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コントロールしようとするのではなく、マネージメントしよう

 さてさて、どうもはっきりしない天気が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 このところ抽象的な話の記事が続いてしまいましたが、今日は、もう少し実践的なことかもしれません。

 タイトルからはわかりにくいかもしれませんが、僕自身の体験から感じたマインドフルネス実践のコツです。

 ここで書かれる「コントロール」という言葉は、「自分の力で変化させよう、思い通りい動かそう」とすることで、それに対し、「マネージメント」という言葉は、「変えようとする、思い通りに動かそうとするのではなく、そちらに合わせて対処する、調整する」といった感じでとらえていただけるといいと思います。

 僕自身、うつになる前から、何かにつけて、「コントロールしよう」としていたと思います。それは、自分の感情、つまり不安や怒り、そして体調などに始まり、まわりの状況、相手の反応、などなど、そういったものを努力して、そして自分の意志でどうにか変化させよう、思い通りにしようとしていました。
 それが努力することであり、目標にむかって頑張ることだと思ってもいました。
 そして、思ったようにならないことを、「自分の意志が弱いから」「努力が足りないから」、さらに、不安に負けそうになり、弱い気持ちを消せない自分を、「自分が弱い人間だから」と思っていました。

 そうして、そうならないことばかりの中で、疲労とストレスを積み重ねてうつになってしまい、なってからも、前向きに考えられない自分を責め、思ったように動けない自分を責め、嵐のように変化する体調に対して、「なんで思い通りにならないんだ!」と怒りを感じては、さらに体調が悪化するような日々を過ごしていました。

 しかし、SIMTを実践して、マインドフルネスを続けていく中で、そういったことをコントロールしようという気持ちを手放して、それに対して自分自身をマネージメントしていければそれでいいんだという風に考えるようになりました。

 というのは、SIMTの課題の実践を通して、生じてくる様々なことをできるだけ評価せず、自分自身を観察、洞察していくうちに、そもそも、自分でコントロールできることなんていうのは、ごくごくわずかなことしかなくて、自分自身の感情や体調でさえも、コントロールできるような代物でないという事に気が付いていったからです。

 例えるなら、それは、天候に対応するのに似ています。

 天候は、日々、変化していきますよね。
 自分がお出かけしたい、ピクニックに行きたいという時でも、かならずしも晴れるわけではありません。
 雨が降ったりする日もあります。
 そんな時、雨を止めようと努力したりするでしょうか。そんなことは無駄ですよね。エネルギーばかり消費して、ずぶぬれになってひどい目に合うだけです。
 
 雨そのものをどうすることもできません。確かに残念だなという気持ちはぬぐえません。それ自体はなくすことはできません。
 でも、小雨だったら、傘をさしたり、カッパを来たりすれば、ある程度、出かけたりすることは可能ですよね。
 ちょっとお出かけなら、明日に延期したり、キャンセルしたりできるかもしれません。
 もちろん、その結果、晴れの時のようには楽しめないかもしれませんが、晴れの時には経験できない、雨の時の美しい風景を見ることができる可能性もありますし、思わぬ雨の日セールに出会うかもしれません。 
 たとえキャンセルして家にいることにしても、家で思わぬ面白いテレビを見つけたり、ふと手にとった本から生きるためのヒントを得ることだってあり得ますよね。予定外にとった休養で、身体がリフレッシュし、翌日のお出かけは、より楽しいものになるかもしれません。

 雨が降っていることを呪って、それを止めようと必死になっているより、ずっと生産的でストレスの少ない対応が可能です。

 僕が自分自身の生活において、いろいろなことを「コントロールしよう」とするのをやめたのは、こういった感じに似ています。

 周りの環境や、他人の態度や反応はもちろんのこと、自分自身の感情や気分、そして体調さえも、自分の意志でどうにかできるものではなく、こちらはそれを変えられないものとして対処して、合わせていくしかないんだと思ったからです。

 でも、天候と同じで、対処なら可能です。

 具体的に言うと、仕事で疲れているときに、「もっと頑張れるはずだ」ではなく、「これくらいの疲れがあるから、今日は、早めに切り上げよう」とか「疲れがあるから、これくらいのペースでしかすすまないのはしょうがない、無理せずやろう」とか、怒りの感情が生じたときも、「こんなところで怒ってはいけない、抑えなくては!」ではなく、「これは自分で抱えきれないほどの怒りになっているから、だれかに話して発散しよう」とか、「少しこの場を離れて、新鮮な空気をすってこよう」とか、そういった対処が可能です。

  でも、こういった対処だけでも、天候と同じように、状況や感情、気分も常に変化していくので、時間さえかければ、晴れ間がまた除くように、状況が好転し、感情が落ち着いてくるときがあるのです。

 これが、「コントロールしよう」という気持ちを手放して、「マネージメントしていこう」という事です。

 言葉でいうのは簡単ですが、これを日々の観察の中で、観察・洞察し、実感として理解していくことが大切です。
 自分の中で変えられないことは何なのか、でも、それらに対してどのような対処が可能なのかということを、理解し見つけていくことが大切だと思います。

 日々のストレスや葛藤というのは、「自分で思うようにできるはずだ、こうなるはずだ」と思ったことができなかったり、思うようにならなかったりすることから生じていきます。
 
 SIMTの実践開始時は、ついついマインドフルネスをしていれば、自分の体調を自分の意志で改善させることができるとか、マインドフルネスを身に着けることは、自分の感情を思うように制御できると思ってしまいがちです。

 でも、僕の経験では、自分の感情や体調などをコントロールできないということを理解して、それに合わせて対処していけるようになることが、マインドフルネスなのかなと思います。
 コントロールできないといっても、そこで諦めてしまうのではなく、その状況、例えていうなら、雲の流れや雨の強さなど、天候の変化を注意深く観察していきながら、その状況に合わせ、カッパや傘で出かけられるのか、雨天決行できるのか、それとも少し延期にするか、キャンセルして自宅にいたほうがいいのか、そういったことを常に変化していく状況に応じて判断していけることがマインドフルネスな状態かなと思います。

