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失敗はない。すべては前進

さてさて、9月ももう終わりでね。
個人的には9月はいろいろと忙しかったり、体調も波が大きかったりで、なかなかハードな1ヶ月となりました。
先月、久しぶりに偏頭痛が出てしまい、そうすると1ヶ月くらいはまた偏頭痛がでるんじゃないかと、些細な体調の変化にも敏感なってしまうせいもあります。
でも、今回の発作があったおかげで、また自分の体調の変化のポイントをいくつかつかむことができました。
これも、ひとつの前進。大切な一歩です。

今日は、そんな前進に関する話です。

以前からのブログの中にも度々書いていますが、SIMTでの上達の仕方、回復の仕方というのは、右肩上がりに一直線というわけではまったくありません。
中にはそういう人もいるのかもしれませんが、すくなくとも僕の経験ではそうではなく、また、自分がSIMTを始めてからの過程を見つめていくと、たぶん、そのような右肩上がりの上達はないのではないかと思うのです。さらには、すべての上達の過程や、大きいことをいうと人生というのは、右肩あがりではなく、一見寄り道や回り道に見えるみ道も全部含めて上達はと言えるのではないかと思っています。

SIMの課題を、実践を進めていく中で、体調に波が出てきたとき、何かのきっかけで体調を崩すことがあります。
「もう、このまま良くなるんじゃないか」、そう思っていたところで調子を崩すと、「やっぱりダメだった」とか
今まで自分がやってきたことは失敗だったとか、意味がなかったとか、ついつい思ってしまいます。
「こんなはずじゃない!」とか。
でも、本当にそうでしょうか。
いや、そう思ってしまうのは、しょうがないんです。自分が描いていた理想とは違う結果になってしまったんだから、落ち込みを感じるのはしょうがないんです。
でも、前回のブログで書いたように、そこで大切なのは、自分がどんなことがあって、どのように調子を崩し、どのように落ち込んでしまって、身体のどこでどのようにそれを感じているか、それを、しっかりチェックしておくことなんです。最初は、後付けでもいいです。もう完全に落ち込んでしまってからでも、いいんです。
「もっと早くに気付ければよかった」と思うかもしれませんが、それでもいいから、「今回は、こういう経過で、こういう風に調子が落ちていってしまったな。あのときにああしたな」と気づいた時点でチェックすればOKです。そして、それ以上、反省しようとしてあれこれ考え出すとドツボにはまるので、思考を連鎖させないように呼吸に意識を向けるなど対策をとりつつ、調子が回復してくるのを待ちましょう。

でも、その過程で、チェックさえしていれば、体調を崩す状況と、その過程などについて、ひとつの貴重な情報が得られたわけです。もちろん、その過程自体はしんどいものかもしれませんが、そのチェックさえできれば、ゼロではないわけです。1だろうと2だろうと、0.1だろうと、前進は前進だと思うんです。
それを積み重ねていくことが大切なのだと思います。

たしかエジソンだったと思いますが、1回の発見をするのに、99999回失敗したとしても、それは、失敗ではなく、99999回のうまくいかない方法を発見したんだというようなことを言っていたと思います。(違ったらごめんなさい)
これだけを聞くとただの負け惜しみにきこえますが、SIMTを続け自己に対する洞察を深めていく過程で、これが本当にそのとおりだなとかんじられるようになってきました。

同じミスを繰り返してもいいんです。それも大切な検証です。

例えば、ある人とあうと、いつも感情的になってしまい、そのあと体調を崩してしまうとします。
いつもは、もうその感情にのまれて、相手にどなってばかりです。
SIMTで、心理現象になまえをつけたりしていくうちに、体調を崩してからでも、その過程をチェックするようにしていきます。でも、まだ、感情的になってしまうし、怒鳴り声をあげることはやめられません。

でも、丁寧にその課題を繰り返しているうちに、「あ、このままいったら、いつもの感情が爆発しそうだな」とか、「あー、もう感情がきれる寸前だな」とかいうのに気づく日があります。
でも、だからと言って、その感情を抑えられるわけではないし、いつものとおり、怒鳴ってしまうかもしれません。
でも、この、「きれる寸前だな」と気づいた意識は、今までになかったものです。これは洞察がはたらいている証拠です。
そこで、意味なかったとは思わず、自分の感情に一瞬でも気づけたんだと捉えましょう。

次の時には、「あ、このままいったら、感情が爆発する。でも、我慢できないから爆発しちゃえ。でも、きっと落ち込むだろうな」と気付けるかもしれません。
案の定、落ちこむでしょう。
でも、それでもいいんですよ。たとえ同じような状況をくりかえしてしまったとしても、「自分が予測した通りに落ち込んだ」としたら、これってある意味成功じゃありませんか?
予想以上に落ち込んだとしても、それで自分の見立てが甘かったなと、次回の予測を修正できます。

それを続けていくうちに、「あー、このままいくと、いつも通り感情を爆発させちゃうから、今日は、早めにこの場を放棄して、離れてみよう」と思うかもしれません。
その結果、感情はぶつけどころをなくして、どなるよりつらい気分になるかもしれません。でも、落ち込みを方はいつもと違うかもしれないですよね。その違いが自分にとってよかったか悪かったかっはまた別の問題です。よかったら次もやってみればいいですが、結果は同じものになるかわかりません。

でも、最初に無意識に争って同じ落ち込みををくりかえしていた時に比べると、だいぶ選択肢が増えてきていうと思いませんか。

僕がSIMTで経験してきた上達の仕方ってこんな感じでした。今でもそうです。
うまくいかないなと思うことは日々のあります。
でも、そこで、ちょっとでいいからチェックを入れてくりかえしていくと、ほんのちょっとずつですが、違いが生まれてくるんです。時には失敗に思える状況や選択もあります。
でも、それも大切な0.1なんです。その小さな0.1をくりかえしていくことで、気がつくと、以前と比べて、5も10も変わってきたなということに気がつきます。

これが、僕がいいたかった、失敗にと見えることもすべて前進のための大切な一歩ということです。

なんか、「だいぶ変わってきたな、洞察が上達はしたな」と思うことと、「いや、まだまだ全然ダメだ」とおもうことのくりかえしてです。でも、どちらも大切で、どちらも前進だと思うんですよね。

こと、SIMTの開始始めの頃、セッション前半のころは、「そのままにしておく、包んでうつす」ということがうまくできてこないうちは、些細なことを「失敗だ、やり直しだ」と捉えてしまいがちです。
それが、「これも成長への一過程だ」と捉えられるようになってくると、洞察すること、マインドフルネス自体が、上達はしてきた証拠なのかなと感じています。

