換が行われ、ついつい「今、ここ」の現実を見逃してしまっていることに、「気がつく」ことはできます。

 それが、マインドフルネスです。

 「今、ここ」に意識を向けるトレーニングをする中で、自分の中で行われている様々な変換や勝手な解釈に気づいていく。
 これは、まさにSIMTでやっている実践そのものです。

 そして、こういった自分の解釈や変換の特徴に気づくことができれば、それを止められなくても、その解釈や変換した結果を、手放すことができるようになってきます。
 これが、マインドフルネスのすごいところです。

 そうすることで、自分の思い込みや自動思考から解放されていき、不安や苦しみ、そういったものから自由になっていくことができます。

 今日は、「言葉」「記憶」」というものから、どうやってそれらに人が縛られてしまい、マインドフルネスはそれをどう改善させることができるかということについて、僕なりの視点で書いてみました。

 勝手な持論を展開してみましたが、もし、少しでも面白いなと思っていただければ幸いです。

 ではでは、スローペースですが、今後も少しずつ更新していきたいと思いますので、よかったらまた訪問してください。
 
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訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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