 こう書いている僕自身も、今日のブログは、一度書き終わりそうなところでブラウザが停止し、すべて消えてしまいました。
 その瞬間は、がくんと落ち込み、とてもすぐに再開して書く気にはなれなかったので、しばらくPCの前を離れ、ほかのことをしていました。気分も落ち込んだし、「途中で一度でいいから保存しておけばよかった」などの思考がうずまきますが、今起こってしまった状況は今更変えられないし、さらには、ブラウザが停止することを前もって止められるわけでもありません。不可抗力なわけです。
 そこは、「自分の力で変化させられたことではなく、今日はそういう日だった」「その時書いたブログは消える運命だった」と手放して、しばらく自分の感情が落ち着くまで、ほかのことをして過ごしました。
 その結果、またこうやって書き始めることができました。
 
 こうやって書くと、なんでも不可抗力ということで、努力なんてしなくなってしまう気がしますが、僕の場合、「こうしなければ」とか、「自分はこうするんだ!」という気持ちを手放すことで、逆に力みが抜けて、仕事にしてもこういった趣味にしても、継続的に行っていくことができるようになり、結果的にパフォーマンスは上がっている気がします。
 前は、すごく頑張ろうという気持ちがありましたが、それがかえって邪魔して、やる気が出なくなってしまったり、手を付けられなかったり、様々な葛藤を逆に抱えてしまっていたように思います。

 もしかしてお気づきの方もいるかもしれませんが、そういった部分で、「コントロールをしようとせず、マネージメントに徹していく」というのは、前々回ブログに書いた「価値や願いを一度手放す」ということにも通じているんですね。

 ではでは、そうは言っても、最初に書いた文章の方がうまく書けているのではないかという思考は頭をよぎりますが(笑)
 その気持ちも自然なこととして、今日の文章を自分でも味わいたいと思います。

 今日も独りよがりな文章になっているかもしれませんが、少しでも参考になることがあったなら、本当にそれは僕の喜びです。
 
 では、今日はこの辺で。また書きたいと思います。

時間は実在するのか?(未来や過去なんて本当にあるの?)


 今日も、ちょっと意味不明なタイトルで書き始めてみたいと思います。
 最近の内容は、直接、マインドフルネスとは関係のないことのようにも思えるかもしれませんが、僕にとっては、マインドフルネスという状態を、きちんと実感、理解していく上では大切かなーと思っていることなので、懲りずに今日も書かせてください。

 前回で、価値や願いを一度捨ててみようというような記事を書いてきました。
 
 今日は、さらに踏み込んで、未来や過去なんて本当にあるの?という事を書いてみようと思います。

 というのも、未来や過去を考えることが絶対的に悪いことだとか、今という時間を刹那的に好きなように生きればいいんだということではなくて、「未来」「過去」そして「時間」という既成概念にとらわれてしまっている場合は、そこから自由になりましょうというお話です。

 僕らは普段の生活の中でも、これら「過去」「未来」「昨日」「明日」など、「時間」という概念を使って生活をしています。
 この概念があるからこそ、カレンダーを使って先々の予定を立てたり、以前のことを振り返って、今日、新たな作業に取り組めるわけです。
 でも、それができるからこそ、「あの時、あんなことをしなかったら」とか、「あの人にあの時にこんな仕打ちを受けたから、今の私はこんな風になっているんだ」という風に、過去を悔んだり、「このままいったら、私の将来はどうなってしまうんんだろう」とか「来週に入っているあの仕事の時に、こんな失敗をしたらどうしよう」など、未来について不安を抱いたりしてしまうことがあります。

 この時、「未来」というのは、「今」ここに存在しているわけではないし、自分の意識が、様々な情報を元に、「今、ここで」、作り出しているただの概念的な想像物であることは、わかっていただけると思います。
 確かに、様々な情報を元にして推測したことであれば、かなり正しいことのように思えるかもしれません。でも、それは、あくまで「今、ここ」の自分が、勝手に作り出した概念ですから、決して、「真実」や「事実」とは違うわけです。
 東日本大震災が起こった日も、あの地震の直前まで、いろいろな人が、いろいろな未来を想像したり、無意識に考えたりして生活していたと思います。でも、その直後に、あれだけの自身や津波がくるなんて想像ができていた人は、ほぼ皆無なんじゃないでしょうか。

 「今、ここ」で、どんな未来を想像したとしても、それは、「今、ここ」の自分自身が勝手に作り出した想像の産物にすぎません。
 なので、「今、ここ」の状況が変化していけば、この未来像も、どんどん変化していってしまいます。
 
 だから、そんな勝手な想像を「確かな事実」と無意識に信じ込んで、あれこれ思い悩むのは、無意味であることを頭で理解するのは、そう難しいことではないと思います。

 SIMTの実践をして、マインドフルネスを身に着けていくとき、決して未来のことを考えない、というわけではありませんが、この「今の自分が無意識に想像してしまう未来」というのに関しては、それが生じたときには、「思考」「想像」と名前を付けて、そこで止めるように訓練していきます。そして、「今、ここ」の状況、感覚、などに意識を戻していきます。
  さらに、実践が進むと、そのような「思考」「想像」が生まれた背景にある自分の本音や価値観に焦点をあてたりしていきますが、それは、一瞬のことです。

 自分の勝手な想像の中で、あれやこれや不安や妄想を膨らませていくより、「今、ここ」の状況や、「今、ここ」でできることに意識をむけていくわけです。 
 なぜなら、「今、ここ」の状況のみが、その「未来」を作っており、実際の「未来」を変えていく方法だからです。
 しかし、その未来が現実にやってくるときには、それは、その時の「今、ここ」になっているわけです。
 だから、常に意識を「今、ここ」に焦点をあてて、「今、ここ」の課題に取り組んでいくわけですね。