そう捉えられるようになると、色々なことで落ち込む頻度が明らかない少なくなりますからね。

やはり、日々の積み重ねが大事なんでしょうね。
実践を積み重ねていくと、自分の経験を信頼できるようにもなりすし。
だから、今、SIMTを実践んされて、「うまくいかいない、できないな」と感られている方も、ぜひ、それ以上自分を責めたりせずに、ぜひぜひ実践をお続けになってみてください。
きっと、丁寧に課題を続けていけば、今までと違った局面が見える日がくると思います。

今日は、こんなことを書いてみました。

誤字脱字もあるかと思いますが、ご容赦ください。少しでもご参考になる点があれば幸いです。

ではでは、今日はこの辺で。

SIMTにおける無評価とは

 今日は、SIMTにおける無評価とはということについて書いてみたいと思います。
 
 僕の過去の記事にも、SIMTで大切なのは、「無評価・徹底受容」だと書いていますが、この徹底受容というのが、ただの我慢とはちがうように、「無評価」といっても、まったく評価しないわけではありません。

 実際の生活の場面では、「評価、判断、決断」をしなければならない場面は、多々ありますし、SIMT自体が、「ただ見ること」
だけではなく、どう判断し、どう行動していくか、というところに重点をおいており、それ故に、僕自身、ほかのマインドフルネスの技法より、SIMTの方がより深いのではないか、実践的で役立つのではないかと思っているところもあります。

 SIMTにおける「評価、判断」では、「独善を排し」ということが大変大切になってくるのですが、では、「何が独善で、何が正しい判断か」というのが、問題になってきますよね。

そして、もうひとつは、逆説的ではありますが、そもそも「無評価でいる」ということが、可能だろうかという問題があります。

 そういったことについて、僕なりの考えを書いてみたいと思います。

 まず、この「何が独善、つまり排除したほうがよい判断や評価で、何が正しい判断か」という疑問を考え始めると、「一体どれが正しいんだろう」という思考にとらわれ、本質が見えてこなくなってしまうと思います。
 実は、この「何が正しいんだろう」という考え方自体が、すごくSIMTの上達においては、危険なことだと思うのです。

    そもそも「正しい評価・判断」とは何でしょう。
 僕も、「ある状況に、どの程度、適切な評価や判断であるか」ということは、ある程度決められると思います。
 しかし、「誰が見ても、絶対的に正しい判断や評価」というものの事を指すならば、それは頭の中だけで、理想として存在していると思いこんでいるものであり、実際の生活の場面においては、実は存在しないものだと思います。

 というのは、たとえていうなら、1メートルくらいの棒が転がっているとします。
 そして、その棒について、「この棒は長いのか短いのか」という議論をしているのと同じようにものだと思うからです。
 Aさんは「長い」という言うかもしれません。Bさんは、「短い」というかもしれません。これはどちらが正しいかなんてわからないですよね。
 Aさんが、もし、料理でつかう延べ棒がほしいと思っているなら、明らかに1mは長いですね。
 Bさんが、物干しざおに使おうと思っているなら、明らかに1mは短いですよね。
 そういう意味では、二人とも正解なと言えるわけです。

 これと同じように、日常生活における、決断や評価って、「何をしたいのか、どんな状況なのか」というのが決まって初めて、その決断や評価が適切かどうかというのが、決まるのだと思います。。
 空中に点が二つあって、比較するのに、XYZ軸が決定しないと判断することが不可能なのと同じです。

 では、「何をしたいのか、どんな状況なのか」というのが決まれば、かならず適切な答えはかならず決まるということでしょうか。
 これも、微妙なところだと思います。
 なぜなら、前述の例で言えば、「物干しざおに使う棒が欲しい」という状況に置いたとしても、適切な長さって決まっているでしょうか。ある程度は絞り込めるかもしれません。でも、干すものによっては、2m以上あったほうがいい場合もありますし、逆に1mで十分足りる局面もあるでしょう。
 それに、ただ単に、1mの棒があればそれでいいかというと、そうでもありません。ハンガーが動かないようにするくぼみがついていればなお助かるかもしれませんが、それを嫌がる人もいるかもしれません。
 一度目の時は、2mの棒でよかったかもしれませんが、2度目に「物干しざおに使う棒がほしい」という状況では、1度目とは干すものが違うかもしれません。同じ棒を用意しても、かならず適切かはわからないんですね。

 このように、確かに状況や場面がある程度決まれば、適切な判断や評価というものは、ある程度絞り込めるかもしれません。
 でも、果たして本当にそれが、適切かということは誰にもわかりませんし、さらに、状況は刻一刻と変わっていくものですので、適切な判断や評価というものも常に変化していくはずなわけです。

 さらに、決断、評価後も、未来にわたって状況は変わっていきます。そうすると、どの時点で判断するかで、自分がとった決断が正しかったかどうかなんていくらでも変わっていきます。
 
 例えば、お金のない少年がいたとします。かわいそうだと思い、お金持ちのあなたは1000万円寄付したとします。
 その少年は学校にいけるようになりました。そこで、なんとすばらしい決断だったのかと、あなたや周りの人は言うかもしれません。
 数年後、学校を卒業した彼は、勉学に大変励んだかと思いきや、お金を恵んでもらうことを覚えてしまい、仕事をせずに、あなたのところにお金をせがみにくるようになりました。
 あなたや周りの人は、やっぱり、お金は自分で稼がないとだめだね。あの決断は間違いだったというかもしれません。そして、あなたは彼のもとをさりました。
 
 数年後、苦労した彼は、一念発起し、会社を興し、成功を収めました。そこで、自分で稼いだお金を、地元の子供たちの学校のために、寄付をしました。テレビのインタビューで、彼は、「私も昔、心ある方から寄付をいただき学校に行くことができました。これはそのほんの恩返しです」と語っていました。
 それを見たあなたは、「ああ、やっぱり私のあげた1000万円は決して無駄じゃなかった、正しかった」と思うかもしれません。

 このように、人間万事塞翁が馬というやつで、たとえ現実に、ある状況が設定されたとしても、その決断が「正しいか、正しくないか」という視点では、決して判断できないのです。そんなのは、いくらでも変化していくんですね。「適切か、適切でないか」も同じかもしれません。

 特に、一度、ある判断や方法で成功してしまうと、「この方法が絶対的に正しい」と思い込み、それを続けていくうちに、社会情勢とかけ離れてしまい、会社は倒産なんて話は、よくあることです。

 これは、まったくSIMTでも、マインドフルネス的な態度でもありません。

 では、僕らにできることは何か、マインドフルネス的対応とは何かと言えば、状況や場面において、「ただ選択をしていく」ということだけだと思います。
 そして、その選択をした結果を、「ただ受け止める」ということしかできないと思うのです。正しいか、正しくないかなんていうことは、その場ではわからないんです。

 だからこそ、大切なのは、「よく観ていくこと」つまり「直観」なのです。
 すぐに、これは正しいのではないか、間違ているのではないかと「考える、評価する」のではなく、「こういう状況において、こういう選択をすると、こういう結果がおこるんだな」と、ただ、確認し、名前をつけておく事が大事なんだと思います。そして、そうしている間に、刻一刻と目の前の状況は変化していくので、「それで、こうなると、自分はこう感じて、こう反応して、それで、こうしてみたら、こうなった」と、現在進行形で、瞬間的、この確認作業を繰り返していくことが大切だと思うんですね。

 この確認自体は、単発ではあまり意味があることに感じないかもしれませんが、そういった作業を丁寧に繰り返していくと、自分の中に、無意識にでも「経験」が蓄積されていきます。そして、状況を丁寧に見る目も養われていきます。
 そうすると、「どうやら、こういった状況では、こうしたほうがよさそうだぞ」とより状況に適した選択肢ができるようになってくるかもしれません。すくなくとも、「こうであるはずだ!」と突っ走って、後戻りできないほうど失敗してしまったり、悩み続けて答えが出せないといった状況には、はまり込みにくくなります。

 これが、「何が正しい判断か」という考え方自体に、実は危険が潜んでいるという理由です。

 もう一つは、上記にも絡んできて、また多少、矛盾しているのですが、では、本当に「無評価」ということが可能かということについてです。

 上記の文章を読んでいて、疑問に思った方もいるかもしれません。
 「でも、そうやってやっていったって、そのようにして決めた選択だって、評価や決断の結果じゃないか」と。
 実際、その通りなんです。
 僕は、思うのですが、人間においては、どこまで行っても、行動する時には「評価や選択」が伴っていると思うんです。
 例えば、あなたの目の前に牛乳とコップがおかれています。
 この時、目の前にある物体を、「牛乳」と「コップ」という風に認識できるということは、目の網膜に映ったその映像を、「牛乳」「コップ」であるな、と「評価・認識」しているわけです。
 さらに、そのコップに牛乳を入れたとになぜ失敗せずに入られるかといえば、無意識かもしれませんが、「このように入れれば、こぼさずにコップに牛乳を入れられる」という判断を意識がして、コップに牛乳を入れられているからなわけです。

 こういった細部までの話をするなら、人間は評価・判断せずにいられない生き物ということになります。。
 そういった意味でも、人間には生きていくうえで、評価判断をすることは必要ですし、むしろ、どのように評価・判断していくかが重要になってくるわけですね。

 しかし、そこに気づいているからこそ、僕らは、「では、どのように判断し、どのように考え、どのように行動したらいいのか」と悩んでしまい、そして、「じゃあ、どうするのが正しいんだ」と前述の疑問に戻ってしまいます。

 でも、ぼくは、だからこそ、「無評価な態度」ということが大切なのだと思うんです。
 人間は、「評価・判断」せずには、いられません。
 しかし、「じゃあ、正しい判断や評価はどうなんだ」と考えだすと、前述のように終わりのない迷路にはまり込んでしまいます。
 僕らが、考えて、ただただ考えて答えをだそうとしても、そこに新たな視点や行動はうまれません。
 かならず、そこには、「独善」が入ります。自分の思考が判断した「評価」が加わってしまいます。
 というか、さっきコップの例で書いたように、常に「評価・判断」をしているので、「独善」は完全には排除できません。
 だから、僕らにできることは、それを「洞察」し、「気づき」を入れ、その「評価している」という事実をしり、それ以上、それに手を加えないようにすること、そういった「洞察」「観察」を徹底して続けていくことなんだと思います。評価をできるだけ加えずに、状況や、自分に中に起こってくること、そしてその結果としてする行動も含めて、徹底して「まっすぐに見つめること」が大切だと思うんです。

 そのようにしていても、状況に応じて、僕らの意識、無意識は勝手にその状況にできる「評価・判断」をしていってくれます。
 さっき、コップの例も「評価」や「判断」と書きましたが、この「評価」や「判断」が頭の中で行われているなんて、そう簡単にはわからないですよね。それに、牛乳やコップをそれと判断するのに、「独善」「勝手な判断」は入りにくいですよね(実はこれすらも決してはいりこまないわけではなく、勝手な判断でありうるのですが相対的には問題になりにくいです)。

 だから、人間は評価・判断してしまうものだけれども、だからこそ、自分のしている「評価や判断」に自覚的になり、それ以上、それを膨らませることはしないということが大切であり、マインドフルネスにおいても、「まっすぐに観る」という局面が強調されるのだと思うのです。そしてそのために、「無評価」的でいるように意識的にいることが必要になってくるのだと思います。

 それをただ、淡々と続けていった中にこそ、「より独善的でない判断」、そして、「何が独善で、何が独善でないのか」といったことも、うっすらと見えてくるのではないでしょうか。

 今日もすっかり長文になってしまいましたが、この「無評価」って言葉ではいうけど、すごく難しくて、すごく奥が深いものだと思います。やっていること、そのために必要なことは、すごくシンプルなんですけどね。
 だからこそ、徹底してやっていくのが難しいというか。
 これも、日々、練習です。実践ですね。

 ではでは、お付き合いありがとうございました。今日はこの辺で。

包み込んで映すための僕なりのコツ

 今日は、SIMTを実践していく中で、僕自身が、自分の中に生じてくる出来事を、「そのままにする」ために工夫しているコツを紹介したいと思います。
 あくまでこれは、僕自身のコツであり、大田先生がおすすめしている方法ではないので、参考程度にお読みください。
 
 でも、ちょっとした工夫ってみんなそれぞれ身に付けて行く上でしていると思うんですよね。「それが絶対的に正しい」と考えちゃうと間違いのもとになりますが、こういう人が、こう考えてこういう工夫をしているという過程を知ることは、SIMTを学ぶ上で参考になるかなーと思って今回、書いてみようと思います。