 では、過去はどうでしょう。

 過去とは、「記憶」です。

 過去に起こったことは、変えようのない事実で、それは「今、ここ」でどうしようとも、もう変わらない普遍的なものだと考えてしまいがちですよね。

 でも、違うんです。「過去」というのも、やはり「今、ここ」の自分の状態や状況によって、どんどん姿を変えていくんです。

 先ほど、過去はつまり「記憶」だよ、と書きましたが、皆さんんは、自分の記憶にどれくらいの自信をお持ちでしょうか。
 実は、人間の記憶ほどあやふやなものはありません。
  
  それを証明する様々な心理学上のエビデンスはあると思いますが、ひとつに、TEDで行われた「The fiction of memory」というプレゼンを見ていただくとその一端を知ることができるかもしれません。

 そこでは、車の自己をみて、それを記憶し、その状況対して質問に答えるという課題があったかと思います。
 その時、質問の仕方を、「車が衝突したとき」として聞くのか、「車が激突したとき」と前ふりして聞くのかでは、聞かれた人が答えるスピードの速さが、有意に変化してしまうというものだったと思います。
 
 みんなが同じ映像をみて、それも「しっかりと記憶してください」という前提のもとで覚えたものでも、「今、ここ」の質問の仕方一つで、簡単に内容に変化がみられてしまうわけです。
 
 さらには、このような質問に誘導された本人は、その誘導にはまったく気が付きません。

 そのようにして、目撃証言というような裁判の証拠として使われるようなことでも、簡単に誘導や記憶の改変が行えてしまうわけです。そうして冤罪が作られてしまうわけですね。

 そうじゃなくっても、過去のつらい体験も、「今、ここ」の状況が自分に肯定的に感じられる状況であれば、人は、「あの時があったからこそ、今の自分がある」などとかたります。しかし、「今、ここ」の状況が自分にとってつらいものだと、「あの時、あんなことがなければ」と人は語りたがります。

 確かに、「過去」というものは、僕らが「今、ここ」に生きている以上、確かにあったものかもしれません。
 でも、我々の意識というのは、その「過去」を完全に再現したり、自分の意識の中に「記憶」としてとどめて置けるわけではなく、そのごく一部しか、とらえておくことはできないわけです。
 さらに、その一部も、プリントした写真のように変化しない決まったシーンをとどめておけるのではなく、水の上に浮かべられた絵具の模様のように、どんどん変化する曖昧なものです。

 だから、「過去」というものが実在するわけではなく、「今、ここ」の自分の意識の中に、その「過去」の残さ、すでに原型をとどめていないカスのようなものが、漂っているだけなわけです。

 そうすると、ここでも、「未来」について書いたときと同じように、そんなあやふやな「カス」みないたものを、絶対的な事実として、いつまでも、繰り返し思い出して、考え続けることは、あまり意味のないことだというのがわかるかと思います。
 もう、使い古してボロボロになり字さえ見えないような地図をもちながら、その地図だけをもって、道路を歩いているようなものです。そんなものを見続けるより、「今、ここ」の状況で、落とし穴はないか、危険な車は迫っていないか、まわりをしっかり見なくちゃなりません。
  
 だから、SIMTでは、「過去」に対しての扱い方も、さきほどの「未来」の時と同様です。

 繰り返し、無意識に自分の意識の中に過去の記憶がよみがえって来たりする時も、それに気づき次第、「記憶」とか「映像」とか名前をつけて、そこで中断し、「今、ここ」に意識を戻していきます。
 なぜなら、自分が「過去」と思っているその映像を作り出しているのは、「今、ここ」の自分だからです。「今、ここ」の自分と向き合い、できることをやっていくことで、結果的に、「過去」と思っている自分の記憶、そしてその意味が、変化していってしまうからです。

 以上のような感じで、僕は、「過去」や「未来」というのが、事実ではなくて、「今、ここ」の自分が作り出したものだというのが少しお分かりいただけるかと思います。

 そうやって考えると、「時間」ってなんでしょう?

 僕らは、普段、「時間」という概念を使って、生活しています。
 1時間は、60分で、1分は、60秒で、それは変わることなく、世界を支配しているルールのように思えます。
 そして、過去から未来に向かって、時間はだれにとっても平等に流れているように感じています。

 でも、同時に、同じ1時間や1分であろうとも、それは、すべての人に同じような意味を持つものではないことは、だれもが実感できるところだと思います。
 好きな人と一緒にいるときの1時間はあっという間なのに、嫌いな先生のつまらない授業を受けているときの1時間は、永遠に続くのではないかと思うほど長く感じたりします。
 そんな経験はだれもがお持ちではないでしょうか。

 なぜなら、「時間」というもののもつ価値や意味も、「今、ここ」の自分の状況や価値によっていくらでも変化してしまうものだからです。

 アインシュタインがいうまでもなく、時間は「絶対的なもの」ではなく、「相対的なもの」なんですね。

 それは、まるで、「国境」や「お金」のようなものかもしれません。

 確かに「国境」や「お金」という概念は、僕らが生活していく上では便利なものです。

 しかし、地球のどこを眺めても、「国境」という名の絶対的な線は存在しないわけです。僕らが勝手に決めて、フェンスを立ててみたり、検問を設けたりしています。「~人」といのも、勝手に人間が作り出した概念にすぎません。

 お金だってそうです。1万円札そのものには、1万円の価値はまったくありません。あれは、あの紙幣を国が保証して、その価値を認めているからこそ、みんなその1万円札をほしがるわけですが、その前提は絶対的なものではありませんから、国が崩れてしまえば、紙幣なんて、なんの意味もないものになってしまいます。
 日本にいると、ついつい忘れてしまいそうですが、そういう視点で、1万円札の束をもってニコニコしている姿は、滑稽に見えるかもしれません。それでも、ぼくらは、その1万年札に1万円の価値があると思って、ときに殺人さえ起こったりしてしまうわけです。

 「時間」というのも、そのようなものの一つだと思います。もう、無意識に絶対的なものだと思いがちですが、時計のない時代から、この世や続いているわけです。
 そんな時代も、みんな生きていたわけです。との時は、「今」という時間しかありません。
 その「今」をどう生きるかということに集中していたはずです。
 そういう視点で言うと、「過去」も「未来」も、「今、ここ」の自分が作り出した妄想なんですね。

 僕らには、常に「今、ここ」という時間のみが存在しています。

 だからこそ、意識の焦点を「今、ここ」に合わせて、生きていきましょう。

 今日は、「過去」「未来」ということから、絶対的な「時間」というものはあるのか?という事について書いてみました。

 マインドフルネスの実践において、「今、ここ」に焦点をあてる理由みたいなのが、よく理解できるかなと思って書いてみました。
 だからこそ、マインドフルネスでは、問題を解決していくのに、原因とか結果とかにはあまりこだわらず、「今、ここ」に焦点を当てていくのではないかなーと思ったわけです。

 しばらくちょっと抽象的なお話が続いていますが、少しでも参考になったなーと思ってくれる方がいたら幸いです。

 ではでは、今日はこの辺で。
 また、時間のある時に書きたいと思います。

 最後まで読んでいただいてありがとうございました! 

※ あくまで「過去」の記憶や「未来」の不安などが悪いといっているわけではありませし、その記憶は嘘だとか間違いだとか言っているわけではありません。
  そういったものは、無意識にぼくらの意識に浮かんできますし、繰り返しでてくるそれらを完全に抑え込むことは不可能でし、抑え込もうとすれば、逆にとらわれます。
  しかし、それらを無意識に「事実」だと思い込んしまって、とらわれていることに「気づく」のが大切なのではないかということを提案したいだけです。

 自分の記憶や思い出を呼び起こしたり、それをついつい考えてしまうことを、悪いことだと自分を責める方向に行ってしまわないように、念のため、追記させていただきました。
 

価値や願いを一度捨ててみよう! 上級編(回復後の話)

前回は、価値や願いを一度捨ててみようというテーマで、実践のやり始めに出やすい葛藤や苦しみを、価値や願いという観点から解説してみました。

今回は、ある程度、自分の症状が改善し、自分の中の衝動や本音と付き合いながら生活をしていけるようになっても、まだ「価値」や「願い」といったものが、自己を深めていくうえで障害になりうるということを書いていこうと思います。

SIMTで自己洞察を深めていって、自分の病気や症状の特徴がある程度掴めて、そういったものと付き合っていけるようになると、生きていくことが、そして生活していくことがだいぶ楽になってきます。
様々な症状やストレスがあって、それに対して、様々な感情や衝動が起こっても、その中である程度、自分の価値にあった、そして価値を実現する方向への行動というものが選択できるようになってくるんですね。
もちろん、毎回、価値実現の行動をできるわけではありませんが、そういった選択、行動をできることが増えていきます。
そんな中で症状も少しずつ落ち着いていきます。

しかしですね、そういった生活をして、自分なりにある程度満足のいく行動がとれるようになってきても、生活の中でやっぱり葛藤や違和感を感じる状況があるんですね。
というのは、自分としては、自分の価値に基づいて、自分なりにベストだとかベターだと思った行動をしたのに、自分の中に怒りや戸惑いといった感情が出現するような状況に気づくことが出てきたんです。
そんな自分を洞察すると、それは、それまでのように、自分の衝動的反応とか本音に基づいた評価の結果生まれた感情、つまり「こんな衝動的な反応をするなんて、俺ってダメだな」というものではなく、自分が洞察の結果、できるだけ本音や独善を交えない形で築き上げてきた価値に基づいた行動の結果としての感情、もし言語化するならば、「この状況で、洞察をして、一番良いだろうという判断をしたのに、なんでこんなに理不尽な対応をされなくてはならないんだ」といった感情であることがわかりました。

そういったできるだけ偏見や独善的な基準を排除した価値にもとづいた行動で、それまで体調も改善し、自己実現に結びつく結果につながってきたはずです。

最初は、なぜ、そういった感情が生じるのか自分でもよくわかりませんでした。
でも、確かにそういったことが時々あり、自分の中でそういった感情の置き所に困ることがありました。

ただ、その感情を抑え込もうとすると、それはさらなるストレスを生み出してしまうので、そこはSIMTのマインドフルネスな態度を貫いて、「今、自分はこういうつもりで行動して、結果としてこんな感情が、これくらい生じているんだなあ」と観察して、そこから「なんでだろう」ということを、ついつい考えたくなるのですが、深追いしないように、できるだけそのままにして、流して様子をみていました。

そうするうちに、あることに気がつきました。

僕が価値に基づいて行動した時に、その価値が、誰か他の人の価値とぶつかった場合、どうやらそのような感情が浮かびやすいことに気がついたのです。
価値に基づいた行動をするときの価値とは、SIMTの洞察をしながらの価値ですから、できるだけ1人よがりの価値ではなく、その状況やそのときの相手にとっても、良い結果を招くだろうと判断しての価値です。
だから、多くの場合、状況にあった、相手がいる状況でも、その場にいる人がある程度、みんな受け入れてくれるといっった場合が多いです。そして、それまでは、その結果、まわりの人にも喜んでもらえて、自分の喜びにつながっていくことが多かったのです。

しかし、まれに自分が良かれと思って選択した価値や行動が、受け入れてもらえなかったり、誰かの価値とぶつかってしまうことがあります。
特に、自分が色々な角度から洞察した上で、絶対にこの判断がいいはずだ!と思ったときであると、それが拒絶されたり、受け入れてもらえなかったりしたときに生じる憤りや怒りの感情も、とても強くなります。

そんなときに「こんな良い選択をしているのに、なんでそんな理不尽な対応をされなけならないのか」とか、「なんでこんな理不尽な状況にいなくちゃならないのか」といった憤りの感情が心に渦巻いてしまうわけです。