 上記の「そのままにする」というのは、独善的な評価や価値判断を加えず、起こっていることをまっすぐに観るという事です。
 つまり、SIMTのセッション最初の頃にある、「つつんで映す」という心の使い方の事です。
 SIMTの非常に基本的なテクニックでありつつ、一番奥が深く、難しい部分と言ってもいいかもしれません。僕自身は、これがちゃんとできるようなら、SIMTのかなり大きな部分を身に付けたといっても良いかなと思うくらいの事です。

 でも、この感覚って、感覚だけに伝えるのが非常に難しく、この感覚をつかむのが難しいんですよね。そして、一瞬はそういったことをできても、どんな場面でも、生活の中でもこの心の使い方を実践していくというのは、すごく訓練が必要なことです。
 それだけ、ついつい起こってきたことに独善的な評価や判断を我々はしていってしまうということなのですが。
 
 なので、過去のブログでもこの部分については繰り返し取り上げていると思います。
 今回も、同じ事を取り上げているわけですが、この「そのままにする」ということをより上手にできるようになるために、自分なりに日々工夫をしているので、最近している工夫を書いてみたいと思います。

 座って瞑想、呼吸法をしながら、自分の中に生じてくる現象に、「思考」「感覚」など名前をつけていく作業は、わりとやりやすく、この訓練をやって、「そのままにする」感覚、「包んで映す」感覚を練習していきますが、なかなか難しいのは、実生活の中でもこれをしていくことです。
 特に、「そのままにする」ということをしようと心がけると、ついつい、評価してしまう自分、思考に入ってしまう自分に対して、「ダメだ評価をしてしまった」と考えてしまいがちです。しかし、この「ダメだ、評価をしてしまった」と考えること自体、「評価」なわけです。
 そして、そんな自分を、さらに「ダメだ。。。」と考えてしまい、無限ループに入ってしまいがちです。
そうすると、その「評価」が行なわれた瞬間に、気分が落ち込んだり、身体が重く感じられたり、症状がでてきたり、様々な反応が自動的に出てきてしまいます。これは止められないので、そうして、「評価」を繰り返して調子を崩していったしてしまいます。

 なので、「そのままにする」というのは、評価してしまう自分に対しても、「そのままにする」ことが大切です。
 しかし、「そのままにしよう」と思っても、ついつい「またやっちまった」と考えてしまいます。
 そりゃそうです。できれば、そのままにしよう、思考に入らないようにしよう、とやっているのに、自分が思考や評価をしてしまったら、やっちまったと思うは当然です。

 なので、僕が徐々にできるようになってきた過程として、まずやったこと、工夫したことは、「がんばりすぎない。さらに上を求めすぎない」というものです。
 「良くなりたい、治りたい、もっと上達したい」、この気持ちはすごく大切です。これがなければ、SIMTの実践を続けることはできません。しかし、この気持ちが強くなりすぎてしまうと、逆に自分を苦しめる結果になってしまうわけです。なぜなら、期待が大きくなるほど、うまくいかなかったときに、その反動として、「やっちまった」と評価をしてしまいがちだからです。
 僕が、徐々に自分の思考や評価と距離をとれるようになってきたとき、「もう、できる範囲でいいや。できる範囲のことをやってけば、そのうちわかるだろう。今は、よくわからなくてもそれでいいや」と、ふっきれた後だったように思います。
 洞察がうまくいかない、気づいたら、洞察せずに1日がすぎてしまっている、洞察をしようとしていても、すぐに思考に飲み込まれてしまう。こういったことが続いて、「あーなんてダメなんだ」と思ったりしたのですが、そういうことを考えていることも評価だし、これ以上望んでも今よりすぐうまくはできないと思い、「調子を崩していた期間が7年間あったんだから、治るのに7年間くらいはかかってもしょうがない!」と覚悟を決めて、ただただ、気づいたら「今、ここ」に意識を戻すというのを繰り返していきました。そして、「やっちまった」と思っても、そう思うのも、今のレベルならしょうがないと割り切って、ただただ淡々と実践をやっていきました。
 
 まず、この思い切りというか、良い意味でのあきらめみたいなのが、良かったように思います。そうやって、その日の洞察に結果を求めすぎないで、自分自身の瞑想や洞察のでき自体も、評価をあまりせずにそのままにできるようになるにつれて、日常の生活や他人とのやりとりでも、生じる様々な感情やできごとを、「そのままにする」ことができるようになってきたような気がします。

 最近、考えたのですが、以前から書いているように、僕はSIMTを身に付けることって、言葉を習得したり、自転車をのれるようになったり、筋トレをしたりすることと同じように思うんです。
 いくら筋肉をつけたい、言葉を早く身に付けたいと思っても、1日に10時間、15時間とやり続けても、その日にできるようになるものではないですよね。筋トレにいたっては、早く筋力をつけたいからといっても、2時間も3時間も同じトレーニングをやり続けていたら、筋力がつく前に身体をこわします。
 筋力をつけたいという気持ちは大切だと思うんです。でも、その気持ちが強くなりすぎて、その日のトレーニングに結果を求めすぎるよりも、その気持ちはちょっと横に置いておいて、疲れすぎない程度のトレーニングを、ただ淡々と続けていく方が、1ヶ月、2ヶ月と立ったときに、「あれ、前より頑張らなくても、重い物を持ち上げられるかも」とか「楽になったかも」と気づくことがあると思うんです。

 なので、まずひとつは、「がんばりすぎないこと、多くをもとめないこと」というのは、ひとつポイントかなと思います。

 もうひとつ、工夫をしているのは、自分の中で起こってきた事に対して、「いいんだよ、今はそれでいいんだよ」と一言、投げかけてあげる事です。
 というのも、上記に書いたように、「早くよくなりたい」という気持ちがあるので、洞察がうまくいかなかったり、おもったように症状が改善しないとき、調子に波が出てきたときに、ついつい「またダメだとか」とか「失敗だ」と、ネガティブな評価をしてしまいがちなわけです。特に、鬱になったり、不安障害であったりして、自分のコンディションが悪いときは、自己肯定感が低下してますから、自分に対して、厳しい評価をしてしまいがちです。ベースとして、マイナスの方向に思考や評価が傾きがちなわけですね。
 だから、思考に流れてしまっている自分に気づいたとき、思考に飲み込まれて感情を騒がしてしまったとき、自分についついがっかりしてしまったとき、そんな自分に対して、そして、生まれてしまった感情や症状に対して、「早くなくなれ」とか「こんな風に考えちゃだめだ」と思わずに、「あー、今、ネガティブモードが働いているんだね、いいんだよ、今はそれでいいんだよ。今、ネガティブモードになっているこのに気づけたら、今の時点ではそれで100点だよー」と、自分の中の一見、ネガティブに思える出来事につぶやいてあげるようにしてました。
 そうすることで、すぐにその感情やネガティブモードがなくなるわけではないのですが、そのネガティブモードをさらに評価し、「だめな自分」悪循環に入ることは少なくなったように思います。そうして、自分の「自己評価モード」から距離をとれるようになってくるに従い、前述のように、他の事に対しても「そのままにする」ことができやすくなってきたように思います。