でも、読んでいる方はもうお気づきかもしれませんが、「こんな良い選択をしているのに」といったときに、その中に多かれ少なかれ自分の偏見が入ってしまっているわけです。
もちろん、それを完全に取り除くわけにはいきません。
でも、それで憤りを感じてしまうということは、その後ろに「私の判断したこの事は、絶対にただしい」という本音が働いているわけですね。

どんなに正しく見えることでも、本当にそれが正しいかどうかは、それを判断する人によって変わります。
例えば、食べ物に飢えている戦時下の子供に、食べ物を与えることは正しいように思えますよね。
でも、その子供がたまたま他で食べ物をもらってお腹いっぱいだったり、たまたま体調が悪くお腹の調子が悪くて食べ物が食べれないときかもしれません。
そんなときに、食べ物を渡されても実は迷惑だったりするかもしれませんよね。
しかし、そんな事情をしらないとしたら、食べ物がないだろうと思って差し出した食べ物を断られたら、
「なんでせっかくあげようとようとした食べ物を拒否するんだ!」と憤りの気持ちが生じませんか?

確かに、丁寧にその状況の説明をいってもらえれば、納得するかもしれませんが、そうでなければ憤りのが生じるはずです。場合によっては、その状況を聞いてもすっきりしないモヤモヤが残るかもしれません。

SIMTを続け洞察を続けていくと、自分の価値や願いも磨かれていきます。
しかし、自分が自由に動けるようになってくると、ついつい自分の価値や願いが素晴らしいものだ、さらには絶対的なものだと勘違いしてしまうことがあります。


そういった状況に応じて適切に動けるようになった自己は、西田哲学においては意志的自己を超えて、叡知的自己といいます。そのような自己は、行為的直観といい、様々な状況において、見た瞬間に独善的な判断を離れ、適切に判断をし行動ができるようになります。

しかし、自分自身の判断、評価を絶対としてしまうと、そこに間違いを起こしてしまう落とし穴があります。
自分の正しさを押し付けて、他の人の価値や判断が認められなくなってしまいます。
そうするとそこで、自己の成長は止まってしまいます。

やはり、ここでも、「自分の価値や願いを一度すててみる」という態度が必要になります。
例え、自分が正しいと思っても、そこで、一度、自分の正しさや価値を横において、状況を改めて落ち着いてよくみみることです。決してその憤りを起こさないようにするのではありません。
自分の価値を否定されれば、だれでも気分が良くはありません。
ただ、そこで、自分の価値を押し付けるのではなく、それを一度、横において、状況をただ良くみていきます。そして、待ちます。
そうすることで、今まで自分が気がつかなかった背景や、さらには、自分がそれは間違いだと思っていた判断も、状況によっては、必要な判断であったことに気がついて、さらに自分の幅を広げるきっかけになるかもしれません。

むしろ、自分の行動が自由になっていけばいくほど、憤りを感じるような場面にこそ、自分の成長をもたらすきっかけが隠れていることがわかってきます。

さて、今日は、自己洞察が進んできた先にも、「価値や願いを一度すててみる、横においてみる」という態度が大切なんじゃないかということを、例をあげながら書いてみました。

ちょっと西田哲学などわかりにくい言葉も出てきましたが、大切なのは、頭で理解することではありません。
SIMTでは、初心者も、経験者でも、基本的には行っていく実践の内容に変化はありません。
丁寧に丁寧に、実践の内容を深めていけば、理解は自然とあとからついてきます。

ぜひ、日々の実践を大切にお過ごしください。

ではでは、また時間のあるときに書いてみようとおもいます。
お時間のあるときに、ぜひご訪問ください。

価値や願いを一度捨ててみよう!

早いもので、前回のブログよりすでに一か月たってしまいました。

今日は、価値や願いを一度捨ててみよう!というテーマで書いてみたいと思います。
「価値」や「願い」というものは、だれでも持っているもので、決して悪いものではありません。セッション4でも、「価値」と「願い」をしっかりと確認し、実践を続けられるモチベーションを維持することが大切なことが取り上げられています。

しかし、この「価値」と「願い」というのの扱い方を間違えてしまうと、自分自身をどんどん苦しめてしまうことになりかねません。
なので、今回は、この「価値」と「願い」というものとどのように付き合っていくかということを書いてみようと思います。

僕が、この「価値」「願い」について考えていく中で、大きく、実践をやりはじめの初心者と、しばらく続けた実践者、中級者の方とで、「価値や願いを捨ててみよう!」という理由が少し違うように感じました。なので、まずは初心者向けの「価値と願いを捨ててみよう」について書いてみようと思います。

 うつや不安障害を治そうと思ってSIMTに取り組んでいる方々において、この「価値」「願い」というのは、とても重要かと思います。
「早くよくなりたい!」「この体調から抜け出したい!」「早く仕事に戻りたい!」「仕事じゃなくても、まともに生活できるようになりたい!」などなど。
 
 かなり切迫した強い願いをお持ちではないでしょうか。

 しかし、その願いをあまり強く持ちすぎると、自らをどんどん苦しめる結果になってしまいます。
 なぜなら、それはあくまでも、「長期的目標」、目指す先であり、今すぐかなえられるようなものではないからです。
確かに、目的、目標は大切です。これがなかったら、どこに向かえばいいのかわからなくなるし、これがあるからこそ日々頑張れるわけです。だから、この「願い」そして「目標」といったものを持っていること自体は、決して悪いことではありません。
 ただ、それが、今すぐかなえたい目標、つまり短期的目標になってしまうと、何かと不都合が起こってきます。

 なぜなら、その理想像が、今すぐ可能ような状況なら、あなたは今ここで、うつや不安障害などで苦しんでないわけです。
 今までそこから抜け出そうともがいてきたのに、それができないから苦しんでいるわけです。そんな中で、この目標や願いだけが独り歩きしてしまうとどうなるでしょうか。
 「こんな自分でありたい」という理想像がどんどん強くなり、どんどん目標が高くなればなるほど、今の自分とのギャップは大きくなってしまいます。そして、人が落ち込んだり、不安になったりするのは、この「理想像と今の自分とのギャップ」によって引き起こされます。だから、このギャップが大きくなればなるほど、無力感も強くなります。

 そこで、SIMTにおけるマインドフルネスというのの定義を思い出してみましょう。
 マインドフルネスというのは、常に「今、ここ」の自分を独善を排して観察・洞察し、その上で、判断、行動をしていくものです。
 あくまで、観察や洞察の対象は、「今、ここの自分」なんですね。
 「価値や願い」「目標や理想像」というのを持つこと自体は問題ないのですが、そればかりを意識して、自分の思考作用が作り出している幻ばかり追いかけていっても、「今、ここ」を観察するマインドフルネスからはどんどん離れていってしまうばかりです。

 しかし、我々は、幼いころから、今の自分よりもっと高い理想や目標をもって、それに向かって努力することを教育され、しつけられてきました。今の自分に満足することは、おごりや怠慢といった風にすら考えられてしまったりします。
 だから、ついつい、何をやるときにも、この「理想像」や「目標」を作りたがってしまいます。
 
 身近なところで言えば、座って瞑想をやるとき、「~分できなきゃダメだ!」とか「もっと気分が良くなるはずだ!」とか。
 実践を続ける中で、「これだけやっていれば、もっと体調がよくなるはずだ!」、仕事を始めれば、「毎日、朝から夕方までフルで仕事をしなくちゃ」とか。
 ついつい、いろいろと勝手な「価値や願い、目標、理想像」を定め、そうできないことに落ち込んでしまいます。
 そして、それが達成できない自分をダメだと評価して、苦しくなってしまいます。

 ここで、注目しなくてはならないのは、「~であるはずだ」という理想像の方ではなく、そうてきない自分自身の状態の方なのですね。「今、ここ」の自分自身を観察して、「今の自分は、~分くらい瞑想していると、やめたくなる気持ちが生まれるんだな」とか、「良くなってきていると思っていたけど、こういう日には体調が悪く感じるんだな。こういう部分はまだよくなっていないんだな」とか、「これくらいの仕事ならこなせるけど、このレベル以上に頑張ると、ぶり返しがきて体調が崩れるんだな」とか、そういう観察・洞察が、とても大切になります。

 でも、ついつい「こうありたい」ということが先になって、否定的評価をし、落ち込んでしまいます。これは、もう習慣です。
 だから、思い切って「価値や願いをすててみよう!」というタイトルにしたわけです。

 自分が、「こうありたい」「このほうがいい」などの願いが出てきたら、「いや、そうじゃなくてもいいんだよ」「まずは、今の自分をみていこう」と、次々にわいてくる願いや理想を、一度、横に置いてみる、自分の手から放してみるという事を、習慣づけていくと、実践をするのが楽になってきます。
 今日の自分には、今日の自分があり、明日の自分には明日の自分があります。今、そこにある自分がすべてです。
 頭で作り出す勝手な理想像は、一度横において、実践を続けてみましょう。

 ちょっとたとえ話で、書いてみますね。
 ある人が地方で生活していたとして、「東京に行きたい」という願いがあったとします。東京に行って、華やかな生活をすることを夢見ています。
 テレビドラマのように、「東京に行けば、こんなことができる、あんなこともきっとできる」と夢見ていますが、それを考えれば考えるほど、今の自分の境遇と比較して、気持ちが落ち込んできます。
 
 ここで、東京での生活を想像することは楽しいですが、東京での生活を調べることは夢が膨らみますが、そればかり膨らませていても、「今、ここ」の状況は、まったく変わりません。1㎜も東京には、近づきません。
 もし、真剣にその夢をかなえることを考えるなら、まず、「今の自分」を見つめなければなりません。
 今の自分が、いくら持っているのか、まずはそれが大切かもしれません。そして、今の自分に何ができるのか、生活費を稼ぐことができるのか、生活に必要な家事はできるのか、何を持っているのか、なども大切な要素ですよね。
 まずは、「今の自分の現状」をどこまでも正確に知ることが大切です。

 それが、わかって初めて、では「東京に行くためにどのような方法があるのか」という事が考えられるわけです。
 
 ポケットに500円玉1枚しか入っていないのに、「今日中に東京に新幹線で行きたい!」といくら願ってもかなえられません。
 今の自分が500円しか持っていないのを確認した上で、では、銀行口座にはいくらあるのか、そして、今後どのように、いくらくらい稼げばいいのか、そして、自分はどれくらいの収入を得られるのか、そういったことを現実的に考える必要があるわけです。

 そうすると、1㎜も東京に近づいていなかったのが、「この500円で、まずは、駅を2つ進もう」という判断がつくかもしれません。そこで、少しアルバイトをしてお金をためたら、何日か後には、もう少し進めるはずです。
 もちろん、これが最善の方法とは言えないかしれませんし、最初の駅で、まずは進まずにお金を貯めるという選択しもあるでしょう。
 でも、ただ東京に行くことだけに嘆いて日々落ち込んでいるより、ずっと現実的ですよね。

 このようにSIMTでも、いつかよくなる日を夢見て、その時の生活を思い描くのもいいのですが、そればかりを見てため息をつくのではなく、そのような願いを胸にそっと収めつつ、今の自分がどのような状態なのか、どのようなことが可能なのか、実践をしていく中でどのような変化が起こってきているのか、といったことを偏見のない目で観察しながら、実践を続けていくことが大切です。
 そうすることで、日々の実践の苦しさ自体も和らぎ、少しでも前に進めているという感覚も生まれてきます。それがわかるまでは、理想とのギャップにため息をついてしまう自分も含めて、自分を許してあげましょう。