 それともう一つ、「評価モード」から自分を抜け出すために、「観察モード」に切り替えるということも工夫としてやってました。
 自分自身で、負の感情が浮かんだり、体調がわるくなったり、思考に流れやすいときに、「良い、悪い」といった評価をしなくても、lすむように、観察日記をつけるように、「今日のネガティブモードレベルは、10点満点で6点だな」とか、「この落ち込み具合は、80点くらい!結構、つらいかも」というように、数値化してみたりしていくと、自然と、単純に善悪、良い悪いといった評価の間で苦しまなくて済むようになってきました。また、こういった点数にしたり、レベルにしたり、ゲームに例えて、「レベル3。これならクリアできる」といったようにしていくと、自分の中でどの程度の反応であったら、普通に収まるのか、それぞれのレベルの反応に対して、どのような対策を立てられるのかといった部分でも参考になりました。

 本当に不思議なことなのですが、こういったことを繰り返して行き、自分の中のネガティブな反応や部分に対しても、許容できる範囲が広がるにつれて、不思議と、日常生活においても洞察やそのままにする感じができてくるようになり、また、鬱の症状や気分の波も起きにくくなっていきました。

 今思えば、最初のうちは、「評価しない」、「そのままにする」といいつつも、自分がやりたいと思ったことだけ、そうしようとしていて、本当にどんなことに対しても、その態度をやろうということをできていなかったんだと思います。頭ではわかっていても、実は、生活の隅々まで、自分の思考パターンの隅々まで、この「良い悪い、善悪評価モード」は入り込んでいるんだと思うんですね。だから、「そのままにする」「包み込んで映す」という態度を身に付けて行くためには、繰り返し、繰り返し、どんな状況でも、どんな条件でも、今、ここに起こっている事に対して、それをトライしていくことが大切なんだと思います。

 とは言っても、今も僕も試行錯誤の最中です。また、何か自分なりの工夫ができてきたらここに書いて見たいと思います。

 蛇足ではありますが、「評価をしない」といっても、生活をして、仕事をして、何かを判断していく過程では、評価もしますし、決断もします。ただ、そういったとき、繰り返しでてくる「善し悪し評価パターン」とも呼べる癖がかならず潜んでいるんですね。だから、そういった「善し悪し評価パターン」を見極めるためにも、まずは、すべての評価に対して、一瞬でもいいから「そのままにする」瞬間、習慣を作っていこうというのが、SIMTの基本的スキルである「包み込んで映す」という事なんだと思います。

 本日も長文におつきあいありがとうございました。
 何かご参考になることがあったら幸いです。

意志的自己と叡智的自己(意思作用の訓練と心の葛藤)

 
 久しぶりの更新になってしまいました。子供達も夏休みになり、何かと休まらない日々を送っています。

 今日は、意志的自己と叡智的自己という事について自分の経験を元に考えを書いてみたいと思っています。
 というのも、最近、SIMTの実践を続けていく中で、以前にもまして、日々の生活や仕事の中でストレスを感じる頻度が減ってきているように感じているからです。そして、なんでそんなに楽になっているかというと、それは自分の中での葛藤というのがすごく減ってきているからだと考えています。
 その葛藤がなぜ減ったのかというのを考えた時に、この意志的自己と叡智的自己というものに考えが至ったわけです。

 まず、意志的自己と叡智的自己というものについて簡単に書いてみたいと思います。
 SIMTの理論的背景となっている西田幾多郎の哲学では、いわゆる自己、自分とは何かというものについて、段階があると言っているようです。ここからは僕も大田先生の受売りで、西田哲学をしっかり勉強したわけではないので申し訳ないですが、正直、西田先生の文章だけを読んでも、意味はサッパリ分かりません。
 大田先生の書かれたマインドフルネス入門という本に叡智的自己について書いてあったりしますが、それも何回読んでもわかりませんでした。
 しかし、大田先生に会ってお話を聞いたり、SIMTの実践の中で気づきを積み重ねていくうちに、自分なりにこういうものなのかなというのが分かってきたので、それを踏まえて書いてみたいと思います。

 まず、普通、「私とは何か」という事を考えた時に、「今、感じ、考えている私が『私』だ」と思うと思います。
 これは、知的自己とか概念的自己、思惟的自己といったものです。
 このレベルでは、「私は、どう感じて、どう考えるかによって私というものが決まり、それによって行動している」といった感じだと思います。そして、この思考をしているレベルは、まさに鬱になって抜け出せないでいる時の状態で、様々なネガティブな思考が頭を巡り、「なんてだめな自分なんだ」と自分=ダメだとなっている状態です。

 そこで、意志的自己とは何かとう事ですが、様々な思考や感情、感覚を感じつつも、それを眺めて横に置いておけるような状態です。SIMTで訓練をしている意思作用、注意の作用というのは、このレベルの訓練の事になります。
 思考や感情など、様々な作用が自分の中で働いていて、そして、意思をもって、自分の注意作用を動かしたり、分配したりして、呼吸法を行なっていったり、洞察を繰り返して行ったりしていきます。
 それは、単に思考の波にのまれているより、もう一回り大きな自己であるわけです。
 思考や感情、感覚といった作用をつつんでいるというか、内に收めて、それをある程度、意思の作用で止めたり動かしたりしているという意味で、概念的自己、感情的自己、感覚的自己というものより一段階深い自己であると言えます。
 
 大田先生も、この意志的自己を訓練することで、不安障害や鬱は、改善し寛解させることができるとおっしゃっていました。
 特に、セッション前半でやるような訓練は、この注意作用をトレーニングし、自分の意思の力をうまく働かせる訓練と言えます。
 実際に、セッション前半のスキルを身に付けることで、僕自身も、様々な深いな症状や調子の波自体を抑えることはできませんが、それでも、そのような症状や波を感じながらも、それをくぐり抜けていくことが可能になってきました。
 症状や調子の波にパニックにならず、必要な対処を行なっていくことができるようになり、日常生活や仕事への復帰などができるようになっていきました。