 そして、二つ目の理由があるのですが、SIMTを経験したものとしていえることは、実践を続ける中で、「価値や願い」というもの自体もどんどん変化していってしまいます。だから、苦しい時期に思いつく「価値・願い」といったものに、あまりこだわる必要性自体がないともいえるのです。
 僕自身、うつ病で苦しんで仕事もできず家にいた時期は、本当に苦しかったです。そういった時の自分は、視野自体もすごく狭くなり、思考作用や心の働き自体も落ちているので、その状況で考える「価値や願い、理想像、目標」といったものは、実は自分が本当に思っている価値や願いではなかったりします。もしくは、本来の願いのほんの一側面だけだったり。
 
 例えば、そのつらかった時は、「とにかく家族を養って生きていくために、なんでもいいから仕事して養っていければそれでいい」「そして、そのためには、なんとか常勤で働く正社員のような仕事をしなくては」と考えたりしてました。
 実際に、そのために、早く現場に戻ろうとし、そしてダウンするのを繰り返したわけです。
 そこで、SIMTを実践し始めてみると、そもそも、そんなことができる状態じゃないのが分かってくるわけです。まずは、その段階で、今まで自分が考えていたことと、現状の自分とのギャップに落ち込むわけです。
 しかし、それでも実践を続け、自分を観察していくと、だんだん調子の波もわかってきて、一部、アルバイトのような仕事もできるようになります。そして、どんな仕事でもいいわけではなく、やはり、自分にはやりやすい仕事とストレスがたまりやすい、体調が崩れやすい仕事内容がわかってきます。そして、ある程度、お金を得られて暮らせるようになったら、別に正社員とか常勤とかにこだわらず、自分の体調を維持できる、比較的自分がしたいと思えるような仕事でまずはやっていけるようになりました。そうすると、別に「常勤であることや正社員であること」は、自分がやりたいこととイコールではなくて、それをかなえる手段がそれだけしかないと勝手に思い込んでいたからだなというのもわかってきました。
 そして、今も、ついつい勝手に考えた理想像を膨らませて、やりすぎて調子の波がでてしまうこともまったくなくなったわけではありませんが、仕事と生活のバランスを取りながら、ある程度、自己実現の方向性も見つけ出せつつやれています。

 先ほど、東京に行くというたとえ話をしましたが、現実の世界では、未来まで自分の生き方を示す完全なマップというものやマニュアルがあるわけではありません。
 今、ここから見える山の頂が、目標や価値にあたるようなものです。あんまり遠くの山の頂を目指しても、なかなか近づかずに苦しいだけです。それを遠目に見つつも、まずは、あの山の方向のあの峠を目指そうと、考えながら今いる自分の場所からの道、そして、行く方法を見つめていきます。しかし、その山を目指して日々進んみると、さらに遠くの山が見えてきたりします。
 そして、気づくと、遠くの山もいいけど、自分が求めていた生活は、その途上の村にあったなんてことが出てきます。
 
 「仕事に戻りたい」「結婚さえできたら」「子供がほしい」「あとこれくらいお金があったら」「この病気さえなかったら」いろんな願いがあると思います。でも、今、あなたが頭で描いていることは、あなたが本当に願っていることのほんの一部、ただの一側面なのかもしれません。

 一度、そういったこだわり、「願い」「価値」を横に置いて、「今、ここ」の自分を眺めてみましょう。
 今は、不満ばかりがたまる自分かもしれませんが、きっと時間とともにそんな印象も変化していくはずです。

 今日は、まず、SIMT実践し始めのころに大切と思われる「価値、願いを捨ててみよう!」というテーマで書いてみました。

 できれば、次回は、SIMTを実践し、ある程度改善して、自分の本音をさらに探っていくという段階においても、この「価値や願いを一度捨ててみる」という事が、意味あることなんじゃないかなと思う理由について書いてみたいと思います。

 書き始めると一気に書いてしまうんですが、なかなかそこまでが。。。。
 まあ、マイペースにやっていきたいと思います。皆様も気が向いたときにお付き合いくださいませ。
 
 ではでは今日はこの辺で。

まずは三次感情に着目しよう!

すっかり1か月近くがたってしまいました。大きな仕事がひと段落したので、また書き始めたいと思います。

今日は、「三次感情に注目しよう!」というテーマです。
特に、実践をしはじめのころ、まだまだ体調の状態がすぐれないころには、ここに注目するといいんじゃないかと思います。

この「三次感情」というのは、セッション3で課題として出てきます。

呼吸法の実践、注意の分配や心理現象への名前付けなど、セッション1、2の中で習っていって、その後にでてくる課題です。

僕は、個人的には、ゆっくり呼吸法をしっかりと身に着け、それを繰り返し実践していくこと、そして、この三次感情を見つけて、そこからの思考の連鎖をある程度予防できるようになると、それだけでも初期の体調の悪さがだいぶ改善するんじゃないかと思っています。

ちなみに、わからない方とために説明すると、
一次感情・・・・・何かその場で起きたり、言葉を言われたり、見たり、聞いたりしたときにまず出てくる感情のこと。
二次感情・・・・・一次感情の結果として自分が起こした反応や行動に対し、返された反応として生じた感情のこと。
  例:相手の言葉に対し怒りが芽生えたため(一次感情)、怒鳴ったところ、無視されたためさらに怒りが強くなった(二次感情)

三次感情・・・・・一次感情や二次感情が生じたところから、時間的、空間的に離れたところで、思い出したり考えたりしたことにより生じる感情。
となっています。

ここで、一次感情、二次感情は、かなり強力な感情なので、最初のうちからコントロールしようと手を出したりしてはいけません。
これらは、結果として起こっているので、起こってしまった時点でもう消すことはできないものです。それを何とかしようとか、止めようとすると余計体調を崩していく結果となります。

そこで、三次感情なのですが、この三次感情というのは、日常生活の中でかなり頻繁に起こっていることなのです。これは、日中の洞察訓練を積んでいkとわかってきます。
 「感情」というと、泣いたり、笑ったり、どちらかというと激しいものを連想させるため、頻繁に起こっているといわれても最初は気が付かないかもしれません。しかし、ちょっとした気分の変化も含めて感情ととらえていくと、この三次感情というのは、すごくたくさん生じていることに気が付いていきます。