 確かにこの段階で、症状は軽くなり、大きな問題は解決されます。しかし、自分の症状、調子の波、生活に対する不安など、消えたわけではなく、あくまで共存できるようになってきたとうレベルです。

 それが、無くなってきたというのはどういうことかと考えると、そこで、もう一つ深い自己のレベル、叡智的自己というレベルが関係してくるように思いました。
 これは、セッション後半の本音をさぐったり、日常生活の中で洞察を繰り返して行く訓練を続けていくことで達成されるように思います。
 意志の作用を用いて、自分の中に生じてくる感情的な出来事、怒り、不安などなど、様々な現象を、そのままにしつつ観察して、どうしてそのような感情が生まれたのか観察していくと、その背後に、様々な本音、評価の基準があることが見えてきます。
 それは、今までまったくあたりまえで、自然に生じていた感情であっても、よくよく、繰り返し観察していくと、かならずその背後には、その感情が生まれる理由となった評価をしていることに気がつくはずです。
 その評価が行なわれているために、感情や気分が生まれ、自分の中に様々な葛藤が生まれ、ストレスを生じさせています。
 その評価自体の洞察をさらに繰り返していくと、過去の経験や記憶といったものに気づくようになります。
 そういった評価やそれによって生まれる感情は、瞬間的に起こり、自然に起こってきてしまうものなので、自分の意思の力をもってしても、止められるわけではありません。むしろ、それを止めようとしてしまったり、無くそうとしてしまうと、それがさらなる評価や葛藤につながり、感情はむしろ暴れ出します。
 ただ、そう評価したり、その結果、葛藤や感情が生まれたことに気づいてあげるだけでいいんです。
 日常の様々な事の中で、生まれては消えて行く、そういった葛藤や感情、その元になる評価に気づいてあげるだけでいいんです。
 そうして、その評価基準が生まれるもととなった記憶や過去の経験までたどりつくと、一時的に感情が大きく揺さぶられることはあるんですが、しばらくすると、その評価自体が自分のある経験から生まれた独善的なものだと理解できてくるのか、自然と、感情の動揺や葛藤は少なくなっていきます。自分の勝手な評価に気づいて、それを横に置いておいてあげることができるからです。

 しかし、生活の様々な場面では、常に決断を迫られ、行動をしています。そうすると、意思作用を使って、自分の中の勝手な評価やそれによって生じる感情を、横においておくように繰り返していっても、この状況であるなら、自分はこのように行動しようという選択肢がかならず浮かんできます。それは自分の中からでてくるものではありますが、感情や勝手な思い込みではなく、その状況をきちんとみつめた上で、フッとわき上がってくるように、決断や行動が内から生まれてくる感覚です。
 その結果が良いにつけ、悪いにつけ、それ自体にも評価をせずに受け止めるのですが、またそこでも感情や評価は横においておきながら、次の瞬間の状況にあった行動や選択が自然と生まれてきます。
 このように、意思作用を常に働かせて洞察を続けていくと、その先に、「行動する自分」というのが、自然とでてくるのです。
 その行動には、不安や迷いというものがあまりなく、「こういう状況ならこうしよう」というのが、すっと自然と出てくる状態です。
 この「行動している自分」というのが、まさに叡智的自己です。
 このような自己を頻繁に経験するようになってくると、この「行動する自己」の状況においては、迷いや不安が限りなく少なくなっているので、葛藤もなく、結果としてすごくストレスの少ない生き方をできるようになります。

 僕自身、常にこの状態になれているわけでは決してありませんが、自分の感情や思考の働きを常に洞察していると、その感情や思考、自分自身の勝手な評価に気づき、それに惑わされずに行動できる頻度が増えてきているので、日常で感じるストレスがすごく減ってきているんじゃないかと考えています。

 この叡智的自己に至るためのスキルは、セッション後半で学んではいて、そのための基本的なスキルはセッション前半で学んだ、注意の分配や心理現象への名前付けといったものになるのですが、おそらく、セッション10までの10ヶ月で完全に身に付けることは不可能かと思います。僕自身も、セッション開始後、もう3年くらいになりますが、やっと最近、このあたりのことが自分なりの考えではありますが、掴めてきているかなといった感じです。

 でも、実践を丁寧にやり続けていれば、絶対にこういった状況になっていけます。
 感情や症状、体調、ストレス、そういったものを自分の力で押さえこむことは不可能ですが、実践を続けることで、自然とそういった問題が生じにくくなってくるのです。
 確かに、意志的自己、意思作用の訓練だけで、体調は劇的に改善はします。
 しかし、生きて行くと言うことは、本当に様々なできごとが起こります。今までに予想しなかった挫折や困難、ストレスも襲いかかって来るわけです。僕自身、まだまだそういったものすべてに立ち向かえると自信をもって言える状態ではありませんが、自分を深くみつめ、洞察し、叡智的自己のレベルまで自分を深めていくと、そういったことが来ても、自分なりに対処していけるのではないかという自信が少しずつですが育ってきます。
 そして、ストレスが減り、葛藤がなくなることで、生きていくのがすごく楽になり、日々の生活に幸せを感じることができるようになってきました。つらい時には、自分の子供ですらも負担に感じ、自分の子供をかわいいと思えない自分はなんと残酷な親なんだと自分を責めたときもありましたが、子供をかわいいと思える感情も、自然とわいてくるようになりました。

 僕は、SIMTには、本当にうつや不安障害を始め、様々な問題、状況を解決する力があると思っています。
 ぜひ、今、苦しい中にいる方も、あきらめず、希望をもって実践を続けていただけたらなと思います。
 
 時間はかかります。一歩一歩のあゆみはゆっくりですが、でも、着実に前に進めます。
 ぜひ、あきらめず頑張ってください。

 今日は、僕自身が考える意志的自己、叡智的自己について、そして、それによりどのように自分の中のストレスや葛藤が減っていくかを書いてみました。ちょっと理屈っぽい話しになったかと思いますが、わからなくてもまったく問題はありません。
 実践を続けて、体験を通して感じれば、自然と分かってくるものです。決して頭だけで理解するものではないと思います。

 ではでは、長文おつきあいありがとうございました。
 また、何か気づいたことがあったら、更新をしていきたいと思います。

 
 

SIMTを学ぶ過程で、状況により重点をおくポイントについての考察


 いよいよ蒸し暑い日が増えてきましたね。
 寝苦しい日も多くなり、体調を崩しがちな季節です。十分に気をつけながら日々生活していきましょう。

 今日は、SIMTを習い学んでく過程において、こういう状況、自分のマインドフルネスの進展具合で、どのようなところに重点を置いて学ぶと良いかという点について、考察してみたので、よかったら参考にしてみてください。

 SIMTを学んでいく過程って、結構大変ですよね。
 やること自体は、そんなに大変な課題はないのですが、でも調子の悪いときに課題をやっていくってやっぱり大変だと思います。
 欧米のマインドフルネスや認知行動療法が、いわゆる再発予防に力を入れられてるのも、そういった理由があるのではないでしょうか。課題を遂行していくって、調子が悪くてダウンしている時は、中々できないと思うからです。

 でも、SIMTも、そのように体調が改善し、ある程度良くなってから始めなくちゃならないのかというと、そういうわけではないように思います。
 
 僕が経験した感じからは、調子が悪い人こそ取り組んで欲しい、始めて欲しいと思う部分もあるからです。
 だって、良くなってから始めるんだったら、一番必要としている人の所には、助け船が出せないということじゃないですか。
 それでは、あまり意味がないと思うんです。やはり、つらい人にこそ活用して欲しい。そういうものこそ、本物だと思うし、それが大切だと思うんです。まあ、そんな個人的な思いは置いといて。

 でも、そういった調子が悪いときに、SIMTのステップを全部やろうとすると、さすがに無理だし、しんどくなってむしろ調子を崩してしまう可能性が高いと思うので、僕なりに体調により重要なポイントをピックアップしてみたいと思います。

 鬱や不安障害の改善のステップをまず分けてみると、、、
   ① 気分の落ち込みや体調が悪すぎて、日常生活もうまくおくれていない状態。
   ② 日常生活は、ほぼ問題なくなったが、まだ仕事など社会的生活は難しい状態。
   ③ 仕事など社会的生活はできるようになってきたが、まだ症状に波があり、時につらくなる状態。
   ④ 仕事や家庭生活、社会生活をおくれており、多少の体調の変化では問題ないという状態。いわゆる寛解状態。
 
 という感じに分けられるかなと思います。
 僕が再発を繰り返していたときは、①、②、③の間を行ったり来たりしていましたね。③の状態になったといっても、自分としては、どうして調子悪くなっているのか、どうやったら良い状態を維持できるのか、全く分からず不安が一杯でした。

 ではでは、まず① 気分の落ち込みや体調が悪すぎて、日常生活もうまくおくれていない状態。 においての、重点ポイント。

 この状態では、前頭葉のワーキングメモリもかなり低下していることも多い状態です。
 おそらく、ちゃんと本を読んで、理解するということ自体、難しい人は多いのではないでしょうか。
 この段階では、あまり難しい洞察までやることは困難だと思うので、まずは、呼吸法をしっかり学んで、身に付けていくことが大切だと思います。それをやるだけで、かなり体調自体が改善されることが多く、それだけで②の状態になれる事も多いのではないでしょうか。
 呼吸法でも、特に、セッション①でやる「ゆっくり呼吸法」をしっかり身に付けていくのが大切です。
 ほんの気持ちでいいので、吐く息を細く長くします。この時、大切なのは、5秒と10秒とか時間を決めて、無理にその時間にあわせようとしないこと。それをやると、時間を達成させるために、無理をして頑張る事となり、結果的に交感神経を活発にして余計つらくなってしまいます。
 ほんの気持ちだけでもいいので、吐く息を長めにとって呼吸をしていくと、少しずつ少しずつ、身体のリラックスの状態にあわせて、呼気の時間もゆっくり長くなってくるので、自分のペースでやっていけばいいです。
 ここで大切なことは、その時に、なるべく呼吸に意識をむけて、あれこれ考えないように、ネガティブ思考の悪循環をまわさないようにするということが大切です。
 調子が悪すぎて、どうしてもネガティブな思考に引っ張られてしまうという人は、呼吸を数えながらやるなど意識を無理矢理にでも、呼吸にむけるといいと思います。「ひとーつ、(と数えながら息を吐き、『つ』が終わったら、速やかに息をすう)、ふたーつ、みーっつ」と数え、「とーう(10)」までいったら、また「ひとーつ」に戻ります。

 これを10分から15分くらいは続けていると、副交感神経が刺激され、不思議と身体の緊張や症状、不安感が楽になってきます。もちろん、症状や発作の強さにはよりますが、繰り返し繰り返し続けていると、呼吸法をやれば、症状がやわらぐようになってきます。また、症状が悪くなりかけて来た時に、すぐこの呼吸法をする習慣をつけることで、思考と症状悪化の悪循環をある程度、止めたり和らげたりできるようになり、大きく体調を崩す事が少なくなってきます。つまり、②の日常生活は送れる状態に改善するわけですね。

 ここで、パニック発作をもっている人、不安障害の人の中には、呼吸自体に意識をむけることがつらい人がいるようです。
 そういう人は、「吐く息はゆっくりしたほうがいいんだな」という意識だけ持っておきながら、意識をむけるのを、例えば歩く瞑想を利用して、一歩一歩の足の裏に集中するようにするとか、ただ見る訓練のように、目の前の物の輪郭を目で置くことに意識をむけるとかしてもらえばいいと思います。その時に、「ひとーつ、ふたーつ、」という呼気を長めにとるカウントさえしてもらえば、だんだん自然と呼気が長いゆっくり呼吸法が呼吸に意識をむけずにできます。

 SIMTのセッション1の段階でも、その後必要になる、活動中の洞察の訓練は始まっています。また包んで映すなど、その後の洞察の基礎となる技術も盛り込まれていますが、あまり調子の悪い段階では、活動時の洞察や包んで映すを頭で理解しようとするのは難しいと思うので、つらい状況の方は、まずは、ゆっくり呼吸法とそれに意識をむけて、思考の悪循環を止めることから始めればいいと思います。
 そして、体調が改善してきて、できるようなら、活動時の傾注観察、思考をしているかのチェック、包んで映すなどの理解に取り組んでいくといいでしょう。