 そして、この三次感情のポイントは「今、ここ」ではないことです。

 うつや不安障害では、この「今、ここ」ではないことに対して、繰り返し思考や映像を思い起こして、気分を悪化させているという特徴があります。例え、無意識であっても、このことが繰り返されています。その結果として、体調を悪化させたり、希死念慮を生じたりしています。

 そこで、「感情」の変化に着目して、とにかく、日常生活の中で、自分の「気分」や「感情」が少しでも動いた時を徹底して洗い出すのです。
 まずは、まずは動いた時を発見できれば、それでいいです。実は、「感情」というのも、すでに結果なので、三次感情といえども、生じてしまったものを止めることはできません。まずは、感情が動いたことに気が付けるようになることが大切です。

 そして、ネガティブな三次感情に気が付いたら、そこで、すぐに呼吸法を始めましょう。意識が感情にひっぱられて、さらなる思考をめぐらし、三次感情をどんどん悪化させる前に、呼吸に数分~数十分、意識を向け続けて呼吸法を行い、自律神経の波がさるまで時間稼ぎをしましょう。

 おそらく、これに徹底して取り組むことで、初期には体調の悪化がだいぶ予防されるんじゃないかと思うのです。
 やはり、ここでのポイントは、起こってしまった感情は止められないという事です。
 「覆水盆に返らず」です。
 生じてしまった感情は、こぼれた水と一緒です。もうこぼれてしまった水を、お盆に戻すことはできません。またこぼれた水を多少拭くことはできても、濡れてしまった床を完全に乾かすことはできません。こぼれた水を何とかしようと必死になると、さらにお盆から水がこぼれていって、被害は大きくなります。
 乾くには、時間を待つしかないのです。今の水がそれ以上にこぼれないようにじっと乾くまで待たなくてはいけません。

 ここがポイントです。怒りが生じてしまった時、落ち込んでしまった時、それに気が付いてがっかりしてしまいます。
 気が付いたときには、どうしようもないくらい感情が膨らんでいるときもあります。
 しかし、そこで、たとえがっかりしてもいいんですが、それを無理やり抑え込もうとか消そうとか、どうにかしようとしないことが大切です。
 
 そこで、呼吸法があるんですね。できればゆっくり呼吸法を心掛け、ついついこぼした水(すでに生じてしまった感情)に向かってしまいそうな意識を、呼吸の方につなぎとめて、ひたすらそれを続けることで、自律神経の興奮や暴走が自然に落ち着いてい来るのをゆっくり待つしかないんです。

 すごく受け身な対応のように感じますが、これを徹底的に身に着けていくことで、ある程度、体調の波をしのいでいくことができるようになり、その結果、気持ちに余裕も生まれて洞察がしやすくなってきます。

 これができてこないうちに、無理に深いレベルまで洞察をしようとしても、そのこと自体が体調や感情の波を起こす結果となり、逆に体調が悪化してしまうことさえあると思います。だから、ここを徹底的に取り組んでいくことは、特に初期では大切なことだと思うんです。
 初期とは言いましたが、セッションが進んで本音の観察など、難しい課題が増えてきても、「やばい」と思った時に、この対応がとれると、それだけで体調をある程度、戻していくことができるようになります。大崩れしにくくなるということですね。困ったときに、戻れる安全地帯を自分の中に作れるのです。

 まずは、こういったように、三次感情にとにかく注目し、それが起こっていることに気がついていきます。そして、そこからさらに思考の連鎖、感情の連鎖を生まないように、呼吸法、傾注観察で対策をとっていきます。

 そして、それができるようになってきたら、次のステップです。
 それは、その三次感情が起こった直前、および直後に起こっている自分の中の連鎖を観察していくということです。
 先ほど、感情は結果だといいました。
 「感情」というのは、それが単体で起こっているのではなく、かならず何らかの連鎖の結果として生じてきます。つまり「感情」が動いている時には、かならずそこに連鎖が生まれているのです。
 その連鎖とは、どのような連鎖なのか、それを注意深く観察していきます。
 あまり具体的に書くと、そういうものだと思って、ついついそのような連鎖を探したくなってしまいますので、あえて書きませんが、自分の中で起こっていることに、丁寧に名前付けをしていく作業を、繰り返し繰り返しやっていくことが大切です。

 そうすることで、自分の中で感情が生じるきっかけとなっている事、そしてそのパターンなどが見えてくるのです。
 ここで大切なのは、そのパターンを無理に探そうとしないことです。探そうとしてしまうと、自分から「こんなパターンがあるんじゃないか」「俺ってこんなことを考えているかも」など自分で考えた出したものをパターンと認識してしまう可能性があります。
 洞察で得られる気づきとは、あまりそういったことではありません。
 ただ、名前付けの実践を繰り返し繰り返し行っていった結果、「あれ、こんなことを考えてた」と、思わぬ気づきがある場合こそ、価値ある気づきであることが多いです。
 ただ、ただ、実践の事実を積みあげていくことが大切です。

 そうしたパターンが分かってきて、初めて、従来生じていた感情や反応が起こらなくなったり、変化していくような判断や行動といったものが可能になってきます。

 特に実践初期は、「早く良くなりたい」「治したい」という気持ちが大きいので、こういったステップを駆け足で上りたいという焦りが生じてしまいます。
 でも、あえてそういった気持ちを横に置いて、ただ淡々と、課題の実践の積み重ねを続けていくことが大切です。
  
 そうした先にこそ、上に書いたような様々な変化や、実感を伴う改善を得られることだと思います。

 今日は、「三次感情に注目しよう」というテーマで、実践初期の日中生活時における洞察の目の付け所を解説してみました。
 
 またぼちぼち更新をしていくので、よかったら読みにきてください。
 ではでは失礼いたします。
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鬱になって苦しんでいたときにマインドフルネスと出会いました。
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