 では、②の「日常生活は、ほぼ問題なくなったが、まだ仕事など社会的生活は難しい状態。」では、どうしてったらいいか。
 この状態でも、呼吸法の習慣と実践は、ぜひ続けていください。その実践を続けることで、脳や身体自体が、悪い症状やネガティブな思考ループを起こしにくくなっていきます。
 そういった呼吸法がある程度身について来たら、いよいよ洞察の訓練の開始です。
 セッション1,2,3といったところで取り上げられている、傾注観察法、思考のチェック、心理現象の名前付け、感情の連鎖、など、その後の活動中の洞察の基本となるようなスキルを重点的に、練習するのがいいと思います。いずれも、日常生活の中の場面でできるものです。これが社会活動の中での洞察となると、一気に難しくなるので、家庭での生活の時に、こういったスキルをしっかり練習しておくと良いです。それをしっかりしていると、不思議と、忙しい社会生活の中でも、ふとしたときに、洞察モードが働いてくれるようになります。
 そして、この練習の段階でも、家庭生活自体が、社会活動の縮小版みたいなものですから、親や配偶者、子供との関係を、この洞察の基本的なスキルを使いながら見ていくだけでも、様々な気づきが得られます。この状態のうちに、セッション後半に入ってきたら、本音の観察などもどんどんやれる範囲でやっていった方が、その後の為になります。

 では、そういったことを続けて、③ 仕事など社会的生活はできるようになってきたが、まだ症状に波があり、時につらくなる状態。
 この状態は、良くなってきたように見えて、結構つらいですよね。だいたい、体調というのは、たとえ悪くても悪いなりに落ち着いている時の方が、意外とやり過ごせます。よくなったり悪くなったりすると、その波の中で、ついつい波に飲み込まれて自分を見失いそうになってしまい、意外と精神的にはつらい時であったりします。
  
 ここで、今まで培ってきた、呼吸法や傾注観察など、つらい症状に対応する手段が力を発揮します。
 まずは、波に飲み込まれずに、乗りきっていくのが大切なので、こういった方法を駆使して、なんとか波をやり過ごせるようになりましょう。やり過ごせるようになりさえすれば、いろいろと対策の打ち方が見えてきます。そのためにも、今までのセッションで学んだ事を駆使して、また、自分なりの問題点・症状の特徴とその対策をいくつも持っておくことが大切です。あまり先のことを考え過ぎたり、活動範囲を広げることを頑張りすぎずに、まずは、波に対処していくことが大切になるように思います。セッション7~10くらいの事は、このために大切な課題が多くあります。

 そして、ある程度、自分なりに波に対する対処法が分かってきたら、さらに洞察を深めるチャンスです。
 というのも、家庭での生活より、社会活動を開始していくと、様々な場面に出くわすようになります。ストレスフルな状況に合うことも多くなるわけです。だからこそ、様々な症状や調子の波がでてくるわけですが、実は、こういった場面こそ、自分の本音や自分の中の評価基準を洞察するチャンスなのです。自分の感情が動き、身体反応が出現するような場面というのは、自分の中にかならず何らかの「評価」が働いていることが多いです。だから、その「評価」に気がついた時には、その「評価」の後ろにある「評価基準」というのを、一瞬でいいので意識してみると良いです。そうすると、思わぬ気づきが得られたりします。
 意外と、それまで当たり前に思っていたり、当たり前と思って反応していた事が、かなり独善的な判断であったと気づくきっかになったりしますよ。

 それでも、活動中、社会生活の中では、今自分がやっている仕事に没頭していることが多く、こういった観察、洞察はかなり難しいと言わざるをえません。僕も未だに良くできているとは言い難い部分もあります。だから、無理にこういった洞察までしようとせず、ちょっとつらい状況になってきたなと思ったら、洞察までは考えず、その波をやり過ごすことに焦点を当てて、その時を過ごしてもいいと思います。
 やり過ごせば、また少し調子の良い時期もかならずでてきますから。

 こういった波がある程度、やり過ごすことができるようになってきたら、いわゆる体力をつけていくのも大切な事のように思います。日常生活の中で、運動を取り入れて行くことは、鬱や不安障害において、変化してしまって過敏になっている脳内のネガティブ回路を抑制し、むしろ前頭前野といった部分を活性化してくれる作用が分かっています。ですから、SIMTの本でも、初期から運動を課題として取り入れるように書かれています。
 しかし、僕自身の体験では、初期にあまり無理に運動をしようとすると、どうしてもやりすぎてしまったり、運動後に生じる体調の悪化がつらくて、うまく続かなかったりしました。だから、回復初期の頃、今回の①、②のあたりでは、運動というより、体操やヨガといったくらいの方が続くかもしれません。僕自身も、簡単なヨガを生活に取り入れるようになってから、体調の調子も整いました。

 でも、やはり、「元気があればなんでもできる」という名言?があるように、やはり体力というのは、精神力にもつながる部分があり、非常に重要だと思います。
 ③の段階になり、自分なりに体調の波をやり過ごせるようになってきたら、運動を積極的に取り入れて、体力をつけていくことは、体調の波自体が少なくし、安定した状態を作っていくためにすごく大切だと思います。

 こういった事を続けて、④の段階になれば、もう、病気は寛解(一時的に状態が改善し、健常時とかわらない状態になっていること)といえる状態です。
 しかし、ここで気を抜いて、実践をやめてしまうと、再発の影が忍び寄ってくることになります。
 実践をやめると、洞察の習慣がどうしてもなくなっていき、感情的な出来事、ストレスフルな出来事が起こってきた時に、その感情やストレスと距離を置いて見つめることが難しくなってしまいます。そうすると、影を潜めていた悪循環を起こす反応、対応の仕方が出現するようになり、いわゆる再発を起こしてしまいます。

 人生の中では、ストレスはさけては通れません。自分がそれまでに感じた事のないつらい状況になることも考えられます。
 そういった場合でも、価値崩壊の行動ではなく、価値実現の行動をとっていくためには、やはり、日々、SIMTを実践し、マインドフルネスな態度を身に付けて行くことが大切です。

 さて、今日は、体調や状況に応じたSIMTの学習の重点ポイントを僕なりにまとめてみました。

 特に①の部分は今日、書きたかったことです。
 すごくつらい状況の人でも、今日から、開始できることがSIMTにはあります。そして、難しいと感じる課題があっても、決してあきらめないでください。ステップを踏んで、状況が改善してくれば、少しずつできることも増えていきます。

 少しでも、読んでくださった方の参考になれば幸いです。
 今日も長文に、おつきあいありがとうございました。
 ぜひぜひ、気が向いたときにまたこのブログにお立ち寄りください。
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Author:Ko7

訪問ありがとうございます。
 

鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
自分の経験とマインドフルネスを実践する中での気づきなどを徒然なるままに書いていこうと思います。
私にとって先達者の方々のブログが参考になったように、このブログが同様に苦しんでいる方々に少しでも助けになればと願っています。

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